第二十八話 それぞれの春へ
冬の海風に想いを乗せ、姉妹はそれぞれの春へと向かうーーー
【王は、人を引き留める者ではない。
人が、それぞれの居場所で生きられる国を、
守り続ける者である。
その道が王と交わることのないものであっても
願うのは、その先に穏やかな春があることだ。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
施療院を出ると、修道院の庭には夕刻の赤い陽が差していた。
冬の畑では修道女たちが土を耕し、子どもたちは木陰で読み書きの練習をしている。
潮風に乗って、鐘の音が静かに流れてきた。
案内役の修道女が一礼する。
「少し、お時間をいただきます」
そう言って修道女たちは離れていった。
リアも周囲へ目を配りながら距離を取る。
ユリアは子どもたちに呼ばれ、小さく手を振って中庭へ向かっていった。
ノアは少し離れた回廊の柱の陰へ下がる。
その場にはステラ陛下とセレナ様だけが残っていた。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
畑の向こうでは、子どもたちの笑い声が弾ける。
「……姉様」
ステラ陛下が静かに口を開く。
「後悔していますか」
セレナ様はすぐには答えなかった。
庭へ目を向け、小さく息を吐く。
「……しているわ。王女として、私は間違えたもの」
短く言って、苦く笑う。
セレナ様は遠くで遊ぶ子どもたちを見る。
「でも、だからといって、全部を嫌いにはなれない」
穏やかな声だった。
「時々夢を見るのよ……もし違う道を選んでいたらって」
それだけ言って、セレナ様は小さく笑う。
子どもたちの笑い声が、庭に響いていた。
「でも、最近は、その夢を見る日も少なくなったわ」
修道女たちが笑い合いながら籠を運び、子どもたちがその後を追い掛けていた。
「……みんながいるからですか」
ステラ陛下が尋ねる。
セレナ様は静かに頷く。
「ええ、きっとそうね」
不意に、中庭の向こうから元気な声が響いた。
「セレナ先生!」
振り返ると、小さな男の子がこちらへ駆けて来る。
勢い余って転びそうになり、後ろから追い掛けてきた修道女が慌てて手を伸ばした。
しかし、その前にセレナ様がしゃがみ込む。
「大丈夫?」
男の子は照れくさそうに頷いた。
「うん、平気」
「よかった」
セレナ様は膝についた土を軽く払い、小さな頭をひと撫でする。
その様子を見ていた子どもたちも、一斉に駆け寄ってきた。
「先生!」
「この前の本、もう読んだよ!」
「見て見て、字が書けるようになった!」
小さな紙を両手で差し出す少女に、セレナ様は目線を合わせる。
紙を受け取り、ゆっくりと目を通す。
「本当ね。とても上手になったわ」
褒められた少女は、誇らしそうに笑った。
その輪の中へ、一人の修道女が近づいてくる。
「セレナ様、施療院のお薬を替えておきました」
「ありがとうございます。あとで確認します。」
修道女は頷き、また仕事へ戻っていく。
誰も特別に畏まらない。
誰も「王女殿下」とは呼ばない。
そこにいるのは、人々と肩を並べて働く、一人の修道女だった。
その光景をステラ陛下は静かに見つめていた。
ただ、子どもたちに囲まれて笑う姉の姿を目で追っている。
風が吹き、庭に干された洗濯物がゆっくりとはためく。
鐘楼では、鐘が静かに鳴り始めた。
その音に合わせるように、リアが一歩前へ出る。
「陛下……そろそろ、お時間です」
ステラ陛下は小さく頷いて、もう一度だけセレナ様へ視線を向ける。
その時、子どもたちの輪の中から、一人の少女が大きく手を振った。
「セレナ先生、明日もお勉強してね!」
「ええ、約束よ」
セレナ様は穏やかに微笑み、手を振り返した。
その笑顔は、王宮で肖像画の中に描かれていた第一王女のものとは少し違って見えた。
飾らない、けれど温かな笑顔だった。
翌朝。
修道院の鐘が、一日の始まりを告げる。
