第三話 王の言葉
王として、言葉を送るとき。
【王宮へ届く手紙の多くは、陳情か、祝辞か、苦情である。
だが返事を書く側の苦労について語る歴史書は少ない。
何故なら大抵の場合、
その仕事は秘書官あるいは我々、書記官がやるからだ。
この日ばかりは違ったが。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
戴冠式から三日後。
王宮には、未だ落ち着きというものが存在していなかった。
評議会は新王への政務説明に追われ、軍部は国境警備の増強を訴え、星祈教団は冬至祭の準備について謁見を求めている。
玉座へ座ったからといって、王が突然“大人”になるわけではない。
むしろ幼い王であるからこそ、周囲は余計に騒がしかった。
そして当然、その余波は王室記録局にも押し寄せている。
「ノア!第三会議室の議事録は!?」
「今まとめてます!」
「祝辞一覧の写本が足りん!」
「それ昨日、追加来ましたよね!?」
机の上には紙束。
床にも紙束。
椅子にも紙束。
もはや何が正式書類で何が下書きなのか、本人すら怪しい。
ノアは半分死んだ目で羽根筆を走らせていた。
その時。
「……ノア・フェルディン?」
不意に、静かな声が落ちた。
ノアは顔を上げる。
記録局入口に立っていたのは、灰色のマント姿の少女だった。
年齢は十五ほどだろうか。
身軽そうな身体つきで、どこか野良猫みたいな目をしている。
灰色のマント。
その中には動きやすい濃茶色の上着と細身のズボン。
程よく使い込まれた革靴。
左肩から提げた革製の郵袋には、銀色の糸で星冠の紋章が刺繍されていた。
それは彼女が、王室直属配達人ーーー王家の公務に関する書簡や機密文書を各部署へ届ける役職であることを示していた。
「あれ、配達人さん」
「ユリア・レインです」
「失礼しましたユリアさん。今日はどうされました?」
するとユリアは、肩掛け鞄の中から一通の封筒を取り出した。
厚手の乳白紙。
王宮で用いられる公文書用のものより少し柔らかく、表面には淡い繊維模様が入っている。
封蝋は深い青銀色。
そこへ小さく刻まれているのは、星冠を象った王家紋章だった。
正式な勅令に用いられる大紋章ではない。
私的書簡用の、比較的小さな印。
だが問題はそこではない。
王家の封蝋が使われている。
その事実だけで、記録局の空気が一変した。
「陛下からです」
ユリアが淡々と言った瞬間、周囲の羽根筆がぴたりと止まる。
一秒前まで、
「議事録どこだ!」
「誰だこの字書いたの!」
「インク足りん!」
と怒号混じりだった室内が、不自然なほど静まり返った。
次の瞬間。
書記官たちの視線が、一斉にノアへ突き刺さる。
ノアは嫌な予感しかしなかった。
(なんで僕!?)
ノアは心の中で叫んだ。
「おいノア……何やった……」
隣席の書記官が青ざめた顔で呟く。
「まさか原稿に不備でも……?」
「いやでも三日後に呼び出しって怖すぎるだろ」
「処分か?」
「縁起でもないこと言わないでください!」
ノアは半泣きで否定した。
だが否定しながらも不安は膨らむ。
王家から直接の呼び出しなど、普通の書記官人生ではまず経験しない。
しかも相手は、今もっとも王宮内で注目されている幼王。
評議会も軍部も教団も、あの戴冠式以来ぴりついている。
そんな中で、一介の書記官補佐が個別に呼ばれる理由など、ろくな想像が出来なかった。
ノアは恐る恐る封筒を見る。
表書きには、まだ少し不慣れさの残る整った文字で、『ノア・フェルディン様』と書かれていた。
一文字一文字、丁寧に書こうとした跡が見える。
ノアは思わず瞬きをした。
……これ、もしかして陛下本人が書いたのか?
