第三十八話 沈黙の理由
賑わう港の裏側で、静かに広がる影が姿を現す――
【海には潮の流れがあり、国には利の流れがある。
その流れが変わる時、人は初めて互いに目を向ける。
互いに欠けたものを知り、互いに持つものを量ること。
その均衡の上にこそ、交易は結ばれる。
――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
アルヴェイン公国で迎えた朝は、王都とは違う音で始まった。
遠くで響く船の汽笛。
港を行き交う荷車の音。
石畳を踏む人々の足音。
窓の外には、港町が広がっている。
朝日を受けた海には、いくつもの船が浮かび、白い帆が風を受けて揺れていた。
その一方で、港の入口には昨日と同じように兵士の姿がある。
彼らは荷を運ぶ商人へ声を掛け、積荷を確認している。
ノアはしばらくその光景を眺めていた。
「気になりますか」
背後から声がした。
振り返ると、ルシアンが資料を手に立っていた。
「はい」
ノアは窓の外へ視線を戻す。
「繁盛しているように見えますが……どこか急いでいるようにも感じます」
「……よく見ていますね」
ルシアンも、ノアと同じようにしばらく街並みを眺めた。
「商人の目で見るなら、この街にはまだ力があります」
風が窓を小さく揺らす。
遠くで船の汽笛が鳴った。
「ですが、同時に変化もある」
「変化……」
「ええ」
彼は短く答えた。
「今日の会談では、その理由を確かめます」
政務館の会談室には、公国側の代表者がすでに待っていた。
白い石壁の部屋。
長い机の上には、いくつもの資料が並べられている。
部屋の奥では暖炉の火が静かに揺れ、冷えた空気をゆるやかに和らげていた。
中央に座る男性が、ゆっくりと立ち上がった。
整えられた黒髪には、わずかに白いものが混じっている。
年齢を重ねた落ち着きと、長く人と向き合ってきた者特有の静かな眼差しがあった。
「ルシアン伯爵、お待ちしていました」
男は穏やかに挨拶をする。
「セドリック・ヴァレンシュタイン。交易卿を務めています」
「ルシアン・ヴェルクです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
互いに礼を交わす。
席についた後も、すぐには本題へ入らなかった。
セドリックは机上に置かれた資料へ視線を落とす。
そこには、両国間で行われてきた交易品の一覧と、今回提示された協定案が並んでいた。
ルシアンもまた、静かに相手の表情を見ていた。
その横で、ノアは紙と羽根筆を用意する。
やがて、セドリックがゆっくりと口を開く。
「今回、我々がお願いしたいのは――アルヴェイン公国とアステリア王国の、今後の交易についてです」
セドリックが資料を一枚めくった。
「ご存じの通り、アルヴェイン公国は海運によって成り立つ国です」
机の上に置かれた地図へ、彼は指先を置く。
「我々は長年、周辺諸国との交易によって発展してきました」
地図には、港を中心に広がる航路が記されていた。
アステリア王国。
北方諸国。
さらに遠くの海沿いの国々。
幾つもの線が、アルヴェインの港へ集まっている。
「しかし、近年、その流れに変化が生じています」
ルシアンは相手から視線を逸らさなかった。
「輸入量、輸出量ともに大きな問題はありません。ですが……労働者の数が、減っているのです」
セドリックの指先が、資料の上で止まる。
ノアは資料へ目を落とし、彼の指先を追う。
「人手不足、ということでしょうか」
「はい」
セドリックは港湾労働者の項目を指し示す。
「三年前と比較して十五%減少しています。……特に、熟練した労働者の減少は深刻です」
別の資料が開かれる。
『港湾作業員』
『造船技師』
『航海士』
その文字の横に並べられた数字には、数年前から緩やかな減少が記されていた。
「技術を持つ者が失われれば、すぐに補うことはできません」
ルシアンは目の前の資料へ目を通し、一枚の紙を指先で押さえた。
「何が原因なのですか」
その問いに、セドリックはすぐには答えなかった。
しばらくして彼は資料の上へ視線を落としながら、淡々と言葉を重ねる。
「原因は、一つではありません。港湾設備の老朽化、航路の変化……いくつかの要因があります」
セドリックは一度言葉を区切り、一人一人へ視線を巡らせる。
暖炉の薪が、小さく爆ぜる。
「ですが、その中でも最も大きな影響を与えているのは――星喰い病です」
その言葉に、ノアの手が止まった。
羽根筆のインクが、紙の上で小さな染みを広げていく。
「発症した者の多くは、以前のように働くことが難しくなる」
セドリックの声は落ち着いていた。
窓の外では、港の喧騒が絶え間なく続いている。
「それでも、我々は国を維持しなければなりません」
ルシアンは資料に落としていた視線を、ゆっくりと上げた。
「つまり、あなた方が求めているのは……失われた労働力を補うための手段、ですか」
「それもあります」
セドリックは穏やかに頷いた。
「ですが、それだけではありません」
彼は別の資料を手に取り、机の中央へ滑らせる。
患者数の推移が記された一覧だった。
「我々は、星喰い病への対策を必要としています。一時的な支援ではなく、継続的な解決策を」
ルシアンの視線が資料をなぞる。
「……交易品そのものではなく、星喰い病への対策……ですか」
