第二十九話 星の泉
それは、人が本来持つ力を取り戻すためのものーーー
【同じ知識から、薬も毒も生まれる。
違いを決めるのは、その知識ではない。
人の心である。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
王宮の北棟を抜けると、人の往来は次第に少なくなっていく。
回廊へ吹き込む風が、石柱の間で雪を舞わせている。
靴底が新雪を踏むたび、きゅっ、と乾いた音が足元で鳴った。
簡易的な執務服に身を包んで歩くステラ陛下は、小さく息を吐く。
群青色のワンピースは足首まで届き、その上から白いケープを羽織っている。
「寒いですね」
「はい。紙を持つ指まで凍えそうです」
ノアも思わず肩をすくめて、持っている資料の束を抱えなおす。
その様子を見て、隣を歩くリアが淡々と言った。
「手袋をすればいいだろう」
「インクがつきます」
「なら諦めろ」
ステラ陛下は二人を見上げ、小さく口元を緩めた。
「リアは寒くないのですか」
「雪中訓練があるので、慣れています」
リアの歩みに合わせて、腰に下げた剣の吊り金具が小さく触れ合い、微かな金属音が回廊へ溶けていった。
「……騎士って、大変なんですね」
「慣れなければ死ぬだけだ」
淡々とした返答に、ノアは思わず足を止めかけた。
「物騒なこと言わないでください、余計寒くなります!」
リアはわずかに首を傾げた。
「何かおかしなことを言ったか」
「いえ……何でもありません」
ノアは返す言葉が見つからず、口を閉じた。
それを見て、ステラ陛下の肩が小さく震える。
三人は雪の舞う中庭を横切り、その先の石造りの建物へ向かう。
王室医局研究棟。
星喰い病の治療に効果があるとされる『星泉』の研究が行われており、王宮の中でも、ごく限られた者しか立ち入らない場所だ。
三人は視察のためにそこへ訪れていた。
入り口で待っていた女性が、一礼する。
「お待ちしておりました、陛下」
医局長ミレーユ・アスター。
肩口で揃えられた淡い亜麻色の髪は艶やかに整えられ、後ろ髪だけを細い紺色のリボンでゆるく束ねている。
年は三十代半ばほどで化粧気はほとんどなく、飾りも左耳の小さな銀の耳飾りだけと質素だった。
白い長衣は膝下まで届き、襟元には医局を示す群青色の刺繍が細く施されている。
袖口には乾いた薬草の粉がかすかに残り、幾度も薬液に触れる指先は少しだけ荒れていた。
彼女の案内で、三人は研究室へ入る。
扉が開くと、薬草を煎じた青い香りと、アルコールにも似た消毒液の匂いが鼻をくすぐった。
部屋の奥では小さな火鉢に掛けられた薬缶から、白い湯気が細く立ち上っている。
室内では、数人の研究員たちがそれぞれの机に向かい、乳鉢で薬草をすり潰したり、硝子器具を使って薬液を調合したりしていた。
紙をめくる音や薬匙が硝子器に触れる澄んだ音が、静かな研究室に響いている。
三人の姿に気付いた研究員たちは、一斉に手を止めた。
「陛下」
椅子を引く音が重なり、全員が静かに一礼する。
ステラ陛下も小さく会釈を返した。
「仕事を続けてください」
研究員たちは再び机へ向き直り、静かな研究室に乳鉢を擦る音が戻った。
ミレーユは白衣の袖を整えながら、三人を研究室の奥へ案内する。
「こちらです」
窓の向かい側の壁一面は、本棚が埋め尽くしていた。
並んでいるのは医学書だけではない。
厚い革表紙の研究記録が何十冊と積み重ねられている。
その背表紙には、すべて同じ署名があった。
『アルトゥス・ゼフィール』
その名前を見て、ノアは足を止めた。
「……これは先王陛下が書かれたのですか」
「はい。ここは元々、先王陛下の研究室でしたので」
振り返って答えたミレーユに、ノアは目を丸くした。
「えっ、そうなんですか……?」
「ええ」
ミレーユは小さく笑って、書棚に並ぶ革表紙をそっと撫でる。
