第三十二話 揺らぐ防壁
王が、兄を呼ぶ時――
【人には、それぞれ果たすべき時がある。
しかしその時は、自ら望んで訪れるものとは限らない。
誰かが必要とした時、人は初めて、その役目を負うのである。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
冬の日差しが、王宮の会議室へ淡く差し込んでいた。
高窓から射し込む白い光が、長机と並べられた椅子を静かに照らしている。
窓硝子の向こうでは、雪を含んだ風が中庭の木々を揺らし、白く染まった枝先がかすかに震えていた。
長机を囲むように、ステラ陛下と宰相ガイウスをはじめ、外交と国防を担う者たちが席についていた。
外務局の席には、ロザリン・エーヴェルの姿もある。
卓の中央では、騎士団の情報部官が羊皮紙を手に報告を読み上げていた。
ノアは羽根筆を紙に滑らせる。
「――以上が、アルヴェイン公国の動向です。国境付近で兵の増員が確認されておりますが、現時点では越境の兆候はありません」
報告を聞き終え、ロザリンが顎へ指先を添えた。
「兵の増員だけであれば、国境警備の強化とも考えられます。しかし、この厳冬の時期に行われるとなると、少々気になりますね」
ガイウスも頷く。
「ええ。引き続き警戒を怠らぬように」
風が窓硝子を小刻みに揺らす。
その時、会議室の扉が勢いよく開かれた。
乾いた音が部屋中へ響き、出席者たちが一斉に振り返る。
灰色のマントを翻し、ユリアが駆け込んできた。
肩で息を整えながらも足は止めず、真っ直ぐステラ陛下の前まで進む。
額には汗が滲み、風に乱れた焦茶色の髪が頬へ張り付いていた。
リアが僅かに目を細めた。
ノアも思わず羽根ペンを止める。
ユリアはそのまま中央へ進み出ると、両足を揃えて背筋を伸ばした。
「防衛都市グランセルより、急ぎのご報告です!」
いつもより低く張り詰めた声に、ノアは息を呑んだ。
ユリアは一瞬だけ視線を伏せて、続ける。
「将軍領主エヴァルト・ヴァレンシュタイン侯爵が、本日未明、お倒れになりました」
その言葉に、ステラ陛下は目を見開いた。
青灰色の瞳が静かに揺れる。
数人が驚いたように立ち上がり、椅子が乾いた音を立てる。
ガイウスは目を細め、ロザリンの表情からも笑みが消えていた。
「医局の診断では、星喰い病の進行によるものです」
ユリアは抑揚の少ない声で続けた。
「現在も意識はございますが……前線の指揮は困難との見解が示されました」
会議室に重い沈黙が落ちる。
ステラ陛下は膝の上で手を組み、ユリアに尋ねる。
「騎士団は」
「すでにローラン団長がこちらへ向かっています」
ユリアの言葉が終わるのとほぼ同時に、再び扉が開いた。
重い革靴が床を打ち、鎧の金具が音を立てる。
騎士団長ローラン・ヴァルクールが、足早に会議室へ入ってきた。
肩当てには雪が溶けた跡と薄い砂埃が残り、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
ローランは中央へ進み、ユリアは壁際へ下がる。
「陛下。ご報告は、お聞き及びかと」
低く武骨な声が響いた。
「グランセルの状況は」
「騎士たちの間では、すでに動揺が広がっております」
ローランは会議室を見渡しながら続けた。
「エヴァルト侯は、長年戦場へ立ち続けてきた将です。このまま指揮を執れぬ状態が続けば、兵の士気は大きく揺らぎます」
彼は一度言葉を切り、小さく息を吐く。
「それだけではありません……国境を守る将が不在となれば、その動揺は、やがて領民にも広がります」
冬の日差しが、高窓から長机へ淡く差し込む。
「後任の将軍領主を、一刻も早く定める必要があります」
その一言だけが、重く会議室へ落ちた。
やがて、ガイウスが口を開く。
「……急がねばならぬことは、私も異論ありません。しかし、容易に決められるものでもない」
庭の木の枝から、雪の塊が滑り落ちる。
「グランセルは王国防衛の要です。兵を率いる武だけでは足りません」
ガイウスは淡々と続ける。
