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星風の国物語 〜少女王と見習い書記官の政務録〜  作者: 月森みのり
第七章 商旗の約束

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第三十九話 港町の潮流

潮は流れ、人は動く。その営みが国となる――


【国を支えるものは、船でも、港でもない。

 それらを動かす、人である。


 数字は国の姿を示す。

 だが、人々の息遣いは、現場でしか見えてこない。


 ――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】



 迎賓館の窓から差し込む朝の光が、机の上に広げられた資料を淡く照らしていた。

 港から届く汽笛が、朝の静けさをゆるやかに揺らす。


 机の上には、公国から受け取った交易案と、一冊の手帳が並べられていた。

 ルシアンは椅子に腰掛けたまま、その手帳へ静かに目を落としている。

 頁には、細かな文字が隙間なく並んでいた。


 星喰い病患者の経過。

 医局長ミレーユ・アスターの説明。

 そして、研究段階にある薬――星泉についての走り書き。


 昨夜から何度も読み返した頁だった。

 ノアは湯気の立つ茶器を机へ置く。


「眠れましたか」


 ルシアンは視線を手帳から上げ、小さく笑った。


「おかげさまで」


 そう答えながらも、手帳は閉じない。

 紙面を指先でなぞり、ひとつ頷くと、ようやく静かに表紙を閉じた。


「やはり、現場を見るべきですね」


 ノアも頷く。

 扉を叩く音がした。


「失礼いたします」


 セドリックが部屋へ姿を現す。

 冬物の外套をまとい、その肩には朝の冷気がまだ残っているようだった。


「お待たせしました。本日は港をご案内いたします」


 ルシアンは立ち上がり、外套を羽織る。


「ありがとうございます」


 短く礼を述べると、手帳を机の上から取り上げ、ノアへ返した。

 そして、一拍置いてから口を開く。


「一つ、お願いがあるのですが」


 セドリックが視線を向ける。


「港と街を見学した後、可能であれば医局も見せていただけませんか」


 部屋が静まり返る。

 窓の外では、遠く船の汽笛が鳴った。

 セドリックはわずかに考えるように目を伏せる。


「……医局、ですか」


「ええ」


 ルシアンは穏やかな口調のまま続ける。


「医療現場の実際の様子も、自分の目で確かめておきたいのです」


 セドリックはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「承知しました。診療の妨げにならない範囲にはなりますが、ご案内いたしましょう」


「ありがとうございます」


 ルシアンは微笑んだ。


 ほどなくして迎賓館を出ると、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた。

 石畳の通りを荷車が行き交う。

 樽を積んだ馬車が軋み、道端では商人たちが朝から声を張り上げていた。

 

