第三十六話 白帆の航路
白帆は冬の海を越え、王の想いを隣国へ運ぶ――
【海は国を隔てるものではない。
帆を掲げる者にとっては、道である。
人は港を発ち、
船は白波を越え、
想いは見えぬ国境を越えていく。
そして時に、その航路は剣よりも先に、未来を切り開く。
――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
朝の港町ヴァレスタには、海から吹く冷たい風が通り抜けていた。
埠頭では帆を畳む船員たちの掛け声が響き、荷馬車が雪混じりの石畳をゆっくりと行き交う。
ノアは肩へ外套を引き寄せながら、人波の向こうへ目を凝らした。
やがて、一人の男がこちらへ歩いてくる。
濃紺の外套を肩へ羽織り、その下には仕立ての良い商人服。
柔らかな笑みを浮かべたその姿を見て、ノアは軽く一礼した。
「ルシアン伯爵、お待ちしておりました」
ルシアンも穏やかに会釈を返す。
「お待たせいたしました、ノア殿」
彼の瞳は穏やかだった。
けれど、人懐こい笑みとは裏腹に、ノアを静かに見定めているようにも感じられた。
「事情は伺っております。今回の旅では、よろしくお願いいたします」
ルシアンはゆっくりと歩き出す。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ノアも彼の半歩後ろへ続いた。
港町は朝から活気に満ちていた。
荷を運ぶ船員が行き交い、商人たちは声を掛け合いながら帳簿を広げている。
その中を歩くルシアンへ、あちらこちらから声が飛んだ。
「伯爵、おはようございます」
「先日の件、ありがとうございました」
伯爵は足を止め、相手へ穏やかに頷く。
「おはようございます」
「何か困り事があれば、いつでも知らせてください」
どのやり取りも短かったが、声を掛けた者たちは、皆どこか安心したような表情で仕事へ戻っていった。
ノアはその様子を眺めながら、呟く。
「皆さん、伯爵を慕っておられるのですね」
ルシアンは少しだけ笑みを深めた。
「そうであれば、ありがたいことです」
そう言いながら、彼はこちらへ穏やかな視線を向けた。
「ノア殿は、王宮へ仕えられて長いのですか」
「いえ。一年ほどになります」
「そうでしたか」
伯爵は小さく頷く。
「書記官というお役目ですから、多くの出来事をご覧になってきたのでしょう」
ノアは少し考えてから首を横へ振った。
「見てはおりますが……理解できていることは、まだ多くありません」
その答えに、ルシアンは口元を緩めた。
「なるほど。謙虚でいらっしゃる」
「そうでしょうか」
「ええ」
風が分厚い外套の裾を揺らす。
「夜会での陛下は、あまり感情を表に出されない方とお見受けしましたが、普段からそうなのですか」
「そうですね……意に沿わないことがあっても、声を荒げるより先に理由を尋ねられます」
ノアの返答に、ルシアンは足を止め、わずかに目を丸くした。
「……とても十歳の少女とは思えませんね」
「私も、そう思います」
ノアは苦笑いで頷いた。
「でも、ご兄妹の話になると子供らしい顔もされますよ。最近は、レオニス殿下とのチェスに苦戦して、むくれていました」
「それは、お可愛らしいところもあるようで、安心しました」
ルシアンは柔らかく微笑んで、再び歩きはじめる。
「チェスなら私も覚えがありますが、いつか対戦していただけるでしょうか」
「きっと喜ばれると思います」
ルシアンは頷き、歩調を緩めた。
「ノア殿のお話を伺っていると、陛下のことをよくご覧になっているのが分かります」
彼はそう言ってノアへ視線を向け、穏やかに微笑む。
「だからこそ、一度お話ししてみたいと思っておりました」
ノアは少し驚いて足を止めた。
「私と……ですか」
「ええ。陛下が、この旅へ同行を命じられた方ですから 」
ルシアンは穏やかな口調のまま続ける。
「人を見る目も、陛下のお力の一つでしょう。その陛下が信頼を寄せらる方なら、一度お話ししたいと思うのは、自然なことです 」
ノアは返す言葉を探しながら、港の先に停泊する商船へ目を向けた。
白い帆はまだ畳まれたまま、朝の風を受けている。
埠頭へ近づくにつれ、潮の香りがいっそう濃くなった。
帆柱の間を海鳥が鳴きながら横切り、船員たちの威勢のよい掛け声が港中へ響いている。
停泊していた一隻の商船の舷側には、伯爵家の紋章が掲げられていた。
