第三十五話 冬の使者
対話への道を開くのは、一通の手紙――
【剣は国境を護る。
だが、人と人を結ぶのは、必ずしも剣ではない。
書簡は海を越え、
商船は国境を越え、
言葉は争いを越えていく。
――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
シリウス・ゼフィール公爵が、防衛都市グランセルへ赴任してから、およそ十日が過ぎていた。
城壁の補修や騎士団の再編は着実に進み、国境は静かな緊張の中にあった。
国境では依然としてアルヴェイン公国の兵の増員が続いていたが、大きな衝突は起きていない。
執務室の窓の外では、細かな雪が舞っていた。
暖炉の薪が爆ぜ、その音に重なるように、紙をめくる音が執務室へ響く。
ノアは机へ積まれた書類を内容ごとに仕分けながら、一枚ずつ目を通していた。
その向かいでは、ステラ陛下が小さなチェス盤を前に腕を組んでいる。
盤上には白と黒の駒が入り組み、その脇には数枚の便箋が置かれていた。
それは離宮にいるレオニス殿下から送られてきた、棋譜だった。
「……うーん」
ステラ陛下は首を傾げながら、白い駒を摘み上げる。
その手をしばらく盤上でさ迷わせ、やがて再び元の位置へ戻した。
ノアは書類を揃えながら、小さく笑う。
「今回は苦戦されていますね」
ステラ陛下はしばらく駒を見つめると、眉を寄せて呟いた。
「兄様、少し意地悪です」
その一言に、ノアは思わず口元が緩む。
棋譜を送り合うこの遊びは、ステラ陛下にとって数少ない息抜きになっているようだ。
その様子を眺めながら、ノアは新しい書類を一枚手に取る。
「陛下。外交会議の日程が、明後日に決まりました」
「そうですか」
ステラ陛下は盤から目を離さず頷いた。
その時だった。
「失礼しまーす」
軽やかな声とともに、扉が開く。
灰色の外套を翻したユリアが、肩掛け鞄を抱えて執務室へ入ってきた。
頬は冬風で赤く染まり、肩には細かな雪が残っている。
「ルシアン伯爵から、お手紙です」
ユリアは封蝋の押された封書をステラ陛下へ差し出した。
その封を切り便箋に目を通しながら、ステラ陛下は尋ねる。
「伯爵は、何か言っていましたか」
ユリアは口元をわずかに緩めた。
「春の茶会シーズンに向けて、ドレスを贈りたいそうです。『デザインや色のご希望があれば、お聞かせください』と」
ステラ陛下はわずかに首を傾げ、しばらく考える。
「……『できるだけ楽に着られて、動きやすいものを』と、伝えてください」
言葉を探すようにゆっくりと言うステラ陛下に、ユリアはくすりと笑った。
「やっぱり、そうおっしゃると思いました。コルセット、大変そうですもんね」
「座っている時間も長いので……」
ステラ陛下は困ったように微笑み、肩を竦めた。
そして便箋をもう一度見つめ、頷いた。
「ノア、外交会議はいつと言いましたか」
「明後日ですが……?」
「明後日……」
ステラ陛下はわずかに目を伏せ、便箋をユリアに差し出す。
「これを、そのままロザリン卿へ。『あなたの見解を聞きたい』と、伝えください」
ユリアは表情を引き締めて一礼する。
「承知しました」
彼女はそう言って踵を返し、足早に執務室を後にした。
扉が閉まり、暖炉の薪が微かに音を立てる。
ノアはステラ陛下へ尋ねた。
「手紙は、ドレスの件ではなかったんですか」
ステラ陛下は盤上を見つめ、やがて白い駒を一つ動かす。
小さな駒音が響いた。
「……アルヴェイン公国の、市場と港の様子です」
ノアは首を傾げた。
「市場と港、ですか」
ステラ陛下は静かに頷く。
窓の外では、白い雪が変わらず降り続いていた。
王宮会議室では、暖炉の火が穏やかに揺れていた。
中央に大きな地図が広げられた楕円形の机を囲み、各卿が席へ着く。
ステラ陛下は中央の席に腰を下ろし、その右には宰相ガイウス・ベルン、左には外務卿ロザリン・エーヴェルが並んでいた。
ノアは記録席で筆を整え、机上へ新しい紙を広げる。
やがてロザリンが、一通の便箋を机へ置く。
「陛下よりお預かりした、ルシアン伯爵からの報告です。アルヴェイン公国西部港湾の荷動きと、市場価格の推移が記されております」
ロザリンの細い指先が便箋をなぞる。
「穀物、鉄材、羊毛……いずれも例年とは異なる動きを見せています」
視線が、一斉にロザリンへ集まった。
ガイウスは肘掛けを指で軽く叩きながら、低く口を開く。
「その情報、確かなものですかな」
ロザリンは視線を上げ、頷いた。
「はい。当局の諜報員から届いている報告とも一致しております」
その言葉に、向かいに座る財務卿が眉をひそめる。
農務卿も資料へ目を落とし、何かを書き留めた。
会議室を包む空気が張り詰める中、ロザリンは続けた。
ロザリンは地図の西部港へ指先を滑らせる。
「港へ入る商船は減少しております」
彼女の指先が内陸へ移る。
「その一方で、鉄材の取引量は増加。穀物価格も上昇しております」
ガイウスは地図の国境付近へ視線を落とした。
「国内備蓄を優先しているのでしょうか」
「その可能性はあります」
ロザリンは小さく頷く。