「領地を治める政、隣国との駆け引きを見極める知、そして兵と領民双方から信頼される徳。そのすべてを備えた者でなければ務まりません」
その言葉に、会議室の空気が張り詰める。
ある者は眉根を寄せ、ある者は手で顔を覆い息を吐く。
重たい沈黙の中、ステラ陛下が口を開く。
「ガイウス宰相。あなたは、その重責を担える方をご存じですか」
その問いに、ガイウスは答えなかった。
「……私は、一人だけ知っています」
ステラ陛下はそう言って立ち上がり、ローランのもとへゆっくりと歩み寄りながら、続ける。
「ローラン団長。あなたは、幼い頃のシリウス兄様へ、剣術の指南をしていたそうですね」
「はい」
「各地への巡察にも、よく同行していたと聞いています」
視線が集まる中、濃紺の執務服の裾が揺れる。
やがてローランの前に立つと、彼は片膝をつき頭を下げた。
「お待ちください、陛下!シリウス殿下は――「ローラン団長」」
年配の文官が立ちあがり声を上げるが、ステラ陛下の鋭い声がそれを遮る。
「一つ、お尋ねします。偽りも、忖度もなく、答えてください」
「シリウス・ゼフィールに、グランセルを治める実力はありますか」
ローランはその問いに顔を上げた。
そして視線を逸らさずに答える。
「あります」
低く重たい声が響く。
ガイウスは腕を組んだまま、わずかに目を細めた。
「彼の剣の腕は、王国でも指折りです。兵からの信望も厚い。将としての器も、十分に備えております」
ローランが言葉を重ねるたび、会議室の空気はさらに張り詰めていく。
「騎士団長ローラン・ヴァルクールとして、保証いたします 」
そう言い終え、ローランは口を結ぶ。
ステラ陛下はしばらくローランを見つめた。
「……分かりました」
ステラ陛下は体の前で重ねた手を静かに握る。
そして会議室を見渡し、扉付近で控えている侍従に目を止める。
「シリウス・ゼフィールの処遇について、緊急裁判を要請します。法務局へ伝令を」
その言葉に、どよめきが広がる。
侍従は一礼し、すぐさま部屋を出ていく。
「陛下」
ガイウスが立ち上がった。
「シリウス殿下は、違法薬物所持の罪により収監されております。そのような方を将軍領主へ復帰させることは、法に照らせば、容易に認められる話ではございません」
長机のあちこちで、頷く者がいる。
ステラ陛下は、穏やかに口を開いた。
「承知しております。だからこそ、裁判をするのです」
ステラ陛下は目を伏せ、続ける。
「兵の動揺は、国境の揺らぎへ繋がります。あるいは……その剣が、王へ向くことも」
その一言に、誰も口を開かなかった。
張り詰めた空気の中、窓の外では風が雪を巻き上げ、裸枝を揺らす。
ステラ陛下は、窓際で控えているリアへ視線を向ける。
「リア」
「はい」
リアは一歩前へ出て背筋を伸ばす。
「もし、多数の武装した者たちに私が囲まれたとします。私を守る騎士はあなた一人。その状況で、私を守りきれますか」
その問いに、ノアは思わず羽根筆を止めた。
リアはわずかに眉を寄せる。
そして短い沈黙の後、口を開いた。
「……恐れながら」
落ち着いた声が室内へ響く。
リアは目を伏せ、続ける。
「そのような状況であれば、最悪の事態もご覚悟いただかなければならないかと」
ステラ陛下は頷き、今度はローランへ視線を移した。
「では、ローラン団長。あなたなら、私を守りきれますか」
ローランはまっすぐ顔を上げる。
窓から差し込む淡い日差しが、鎧の肩当てを照らしていた。
「……できません」
短い返答に、会議室は静まり返る。
「では、皆さんは」
ステラ陛下は長机を見渡し、問いを重ねる。
「この国で指折りの騎士二人が匙を投げる状況で、そこから生き延びる術を、お持ちですか」
皆口を閉じ、その問いに答える者はいない。
再び重苦しい沈黙が、会議室を包んだ。
やがて、一人の文官が口を開く。
「……陛下のお話は、極論です」
「そうならない保証も、ありません」
別の席からも声が上がる。
「兄君だからこそ、そのようなご判断をなさるのではありませんか」
ステラ陛下の握られた指先が、わずかに動く。