「はい。そして我々は、アステリア王国に救済を求めているわけではありません。互いに不足しているものを補い合うための、交易をしたいのです」
セドリックの迷いのない言葉に、ルシアンは両手を組んで彼を見つめた。
「不足しているもの、ですか」
「ええ。我々には海がある。そして、あなた方には……我々にはない技術がある」
セドリックはルシアンから視線を逸らさずに言った。
「――“星泉”です」
暖炉の火が静かに揺れ、薪が小さく音を立てた。
その音だけが、しばらく部屋に残る。
ルシアンは机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
そこには、アルヴェイン公国から提示された交易案が記されていた。
『海産物』
『鉱石』
『航路の利用権』
『星泉の供給』
「……確かに、公国には我が国が求めるものがあります」
ルシアンは目を伏せ、続ける。
「しかし、“星泉”は未だ研究段階の薬です。アステリアでも、市場には流通していません」
「承知しております」
セドリックはすぐに答えた。
「ですが、我々にも時間がありません」
その言葉に、ルシアンは目をわずかに細める。
「……そこまで人手が失われているのですか」
その問いに、ノアは思わず息を呑んだ。
セドリックは静かに口を開く。
「……以前なら、港にはもっと多くの人間がいたのです」
彼は窓の外へ視線を向ける。
港の喧騒が部屋の中にもかすかに届いていた。
「働ける者が減れば、国の流れも変わります。交易も、税収も、軍備も……国を支える全てに影響が出ます」
セドリックは視線をこちらへ戻し、机の上の資料へ指を置く。
「だからこそ、治療の可能性があるものを、見過ごすことはできません」
部屋の中に重い沈黙が落ちる。
やがてルシアンは目を伏せ、穏やかな声で言った。
「そちらの事情は理解しました」
「では……」
セドリックがわずかに身を乗り出す。
だが、ルシアンの声がそれを遮った。
「ただし、判断するには情報が足りません」
セドリックの表情が止まる。
暖炉の淡い明かりが、彼の横顔を照らした。
「情報、ですか」
「ええ」
ルシアンは小さく笑う。
「なにぶん、自分の目で確かめなければ、判断できない性分でして 」
彼は窓の外へ目を向ける。
「明日、港と街を見せていただけますか。この国の現状を、私自身の目で確認したい」
セドリックは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、わずかに視線を伏せたあと、静かに頷く。
「……承知しました」
「ありがとうございます」
窓の外で、船の汽笛が響いた。
遠ざかる音の向こうで、港町の一日が進んでいく。
宿として使っている迎賓館の一室へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
机の上には、公国から渡された資料が並べられる。
ルシアンはその一枚を静かに見つめ、小さく息をついた。
「……まさか、あちらの目的が星泉とは」
ノアは顔を上げる。
「何か問題があるのですか」
「問題というより、判断材料が足りません」
ルシアンは首を横に振り、苦く笑う。
「私は修道院への支援もしていますから、星喰い病についてある程度の話は聞いています……ですが、それも支援者として知っている範囲です。医局の者ほど詳しくはありません」
彼は椅子に深く腰掛け、片手で顔を覆う。
眉間には皺が寄っていた。
彼にしては珍しい表情に、ノアはわずかに目を瞬く。
「明日、公国の現状を見られたとしても、それをアステリアの状況と比較する材料がありません。このままでは、判断を先送りにしているだけです」
「それで、星喰い病や星泉についてアステリア側の情報がいる、と……」
相槌を打ちながら、ノアは思わず笑ってしまう。
「……何か?」
「伯爵も、そんなお顔をされることがあるんですね」
「……ありますよ。商談など、すんなり上手くいくことの方が少ないですから」
どこか不貞腐れたような声に、ノアは肩を震わせる。
その様子に、ルシアンの目が細められた。
「ははっ、失礼……ただ、私もお役に立てそうで良かったと思っただけですよ」
緩む口元を抑えながら、ノアは鞄から一冊の手帳を取り出す。
ルシアンはわずかに眉を上げた。
「ノア殿は、この件について何か記録をお持ちですか」
「陛下が施療院や王立研究所を視察された際、私も同行しておりましたので」
目的の頁を開いて、机の上へ差し出す。
ルシアンの瞳が、手帳へ落ちる。
「正式な記録へまとめる前のものですが……その時のメモです」
ルシアンは一度だけ目を瞬く。
それから手帳を手に取り、ゆっくりと目を通していく。
そこには、星喰い病患者の症状の経過や医局長の説明、星泉に関する走り書きが細かく残されていた。
数頁を読み進めたところで、彼は小さく笑う。
「……君が同行してくれていて、助かりました」
ノアは照れたように微笑む。
ルシアンは顔を上げ、穏やかに言った。
「明日は、医局も訪ねましょう」
暖炉の火が、静かな部屋を照らしていた。
机の上には、公国の交易案とノアの手帳が並んでいる。
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