門前には王宮の馬車が停まり、近衛兵たちが出発の支度を整えている。
海から吹く風は冷たいが、昨日より空は明るい。
修道女たちが門の前に並び、一行を見送るため静かに頭を下げた。
その列の中に、セレナ様も立っている。
灰色の修道服に白い外套を羽織りる彼女に、ステラ陛下が歩み寄る。
「お元気そうで、安心しました」
セレナ様は穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、陛下。視察、お疲れさまでした」
「……はい」
二人とも、それ以上は言葉を続けなかった。
その静けさを破るように、修道院の中から元気な声が響いた。
「セレナ先生!」
小さな子どもたちが、一斉に駆け寄ってくる。
「先生!早く!」
「畑に芽が出たの!」
「今日もお勉強するんでしょう?」
何人もの子どもがセレナ様の袖を引く。
セレナ様は思わず笑みを浮かべ、しゃがんで目線を合わせた。
「そんなに急がなくても逃げないわ」
子どもたちが笑う。
その輪の中へ修道女が加わり、老人が穏やかな目で見守っている。
誰もが自然に、そこへセレナ様がいることを受け入れていた。
ステラ陛下は、その光景を静かに見つめていた。
やがてセレナ様がこちらを振り返り、ユリアに声を掛ける。
「ユリアさん」
「はい」
ユリアが歩み寄ると、彼女は修道服の袖から、一通の手紙を取り出した。
封蝋には小さな花を象った個人印が押されていた。
「これを、ルシアン伯爵へ」
セレナ様は微笑むように、目を細める。
「修道院を支援してくださっているので、そのお礼です……手が空いた時で構わないから、頼めますか?」
ユリアは封書を両手で受け取り、にこりと笑った。
「もちろんです。必ず、お届けします」
「ありがとう」
セレナ様は穏やかに笑う。
冷たい海風が、庭の樫の葉を揺らした。
リアが馬車へ視線を向ける。
「陛下、お時間です」
ステラ陛下は小さく頷いた。
セレナ様へ向き直る。
「……また」
その一言に、セレナ様は少しだけ目を丸くした。
けれど、すぐ柔らかな笑みを浮かべる。
「ええ、またお会いしましょう。それまで、どうかお元気で」
ステラ陛下は一礼する。
セレナ様と修道女たちも、深く礼を返した。
馬車がゆっくりと門を離れる。
窓の外では、子どもたちがセレナ様へ何度も手を振っていた。
「セレナ先生ー!」
その声に、セレナ様も手を振り返す。
子どもたちの方へ向くその姿を、ステラ陛下は静かに見つめていた。
馬車は海沿いの街道を東へ進んでいく。
窓の外では、冬の陽射しが波を白く照らしていた。
不意に、ユリアが窓の外を見たまま口を開く。
「……少し、寂しかったですか?」
ステラ陛下はわずかに視線を泳がせながら答えた。
「……はい」
静かな一言に、しばらく沈黙が続いた。
やがてユリアが穏やかに微笑む。
「でも、あの方は、一人じゃありませんでしたね」
ユリアの手には、ルシアン伯爵宛ての手紙が握られていた。
ステラ陛下は窓の外へ目を向ける。
修道院の庭。
笑う子どもたち。
働く修道女たち。
穏やかに腰掛ける老人たち。
その中心には、いつもセレナ様がいた。
「……そうですね」
馬車の車輪が石畳を規則正しく叩く音だけが続いていた。
ユリアがぽつりと言う。
「人って、不思議ですね」
ユリアは窓の外を眺めたまま続けた。
「誰かの隣を離れても、誰かの居場所にはなれる」
その言葉は、静かに車内へ落ちた。
ステラ陛下は何も答えなかった。
ただ、遠ざかっていく西の空を見つめている。
ノアはそっと視線をステラ陛下へ向けた。
窓から差し込む冬の光が、静かに彼女の横顔を照らしていた。
第5章『春花の行方』、完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
姉と別れ、一抹の寂しさを飲み込んだステラの行末に、どんな春があるのか…。
次章もお楽しみに!