一人ひとりへ視線を巡らせる青灰色の瞳からは、何の感情も読み取れない。
「私は、剣を扱えません。だからこそ、そのような状況を招かぬよう、布陣を整えねばなりません」
淡々とした声が続く。
「シリウス・ゼフィールは、そのために必要な人材。それだけのことです」
淡い光が、高窓から差し込む。
その向こうでは、雪を含んだ風が中庭の木々を揺らしていた。
ステラ陛下はわずかに目を細め、声を低める。
「それとも皆さんは、このまま暴動や戦が起きても良いと、お考えですか」
誰も、答えなかった。
重い沈黙だけが、冬の日差しの差し込む会議室を満たしていた。
やがて、ロザリンがゆっくりと椅子から立ち上がる。
長机を見渡し、落ち着いた声で口を開いた。
「……本件については、裁判の結果を待って、改めて協議いたしましょう。本日の会議は、これにて終了といたします」
その声を皮切りに、椅子を引く音が会議室へ広がる。
文官たちは書類を抱え、それぞれ足早に部屋を後にしていった。
ノアも羽根ペンをしまいながら立ち上がる。
人影がまばらになった頃、ステラ陛下はローランへ視線を向ける。
「ローラン団長」
「はい」
ローランは姿勢を正した。
「評議の成り行きによっては、兄様に実戦試験を受けていただこうと思います」
その言葉に、ローランがわずかに眉を上げる。
「実戦試験、ですか」
「多くを語るよりも、その方が早いでしょう」
その落ち着いた声に、ローランは頷く。
「……承知しました。対戦相手は、誰も文句を付けられぬ相手を用意いたしましょう。闘技場の準備も進めておきます」
「お願いします」
ローランは深く一礼すると、会議室を後にした。
それを見届けながら、ガイウスはゆっくりと立ち上がり、ステラ陛下へ歩み寄る。
「見事な采配でございますな」
その言葉に、ステラ陛下は小さく首を振った。
「……それは、事が済んでから、もう一度聞きましょう」
穏やかな返答だった。
ガイウスは肩をすくめる。
「これは失礼を」
冬の風が窓をかすかに鳴らした。
「私一人で考えた案ではありません」
ステラ陛下は体の前で指を組んだまま、続ける。
「……レオニス兄様です」
その名前に、ガイウスはわずかに目を細める。
「シリウス兄様の件で、私に出来ることはないかと、手紙を送っていました」
「そうでしたか……レオニス殿下は、何と」
ステラ陛下は窓の外の雪景色へ視線を移して、続ける。
「『時を待て』と、返事がありました」
「……"時"、ですか」
「『出来ることがあるとすれば、それは、この国がシリウスの力を必要とする時だけだ』と」
ガイウスはゆっくりと息を吐いた。
「なるほど、ごもっともですな」
「……ですが私は、その"時"は来なくても良いと考えておりました」
窓の外では、風が雪を巻き上げ、裸枝を揺らしている。
「その"時"は、国のどこかで、不幸が起きた時でしょうから」
静かな言葉だった。
ガイウスはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……陛下らしい、お考えですな」
ステラ陛下は顔を上げ、ガイウスへ視線を向ける。
「けれど、その"時"は訪れました」
窓から差し込む光が、二人の間の影を色濃くさせる。
「どうか、その優しさに付け込まれませぬよう」
その忠言に、ステラ陛下は小さく頷いた。
ガイウスが部屋を出た後、ステラ陛下はゆっくりと息を吐く。
そして、少しだけ肩を落として、ユリアへ視線を向ける。
「ユリア。シリウス兄様へ伝言を」
「……何とお伝えしますか」
遠くから鳥のさえずりが聞こえた。
「『兄様の成すべきことを成せるよう、祈っております』と」
ユリアは一礼した。
「承知いたしました」
灰色のマントが翻る。
会議室を後にするユリアの足元に、音は立たない。
窓の外を、一羽の小鳥が冬空へ横切っていく。
白く霞む空へ吸い込まれるように、その姿はやがて見えなくなった。
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