船員の一人がルシアンへ気づき、すぐに駆け寄る。
「伯爵、お待ちしておりました」
「おはようございます。準備はいかがですか」
「荷の積み込みは完了しております。あとは潮を待つだけです」
ルシアンは頷き、そのまま船倉へ視線を向けた。
「少し拝見しても?」
「もちろんです」
船員に案内され、ノアたちは船腹へ積み込まれた荷の前まで歩く。
木箱や麻袋が隙間なく並び、一つひとつに産地や品名を示す印が押されていた。
ルシアンは箱へ手を添え、縄の結び目を確かめる。
次に麻袋へ目を移し、軽く持ち上げて重さを確かめた。
「昨日の雪で、荷は濡れませんでしたか」
「はい。昨夜のうちに覆いを掛けておりました」
「それなら安心です」
それだけ確認すると、伯爵は満足そうに頷いた。
ノアはその様子を見ながら尋ねる。
「積み荷まで、ご自身で確かめられるのですね」
ルシアンは縄から手を離し、微笑んだ。
「……自分で見たものしか、信じられない性分なので」
船員がどこか誇らしげな表情で頷く。
「伯爵が毎回見てくださるので、私どもも気が抜けません」
「そのおかげで、安心して任せられています」
ルシアンはそう言って笑った。
その笑みに応えるように、船員たちの表情もほころぶ。
やがて甲板の上から声が飛んだ。
「伯爵!潮が変わります!」
ルシアンは空を見上げ、ゆっくりと頷く。
「では、参りましょう」
ノアたちは桟橋を渡り、商船へ乗り込んだ。
甲板へ足を踏み入れると、潮風が外套を大きく揺らした。
船員たちは持ち場へ散り、帆綱を確かめながら慌ただしく行き交っている。
「係留、解除!」
船長の号令が響いた。
太い綱が岸壁から外され、ゆっくりと甲板へ引き上げられる。
船体が微かに揺れた。
やがて帆が冬の風を受け、大きく膨らむ。
白い帆布が軋み、商船は静かに岸壁を離れ始めた。
埠頭では荷役を終えた商人や船員たちが帽子を上げ、出航を見送っている。
ルシアンも甲板の縁へ歩み寄ると、穏やかな笑みを浮かべ、小さく帽子を上げて応えた。
その姿に、岸からもいくつもの手が振り返される。
港町は少しずつ遠ざかり、石造りの倉庫や帆柱の林立する埠頭は、やがて雪霞の向こうへ溶けていった。
ノアは手すりへ手を添え、その景色を見送る。
「……何度見送られても、名残惜しいものですか」
思わず漏らした言葉に、隣へ立ったルシアンが頷いた。
「ええ」
その視線は、まだ港へ向けられていた。
「帰る場所があるからこそ、人は安心して旅へ出られるのでしょう」
ノアはその横顔を見つめる。
「伯爵は、この航路を何度も往復されているのですよね」
「数え切れないほどに」
そう答える声には、自慢めいた響きはなく、長い年月を重ねてきた者だけが持つ穏やかさがあった。
しばらく沈黙が続く。
波が船腹を叩く音が、耳へ届く。
やがてルシアンは海へ目を向けたまま、不意に口を開いた。
「ノア殿は、陛下へお仕えになって一年、とおっしゃいましたね」
「はい」
「その一年で、陛下は変わられましたか」
思いがけない問いだった。
ノアは少し考え、水平線へ視線を向ける。
「……変わられたと思います」
「どのように」
「以前より、ご自身で決めることが増えました」
冬の風が吹き抜け、帆が低く鳴る。
「もちろん、兄君方や閣卿の皆様のお力はお借りしています。それでも最後には、ご自身のお考えでお決めになります」
ルシアンは静かに耳を傾けていた。
ノアは苦笑を浮かべて、続ける。
「まだ十歳の少女、という見方をされる方も少なくありませんが……私は記録を書きながら、何度も考えを改めさせられました」
ノアの言葉に、ルシアンはふっと目を細めた。
「陛下があなたに同行を命じられた理由が、少し分かった気がします」
「えっ……」
ノアは思わず目を瞬く。
「それから、陛下のお考えも」
「陛下のお考え、ですか……?」
「ええ」
ルシアンの穏やかな笑みは変わらない。
「今回お引き受けしたのは、陛下がそう望まれたからです」
遠くのカモメが、高い声を上げながら飛んでいる。
「あのお方が、どのような王になろうとしているのか。そして、どう公国と向き合われるのか……少し楽しみになりました」
商船は白い航跡を残しながら、灰色の冬の海を進んでいった。
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