「先王陛下は即位前より医学を学ばれ、即位後も公務の合間を縫って研究を続けておられました……亡くなられる直前まで、この部屋へ通われていましたよ」
ステラ陛下は机の上に開かれた、研究記録に視線を落とす。
細かな計算式が書かれ、余白には何度も書き直した形跡があった。
ステラ陛下は計算式を指でなぞりながら、口を開いた。
「父様は……ここで、人を救う方法を探していたのですね」
ミレーユは頷いて、研究机の上から、小さな硝子瓶を手に取る。
「これが、その先王陛下の研究の成果――『星泉』です。」
窓の外の白さを映すように、硝子瓶の青い液体が淡く光を返した。
小さな星屑を溶かし込んだようにきらめいて見える。
「……綺麗ですね」
「ええ。見た目だけなら、ですが」
ミレーユは苦笑しながら硝子瓶を作業机へ戻すと、引き出しから一冊の記録簿を取り出した。
革張りの表紙には、『星泉』とだけ記されている。
ミレーユは頁を開き、机の上へ置いた。
人体の図と、成分の配合比、試験結果が几帳面な字で書き込まれている。
「研究の中心となるのは、『星晶抽出物』と呼ばれる希少成分です」
人体を描いた図の周囲に、いくつもの注釈が添えられていた。
『身体機能の活性化』
『疲労回復』
『神経伝達の促進』
『集中力の向上』
ノアは記録簿をのぞき込んだ。
「それだけ見ると、とても優れた薬なんですね」
「ええ、その通りです」
ミレーユは穏やかに頷く。
「ですが、星晶抽出物は非常に強力な成分です……こちらをご覧ください」
ミレーユが次の頁を開く。
そこには試験記録と、その横に赤い文字で副反応が記されていた。
『心拍数の上昇』
『感覚過敏』
『神経への負荷』
「そのまま投与すれば、身体は回復するどころか、成分の刺激に耐えきれません」
ミレーユはわずかに目を細め、淡々と説明を続ける。
「先王陛下は、投与量の調整や他成分との中和、安全に長期間使用できる配合を研究されました……目指していたのは、弱った身体が、本来持つ回復力を取り戻す薬です」
部屋には薬草の香りが微かに漂い、小さな乳鉢を擦る音が静かな言葉の合間を埋めていた。
「現在は回復効果そのものは確認されています」
ミレーユは別の記録簿を開き、机へ並べる。
改善を示す数値が並ぶ一方、その下には副反応の経過も細かく書き込まれていた。
「ですが、副反応を十分に抑えきれておりません。症状にも個人差があり、安全性の検証には、なお時間を要します」
ステラは記録へ目を通し、小さく頷いた。
「市場へ流通できる段階ではない、と」
「はい」
ミレーユは静かに答えた。
「焦って世へ出せば、人を救う薬ではなくなってしまいますから」
窓の外で風が強く吹き、硝子窓がかすかに震えた。
やがてノアが口を開く。
「以前提出されていた報告書では、シリウス殿下の事件で押収された薬も、この研究と関連があるとありましたが……」
ミレーユは頷き、今度は錠付きの木箱を机へ運んだ。
鍵を開けると、中には、小さな硝子瓶が収められていた。
液体は濁った紫色をしている。
「分析の結果、この薬物からも星晶抽出物が検出されました」
ノアは眉をひそめる。
「同じ成分、ですか……」
「ええ。ただし、目的がまったく異なります」
ミレーユは二本の瓶を並べた。
澄んだ青と濁った紫。
似た形の瓶の中で、それぞれの液体が揺れる。
「こちらは星晶抽出物の刺激作用だけを、強く引き出したものです」
ミレーユはさらに別の記録簿を開き、机へ置く。
「疲労を感じにくくなり、反応速度や身体能力が一時的に向上。恐怖心も薄れ、限界を超えた力を引き出すことができます」
ステラ陛下は記録簿に書かれた効能を、一つずつ指で追っている。
ノアは紫色の液体へ視線を向けた。
「……だから、違法とされても流通した」
「はい。ですが、その代償は決して小さくありません」
ミレーユは次の頁をめくる。
紙の擦れる音が小さく響いた。
『強い依存性』
『精神の不安定化』
『身体機能の著しい損耗』