「ただ、港だけ、市場だけであれば偶然とも考えられます」
彼女は言葉を区切り、机上の手紙へ手を添えた。
「しかし、国境の兵が増員されている状況を考えると、公国側で何らかの変化が起きていると見るべきでしょう」
その言葉に、誰もすぐには口を開かなかった。
暖炉の薪が爆ぜ、乾いた音が静寂へ落ちる。
その時、会議室の扉が、三度、規則正しく叩かれた。
「失礼いたします」
扉が開き、雪を肩へ残した騎士が足早に室内へ入る。
中央まで進むと姿勢を正し、胸へ拳を当てた。
「ご報告申し上げます」
その一声で、会議室の空気が張り詰める。
ロザリンが顔を上げる。
ガイウスも腕を解き、騎士へ視線を向けた。
「本日未明、グランセル北方にて、アルヴェイン公国軍との小規模な衝突が発生いたしました」
暖炉の薪がぱちりと爆ぜ、乾いた音が室内へ響いた。
「被害は」
ガイウスが目を細め、低い声で問う。
「双方とも軽傷者数名。現在は両軍とも距離を取り、戦闘は収束しております」
ロザリンは地図の国境線へ指先を滑らせ、そのままグランセルの名の上で止めた。
「偶発的な接触か……あるいは」
ガイウスが続ける。
「こちらの備えを探るための揺さぶりかもしれませんな」
財務卿は眉を寄せ、農務卿は無言で息を吐く。
重い沈黙が机を囲んだ。
やがて、ステラ陛下が目を伏せて口を開く。
膝の上に重ねられた手には、わずかに力がこもっていた。
「こちらから、アルヴェイン公国へ書簡を送りましょう。まずは、先方の真意を確かめます」
その声は穏やかだった。
財務卿が顔を上げる。
ロザリンも静かにステラを見る。
ステラ陛下は、騎士へ向き直る。
「シリウス公には、深追いはせず、防衛に徹するよう伝えてください」
「はっ」
騎士は深く一礼し、足早に会議室を後にした。
その背中を見送って、ステラ陛下はゆっくりと息を吐く。
「賢明なご判断です」
ガイウスの言葉に、ステラ陛下は頷く。
ロザリンは机上の便箋へ手を伸ばし、指先が港の荷動きを記した一節で止まる。
「……市場は荒れ始めています。ですが、港はまだ動いている」
彼女の瞳が、一人一人へ視線を巡らせる。
ステラ陛下は机上の手紙へもう一度目を落とし、やがて顔を上げた。
「そこに、交渉の余地があります」
その言葉に、各卿が視線を合わせ、頷く。
ガイウスは顎へ手を添え、地図と便箋を見比べる。
「問題は……誰が最初の交渉の席につくか、ですな」
その声にロザリンが頷く。
「陛下や私が赴くには、早すぎます」
「互いの緊張感を高めずに済む人物……」
ステラ陛下は首を傾げて呟いた。
暖炉の炎が揺れ、窓の外では雪が音もなく舞っていた。
その静けさの中で、ステラ陛下は机上の手紙へ目を向ける。
封蝋に刻まれた伯爵家の紋章をしばらく見つめて、口を開いた。
「……ルシアン伯爵は、いかがでしょう」
会議室へ、短い沈黙が流れた。
ロザリンは便箋へ視線を落とし、封蝋を指先でなぞる。
そして、しばらく沈黙したあと、頷いた。
「……確かに、ルシアン伯爵は適任です」
ロザリンは穏やかな声で続ける。
「彼は公国の商人や商会との繋がりも深い。何より……伯爵自身の事業が、そのまま交渉材料にもできるでしょう」
その言葉に、ガイウスは腕を組む。
「正式な使節ではなく、一人の商人として席につける、ということですか」
「ええ。彼は会話術にも長けていますから、相手の本音を引き出してくれるでしょう」
ガイウスが頷いた。
「異論はありません」
その言葉に、各卿たちも頷く。
ロザリンはステラ陛下へ向き直る。
「では、最初の交渉はルシアン伯爵へお願いしましょう。彼には、私から話を通しておきます」
ステラ陛下も小さく頷く。
その後、いくつかの事案について話を終え、この日の会議は幕を閉じた。
各卿は椅子を引き、一礼すると、それぞれ資料を抱えて席を立つ。
暖炉の火だけが、静まり返った会議室を照らしていた。
ステラ陛下も立ち上がり、ノアを振り返る。
「戻りましょう」
「はい」
ノアは議事録を抱え、ステラ陛下の後に続く。
回廊へ出ると、窓の外には白く霞んだ王都の街並みが広がっていた。
しばらく二人は無言のまま歩き、執務室の前まで来たところで、ステラ陛下が足を止めた。
「ノア」
「はい」
ノアは抱えていた議事録を持ち直す。
ステラ陛下はノアへ向き直った。
「しばらく、ルシアン伯爵に同行してください」
ノアは思わず目を瞬いた。
「交渉の記録を書け、ということでしょうか」
「……それも、あります」
ステラ陛下は窓の外へ目を向ける。
その視線のずっと先には、国境がある。
「ルシアン伯爵が、どんな景色を見ているのか。私は、それを知りたいのです」
ステラ陛下はノアへ視線を移す。
青灰色の瞳が、真っ直ぐノアを見つめた。
「だから、あなたの目で見てきてください」
ノアは姿勢を正した。
「承知いたしました」
ステラ陛下は穏やかに頷き、執務室の扉へ手を掛けた。
扉が開き、暖かな室内の空気が回廊へ流れ出した。
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