第三十話 風が運ぶもの
風は巡り、便りを運ぶ――
【風は、国の隅々まで巡る。
人の想いを乗せた便りもまた、その風とともに巡っていく。
その流れが絶えぬ限り、国は生き続ける。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
昼下がりの王宮。
高窓から差し込む冬の日差しが、長い回廊へ淡く伸びている。
窓硝子の向こうでは、細かな雪が中庭を白く染め、裸枝を渡る風が時折雪煙を舞い上げていた。
廊下では文官や侍従たちが忙しなく行き交う。
抱えた書類を落とさぬよう足早に歩く者、決裁を待つ書簡を胸に抱えて小走りになる者、すれ違いざまに小さく一礼を交わす者。
革靴が石床を打つ音と、紙の擦れる乾いた音だけが、静かな回廊に響く。
ノアもまた、書類を胸に抱え、ステラ陛下の執務室へ向かって歩いていた。
回廊の向こうに見知った顔が見え、ノアは歩みを少し早める。
黒い監察局の制服に、鋭い目つき――エドガー・クローウェルだった。
左腕には分厚い書類束を持っている。
「エドガーさん」
呼びかけると、エドガーも顔を上げ、小さく会釈した。
「ノアさん。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
ちょうど文官が数人、二人の横を足早に過ぎていった。
その様子を見送りながら、ノアは声を少し落とした。
「……ガルディア卿の件は、その後いかがですか」
エドガーは抱えていた書類へ目を落とし、一枚だけはみ出していた紙を揃えながら答えた。
「進展はありません」
相変わらず淡々とした声だった。
「彼に命令した人物についても、決定打になるものは、まだ見つかっていません」
窓の外で風が吹き、雪が硝子をさらさらと流れていく。
ノアは腕の中の書類を抱え直した。
「……そうですか」
「焦る必要はありません」
エドガーは手帳を閉じる。
「いずれ綻びは見つかります」
短く頷き合う。
そのまま歩き出しかけたエドガーが、ふと足を止めた。
「そういえば」
ノアも立ち止まり、顔を向ける。
回廊の向こうを、侍従が銀盆を抱えて足早に通り過ぎた。
「国王専属書記官への昇進、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げるノアを、エドガーは灰色の瞳で静かに見つめた。
「嬉しくありませんか」
「いえ、嬉しいことは嬉しいんです……ただ、」
ノアは困ったように笑い、頬を指先で掻く。
「見習い書記官から、いきなり国王専属書記官ですから。貴族や文官の皆さんに、何か言われるだろうと覚悟していたんですが……」
その言葉に、エドガーは廊下を行き交う文官たちへ視線を向けた。
「それは、君が記録局の人間だからでしょう」
「記録局……ですか」
ちょうど一人の文官が書類を抱えたまま角を曲がり、別の侍従と危うくぶつかりかける。
二人は慣れた様子で身体をかわし、それぞれの仕事へ戻っていった。
その様子を眺めながら、エドガーが口を開く。
「ノアさん。文官として、君が一番困ることは何ですか」
「……仕事が滞ること、でしょうか」
エドガーは、ノアの抱える紙束へ視線を落とした。
「その書類も、まず記録局を通ったものでしょう。王宮の書類は、一度ほとんどが記録局へ集まります。整理され、各局へ送られ、決裁を受け、また戻ってくる」
彼の言葉に、ノアは頷く。
「もし記録局の反感を買い、書類が止まれば」
「……仕事が止まりますね」
「その通りです」
エドガーがわずかに口元を緩める。
「だから文官は反発しません。むしろ歓迎している者も多い。君が陛下のお側についてから、決裁の速度は目に見えて上がりましたから」
廊下の向こうで人が行き交う足音が聞こえる。
「実務を担う者ほど、その恩恵を受けています」
エドガーの言葉に、ノアは腕の中の紙束へ視線を落とした。
確かにその紙束は、王宮のあちこちを巡りながら、国の仕事を動かしていく。
侍従が銀盆を抱えて通り過ぎ、その後を追うように文官が書類を抱えて小走りに駆けていく。
廊下には相変わらず、革靴の音と紙の擦れる音が絶えない。
「もう一つ、理由があります」
ノアは顔を上げた。
「ユリアさんです」
「ユリアさん?」
目を瞬かせるノアに、エドガーは静かに頷いた。
「彼女は王宮中を歩き回っています。必要とあれば、監察局や牢獄まで」
淡々とした声に、ノアは苦笑した。
「配達人ですからね」
「しかも恐ろしいほどに、足が速い」
「ええ」
ノアは思わず頷いた。
灰色マントを靡かせて駆けるユリアの姿が、脳裏に浮かぶ。
書類を届け終えたと思えば、もう別の廊下を走っている姿を何度も見てきた。
「そして気配が薄く、どこで何を聞いているか分からない」
エドガーは目を伏せた。