「こちらです」


 先頭を歩くセドリックが振り返る。

 三人の前には、アルヴェイン最大の港が広がっていた。


 岸壁には大小さまざまな船が並び、帆柱が林のように立ち並ぶ。

 荷を抱えた作業員たちが絶え間なく行き交い、荷車は列をなし、倉庫の扉は次々と開閉していた。

 昨日、宿の窓から見た景色と変わらぬ賑わいだった。


 ルシアンは足を止め、港全体をゆっくりと見渡した。

 視線は船から倉庫へ。

 倉庫から荷車へ。

 そして働く人々へと移っていく。


「いかがですか」


 セドリックが尋ねる。

 ルシアンはすぐには答えなかった。


 一人の荷役夫が、大きな木箱を二人で運んでいる。

 その脇では、年配の男が若い作業員へ何度も指示を飛ばしていた。

 少し離れた場所では、別の荷車が到着しているにもかかわらず、荷を受け取る者がおらず、そのまま足止めされている。


 港は忙しく動いている。

 だが、その動きはどこか噛み合っていなかった。


 ルシアンは静かに口を開く。


「船は予定通り入港していますね」


「はい」


「荷も集まっている」


「ええ」


 ルシアンは倉庫の前へ視線を向けた。


「ですが、人が足りていない」


 セドリックは何も答えなかった。

 代わりに、港の奥を見つめる。

 その先では、数人の作業員が息を切らしながら荷を運び続けていた。


「以前なら、この時間帯は倍近い人数がいました」


 静かな声だった。


「荷役は交代で回していましたが、今は一人が二人分の仕事をしていることが多い」


 ノアは周囲へ目を向ける。

 一人ひとりの動きには余裕がないように見えた。

 荷を置くと休む間もなく次の荷へ向かう。

 倉庫の前では積み荷が順番を待ち、岸壁には出港を待つ船が静かに停泊していた。


 一見すると、賑わっている。

 だが、それは十分な人手による活気ではなく、足りない人数で支えられた忙しさだった。

 その光景を見つめながら、ルシアンは小さく息を吐く。


「やはり数字は現状を示しますが、現場の空気までは伝えてくれませんね」




 セドリックは岸壁に沿って歩き出した。


「こちらへ」


 三人は積み荷の間を縫うように港の奥へ進む。

 近づくにつれ、人々の掛け声はさらに大きくなった。


「右へ寄せろ!」


「縄を緩めるな!」


 荷を積み込む音が重なり、木箱が石畳へ下ろされるたび、鈍い音が港へ響く。

 岸壁の一角で、一人の壮年の男が指示を飛ばしていた。

 日に焼けた肌に、厚手の作業着。

 腕を振るたび、袖口から鍛えられた前腕がのぞく。


 男はセドリックに気づくと、慌ただしい足取りで歩み寄った。


「交易卿」


「朝からすみません、ギルバート」


 二人は短く握手を交わす。


「こちらはアステリア王国からお越しになったルシアン伯爵です」


 男は姿勢を正した。


「港湾管理を任されております、ギルバートと申します」


「ルシアン・ヴェルクです」


 簡潔な挨拶を交わすと、ルシアンは周囲へ視線を巡らせた。


「朝からお忙しそうですね」


 ルシアンが声を掛けると、ギルバートは苦笑した。


「ええ。船は待ってくれませんから」


 そう言って、岸壁へ目を向ける。

 一隻の大型船では、荷下ろしが続いていた。

 荷を抱えた若い作業員が小走りに行き交う。

 その後ろから、白髪交じりの男が短く指示を飛ばしていた。


「本来なら、もう一本、あちらにも人を回したいところなんですが」


 ギルバートは顎で隣の船を示した。

 そちらでは荷が積まれたまま、人の姿がまばらだった。


「人手が足りない?」


 ルシアンが尋ねる。


「ええ」


 ギルバートはそれ以上は言わなかった。




 その後、彼の案内で、一行は岸壁沿いを歩いた。


 潮風が頬を撫でる。

 停泊した船の間を縫うように、人々が絶え間なく行き交っていた。


 荷を担ぐ者。

 荷車を押す者。

 積荷を帳簿と照らし合わせる者。


 港は休むことなく動き続けている。

 だが、その活気の中に、どこか歪さがあった。


 ルシアンは足を止める。

 視線の先では、一人の若い作業員が樽を抱え直そうとしていた。

 重心を崩し、樽が大きく傾く。


「危ない」


 近くにいた年配の作業員が素早く駆け寄り、肩で支えた。

 樽は音を立てて元の位置へ戻る。


「腰だけで持つな。足を使え」


 年配の男は短く言い残し、再び持ち場へ戻っていった。

 若い作業員は何度も頭を下げる。


「申し訳ありません」


 その声に返事はない。

 年配の男はすでに次の荷へ向かっていた。

 ルシアンはその背中を静かに見送る。


「……若い方が多いですね」


 ギルバートも足を止めた。


「ええ。ここ数年で随分入れ替わりました」


 それだけ答えると、彼は再び歩き出す。

 ノアも周囲を見渡した。


 荷を運ぶ者の多くは若い。

 その一方で、全体へ指示を飛ばしている者は数えるほどしかいなかった。


 船から荷を降ろす速度は決して遅くない。

 だが、一つつまずけば、その度に年長者が手を貸している。

 その姿が、あちこちで目についた。


 ルシアンは小さく息を吐く。


「……やはり数字だけでは見えないものがありますね」


 その言葉に、ノアは黙って頷いた。




 港を離れると、石畳の道はそのまま市街地へ続いていた。

 道の両側には商店が軒を連ね、魚介や香辛料、布地を並べる店先には人々の姿が絶えない。

 荷車が行き交い、店主たちの呼び声が重なる。

 

 ノアは通りを見回す。

 行き交う人々の表情は暗くない。

 子どもたちは路地を駆け回り、買い物帰りらしい女性たちが笑い声を交わしている。

 