ステラ陛下は几帳面に書かれた文字をのぞき込み、静かに見つめた。
「違法薬物は、人を本来以上の力へ押し上げるための薬です」
ミレーユの指先が、机に並べられた紫色の硝子瓶へ静かに触れる。
「同じ成分から生まれた薬でも、目指す先が違えば、まったく別のものになります」
研究室に小さな沈黙が落ちた。
遠くで乳鉢を擦る音だけが、静かに響いている。
「騎士団でも、その薬の噂は耳にする」
窓辺に立っていたリアが、雪の積もる薬草畑へ目を向けたまま口を開く。
「前線では、一歩間違えれば命を落とす。仲間が倒れることも、敵に囲まれることもある……その恐怖から逃れたいと思う者がいても、可笑しなことじゃない」
「……恐怖は、人を弱くするものですか」
静かな問いが落ちる。
リアはゆっくりとステラ陛下へ向き直り、小さく首を横に振った。
「いいえ。恐怖は、己の身を守るための本能です……恐怖を知るからこそ、人は盾を構え、仲間の背を預け、生きて帰ろうとします」
その眼差しは、ステラ陛下をまっすぐ見据えていた。
「問題は、恐怖ではありません。恐怖に支配されることです」
窓硝子の向こうでは、細かな雪が絶え間なく舞っている。
白く埋もれた薬草畑を、冬の風が静かに渡っていった。
ミレーユが静かに続ける。
「違法薬物は人の心の隙につけ込みます……だからこそ、私たちは人を支える薬を完成させなければなりません」
雪に覆われた庭の白さが、書棚に並ぶ研究記録の背表紙を静かに照らしていた。
視察を終えて外へ続く扉を開くと、頬を刺すような風が迎えた。
中庭には新しい雪が降り積もり、踏みしめるたび、足元で小さく雪が鳴る。
「陛下ー!」
聞き慣れた声がして、灰色の外套を翻したユリアが中庭を駆けてきた。
肩掛け鞄を抱えたまま軽やかに雪を蹴り、三人の前でぴたりと足を止める。
「ルシアン伯爵からのお手紙です」
鞄から一通の封書を取り出し、ステラへ差し出した。
封蝋には伯爵家の紋章が押されている。
ステラは受け取り、歩きながら封を切った。
便箋へ目を通すと、小さく口元を緩める。
「やはり、ルシアン伯は早いですね」
ノアが尋ねる。
「何が書かれていたんですか?」
「隣国の穀物価格と、港の荷の流れです」
ノアは少し首を傾げた。
雪が外套の方へ軽く積もっていく。
「それは……商売の話ですか?」
「はい」
ステラ陛下は視線を便箋へ戻し、静かに言葉を続けた。
「商いは国境を越えます」
風が白い吐息を空へ運んでいく。
「港が静かになれば、どこかで争いが起きているかもしれない。鉄の値が急に上がれば、武具が求められているのかもしれない」
雪の積もる中庭をゆっくり歩きながら、ステラ陛下は手紙を丁寧に折り畳む。
「ルシアン伯爵は、荷馬車と商船の流れから国を見ています……王宮の中だけでは見られない景色です」
リアも静かに頷いた。
「商人だからこその視点ですね」
「……私にはその視点が必要です。商いもまた、国を支える力ですから」
冷たい風が吹き抜け、雪をさらう。
靡くマントを抑えながら、ユリアが真顔で口を開いた。
「私は荷馬車を見ると、お菓子が積んであるか気になります」
ノアは一瞬目を瞬かせて、尋ねる。
「積んであれば、どうするんですか?」
「そりゃあ、決まってますよ。配達中に一つ……」
にこりと笑うユリアに、リアが横から鋭く言う。
「窃盗だな。余罪はあるか?」
「違います、配達料としていただくだけです。領収書も切ります」
「その領収書、通るんですか?」
「書くのは自由ですから」
ユリアは悪びれる様子もなく肩を竦める。
それを見て、ステラ陛下は小さく笑みをこぼした。
雪は静かに降り続け、四人は白く染まった中庭を歩いていく。
ノアは白く吐いた息を見つめながら、振り返る。
研究棟の窓辺には、降り続く雪を背に、灯りがともっていた。
第六章 大星の誓い
薬についての話からスタートです。
少しずつ、投獄された兄に迫っていきます。
お楽しみに!