「不用意な噂話は、すぐ彼女の耳に届くでしょう」
ノアは肩を落として笑う。
「たしかに、それじゃあ、誰も迂闊なことは言えませんね」
「ええ。余計なことは口にしない、それが王宮では一番安全です」
鐘楼から澄んだ鐘の音が一つ響いた。
廊下を歩いていた文官たちは足を速め、それぞれの部署へ散っていく。
エドガーは抱えていた書類を持ち直した。
「そろそろ戻ります。また何か分かれば、ご報告します」
「よろしくお願いします」
二人は軽く一礼を交わし、それぞれ別の回廊へ歩き出した。
執務室へ戻ると、窓から射し込む冬の日差しが机の上を淡く照らしていた。
窓硝子の向こうでは、細かな雪が風に流され、中庭の木々は白く縁取られている。
部屋には羽根ペンが紙を滑る音だけが静かに響いていた。
ステラ陛下は決裁済みの書類へ一枚ずつ署名を入れ、脇へ整えていく。
窓際ではリアが腕を後ろに組み、ときおり庭と廊下へ視線を巡らせていた。
ノアは抱えていた書類を机へ並べる。
「次は、北部街道の補修計画です」
「ありがとうございます」
ステラ陛下は頷き、次の書類へ目を落とした。
羽根ペンの先が紙を滑り、静かな音を立てる。
その音が途切れた頃、ノックが扉を叩いた。
「失礼しまーす」
扉が開き、冷たい外気がわずかに流れ込む。
灰色マントへ雪を残したユリアが、大きな書類鞄を肩から下ろした。
「こちら、議会からです」
鞄から取り出された紙束が、重たい音を立てて机へ置かれた。
書類の束は、先ほどまでの倍ほどもあった。
ノアは一番上の紙を手に取る。
「……シリウス殿下に関する陳情書」
その下には、釈放を求める嘆願書や騎士団からの意見書が並んでいた。
ユリアは慣れた手つきで封筒を開き、送り先ごとに迷いなく仕分けていく。
「こちらが議会提出分……こちらは教会で……あと、監察局の調査報告書も」
紙が机を滑る音が続いた。
ノアは手際の良いユリアの手元を見つめ、ふと違和感を感じた。
紙を揃えるたび、その指先だけが僅かに力んでいるように見えた。
窓際に立つリアも、何も言わずその様子を見ていた。
ノアはそっとリアへ歩み寄り、声を潜める。
「……シリウス殿下の話になると、ユリアさん、少し変になる気がするんですが……」
リアはしばらく黙っていたが、小さく口を開いた。
「私も詳しくは知らないが……あいつを今の仕事に取り立てたのは、シリウス殿下だと聞いている」
ノアは思わず目を瞬かせた。
「そうだったんですか」
「投獄される前は、よく懐いていたらしい」
リアの視線は、黙々と書類を揃えるユリアへ向けられる。
「あいつなりに、思うところがあるんだろう」
最後の書類を揃え終えたユリアが、ふと顔を上げた。
「ノアさん」
「はい?」
「その書類、上下が逆です」
「あっ」
慌てて持ち替えるノアを見て、ユリアは淡々と言う。
「重要書類です。落とさないでくださいね」
「す、すみません」
ユリアは小さく頷き、空になった鞄を肩へ掛けた。
「では、失礼します」
にこりと笑って、灰色のマントがふわりと揺れる。
ユリアは次の便りを運ぶため、静かな回廊へ消えていった。
扉が閉まると、部屋は再び静けさを取り戻した。
窓の外では、風が中庭の雪をさらい、硝子越しに白い雪片が舞っている。
机の上には、仕分けられた書類の束が幾重にも積まれていた。
その多くに、同じ名前が記されている。
「……こんなに、たくさん」
ステラ陛下の短い声が、静かな執務室に落ちる。
リアは窓辺に立ったまま答えた。
「投獄から一年以上経った今も、この数です」
ステラ陛下は小さく眉を寄せ、書類に手を伸ばす。
「この件も、あまり長くは放っておけませんね」
ノアも書類を数枚手に取り、順に目を通していく。
釈放を求める意見があれば、厳罰を求める意見もある。
ステラ陛下の青灰色の瞳が書類に向き、わずかに影が落ちていた。
「……陛下は、どう思われているのですか」
ノアの問いに、ステラ陛下はゆっくりと顔を上げる。
「考えていることは、あります」
迷いのない静かな声だった。
ステラ陛下は窓の外へ目を向ける。
庭の木の枝に、数羽の小鳥が止まっていた。
「ただ、条件が揃わないと使えません。それに……その条件も、あまり良い話ではありません」
ステラ陛下は再び手元の書類に視線を落とす。
「……だから、この中にもっと良い案があるといいのですけど」
書類の山の中で、ステラ陛下は小さく息を吐く。
窓の外では、一羽の鳥が薄曇りの空を横切り、南の空へ飛び去っていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
この話を少しでも気に入っていただけたら、
感想やレビュー、リアクションなどをぜひお願いします!
次回もお楽しみに!!