「活気がありますね」


 ノアが漏らすと、ルシアンは小さく頷いた。


「ええ。だからこそ分かりにくいのでしょう」


 その視線は、一軒の店先へ向けられていた。

 年配の店主が、積み上げられた木箱を一人で動かそうとしている。

 何度か持ち上げようとするものの、思うように運べない。

 そこへ通りかかった青年が駆け寄った。


「おじさん、手伝うよ」


「悪いな」


 二人で抱えると、木箱は難なく店の奥へ運ばれていく。

 短いやり取りを交わし、青年はまた仕事へ戻っていった。


 その様子を見届けてから、ルシアンが静かに口を開く。


「誰か一人が欠けても、街はすぐには止まりません」


 歩みは止めないまま、続ける。


「周囲が埋め合わせる。そうして国は動き続けるのです」


 ノアは先ほど港で見た光景を思い返した。


 若い作業員を支えた年配の男。

 一人で荷を抱えようとしていた店主。


 どちらも、誰かが不足を補っていた。


「ですが、それが続けば……」


 ノアの呟きに、ルシアンは静かに頷く。


「やがて、その『誰か』も足りなくなる」


 風が街路を吹き抜け、店先の旗が揺れた。

 ギルバートは足を止め、一行を振り返る。


「この先に造船所があります」


 彼は港の外れを指差した。


「よろしければ、ご案内いたします」


 ルシアンはその方向へ目を向けた。


「お願いします」


 一行は再び歩き始めた。

 潮の匂いが、街の奥まで流れ込んでいた。




 港の喧騒を背に歩くと、潮の香りに混じって木の匂いが漂い始めた。

 やがて、大きな木造の建物が見えてくる。

 

 建屋の中では、骨組みだけの船が何隻も並び、職人たちが忙しく行き来している。

 木槌を打つ乾いた音が、規則正しく響いた。

 削られた木屑が床に積もり、樹脂の香りが辺りを満たしている。


 ルシアンは歩みを緩めた。

 視線は、組み上げられた船体から、その周囲で働く職人たちへ移る。


 一人の老人が木材の継ぎ目を確かめ、隣の若い職人へ短く指示を送る。

 若者は頷き、慎重に鑿を当てた。

 老人はすぐには手を出さない。

 しばらく見守り、僅かに首を横へ振る。


「そこを削るな」


 低い一言だった。

 若者は慌てて手を止める。

 老人は鑿を受け取ると、木目に沿ってほんの数度だけ刃を走らせた。


「……こうだ」


 若者は食い入るように手元を見つめている。

 老人は鑿を返すと、それ以上何も言わず、別の持ち場へ歩いていった。

 ルシアンはその背中を静かに見送る。


「教えているのですね」


 ギルバートは頷いた。


「ええ」


 それだけ答え、同じように老人へ目を向ける。

 しばらくして、小さく付け加えた。


「ああして教えられる者も、今では数えるほどです」


 再び木槌の音が響く。

 建屋の中では、若い職人たちが互いに声を掛け合いながら作業を続けていた。

 だが、船体の周りを見渡しても、年長の職人は数えるほどしかいない。


 ノアは自然と昨日の資料を思い出した。


 港湾作業員。

 造船技師。

 航海士。


 並んでいた職名が、目の前の景色と重なっていく。

 ルシアンは造りかけの船へ視線を向けたまま、静かに口を開く。


「技術は、荷のように受け渡せるものではありません……人がいて初めて受け継がれる」


 誰に向けるでもない、独り言のような声だった。


「教える者が減れば、育つ者も減るということですね……」


「ええ。言葉にすれば当たり前のことですが、数字には表れにくいものです」


 造船所には、木槌の音が絶え間なく響いていた。

 見学を終えると、ギルバートは一礼する。


「現場がありますので、私はここで失礼いたします」


「お忙しいところ、ありがとうございました」


 ルシアンが礼を返すと、ギルバートは軽く頭を下げ、再び職人たちのもとへ戻っていった。

 その背中を見送り、セドリックが静かに口を開く。


「では、医局へ参りましょう」




 三人は造船所を後にし、再び石畳の道へ出る。


 潮の香りは少しずつ薄れ、代わりに焼きたてのパンや香草の匂いが風に混じっていた。

 昼を迎えた街は、朝よりも人通りが増えている。

 市場では威勢のいい呼び声が飛び交い、店先には買い物客が足を止めていた。


 その賑わいを横目に、一行は街の奥へ歩みを進める。

 やがて、通りの雰囲気が少しずつ変わった。


 商店は減り、石造りの建物が並び始める。

 門柱には、公国の紋章が刻まれていた。


 セドリックが足を止める。


「こちらです」


 視線の先には、三階建ての大きな石造りの建物があった。


 入口では白衣姿の者たちが慌ただしく行き交い、薬草を積んだ荷車が中へ運び込まれていた。

 担架を抱えた二人の職員が足早に建物へ入っていく。

 その後ろを、家族らしい男女が不安げな表情で追っていた。


 ノアは思わず足を止める。

 人々の表情に浮かぶ切実さは、アステリアの施療院で見た光景とよく似ていた。

 ルシアンも建物を見上げ、小さく息をつく。


「ここが、公立医局ですか」


「はい」


 セドリックは静かに頷く。


「どうぞ、お入りください」


 重厚な木扉がゆっくりと開かれる。

 薬草の香りが、外へと流れ出した。

 三人は無言のまま頷き合い、薬草の香りが満ちる医局へ足を踏み入れた。




お読みいただき、ありがとうございます。

この話を少しでも気に入っていただけたら、

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次回もお楽しみに!!


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