そう思った瞬間、妙な緊張が別方向へ膨らみ始める。
『王族用私設書庫に来てください。
ーーーーーーステラ・ゼフィール』
本文の内容はそれだけだった。
王からの召喚状というには簡素だが、親しい者への手紙というには業務的。
伝達用のメモ書き、という感じだろうか。
それにしては使われている便箋が上品すぎるが。
訝しむノアの内心を読んだように、ユリアが言う。
「ちなみに逃亡はおすすめしません」
「逃げませんよ!?」
「今ちょっと考えましたよね」
「考えてません!」
嘘だった。
少しだけ考えた。
「……なんで僕なんですか?」
「指名です」
「だから、なんで?」
「知りません」
ユリアは、にこりと笑って即答した。
数秒後。
ノアは山ほどの書類を抱えたまま、王宮奥へ連行されていた。
「ちょ、ちょっと待ってください本当に今忙しくて――」
「大丈夫です」
「何が!?」
「書記局、もう全員死んだ顔してるので」
ユリアは記録局を振り返る。
「……誤差です」
「誤差で済ませないでください!」
ユリアは少しだけ笑う。
この配達人、思ったより遠慮がない。
そんなことを考えているうちに、二人は王宮奥の小書庫へ辿り着いていた。
王族用私設書庫。
政務室ほど堅苦しくなく、かといって完全な私室でもない場所だ。
窓際には、小さな人影が座っていた。
ステラ陛下である。
今日は簡素な紺色の室内服姿だった。
戴冠式の時のような重たい外套も星冠もない。
椅子へ座る姿は年相応に小さく、本棚へ囲まれているせいか、どこか読書好きの子供みたいにも見えた。
ステラ陛下はノアへ視線を向け、小さく言った。
「……来ましたか」
「え、ええ……呼ばれましたので……」
ノアは慌てて一礼する。
そして陛下の前の机に目を移すと、ノアは思わず瞬きをした。
紙。
紙。
紙。
さらに紙。
書き損じらしい紙束まで積まれている。
「……何かあったんですか」
恐る恐る尋ねる。
ステラ陛下は数秒黙った。
それから静かに言う。
「返事を書きたいんです」
そう言って机上の紙束を示した。
ノアは近付いて内容を見る。
そこに並んでいたのは、
北方伯。
南方侯。
東部連合領主会。
鉱山管理官。
街道監督官。
戴冠を祝う書簡の数々だった。
ノアは思わず息を止める。
ざっと見ただけでも三十通はある。
「……全部ですか」
「全部です」
「全部?」
「全部です」
静かな即答だった。
嫌な予感がして思わず視線を反らすと、ノアの少し後ろで控えていたユリアと目が合った。
ユリアは、にこりと微笑む。
逃亡はおすすめしませんーーーそう言っている顔だった。
「ユリアさん」
「はい」
「知ってました?」
「知ってました」
即答だった。
「教えてくださいよ!」
「先に言ったら来なくなりそうだったので」
「当たり前ですよ!」
ユリアはくすくす笑う。
どうやら本当に面白いらしい。
「でも、陛下。最初は十通くらいって仰ってませんでした?」
ユリアが首を傾げる。
ステラ陛下は少し考えた。
「増えました」
「増えましたか」
「増えました」
ユリアは納得したように頷いた。
ノアだけが納得できなかった。
「何でそこで納得するんですか」
「最近の陛下、そういうことありますから」
「あるんですか」
「あります」
ユリアは笑顔のまま断言した。
「一冊だけ読む予定だった資料が、五冊になったり」
「ありました」
ステラ陛下が頷く。
「一時間だけの予定だった勉強会が、夕方まで続いたり」
「ありました」
「怖い話やめてください」
ノアは頭を抱えた。
ステラ陛下は少しだけ首を傾げる。
本人に自覚はなさそうだった。
「……普通は秘書官が定型文を作るんじゃないんですか?」
恐る恐る尋ねる。
するとステラ陛下は少し考えてから答えた。
「それだと同じ手紙になります」
「はい」
「でも、北方と南方では事情が違います」
「それは、そうですね」
「街道管理官と鉱山管理官も違います」
「そうですね」
「なのに全部同じ返事だと、変な気がして」
ノアは言葉に詰まった。
確かに王家の返書は定型文が多い。
『祝辞をありがたく受け取った』
『今後も王国への忠誠を期待する』
『変わらぬ協力を願う』
内容は大体そんなものだ。
効率は良い。
間違いもない。
だが誰に送っても同じ文章になる。
ステラ陛下は机上の手紙を一通手に取った。
「この方は北方伯です」
「はい」
「去年の雪害で街道が塞がれています」
次の一通を持ち上げる。
「こちらは南方侯です」
「はい」
「今年は豊作だったそうです」
さらに別の封筒。
「こちらは鉱山管理官」
「はい」
「炭鉱事故が続いています」
ノアは少し黙った。
正直に言えば、意外だった。
祝辞を送ってきた相手の名前を確認するのは分かる。
だが、その領地の事情まで把握しているとは思わなかった。
ましてステラ陛下はまだ十歳だ。
ノアは思わず尋ねる。
「……全部覚えてるんですか」
ステラ陛下は首を傾げた。
「覚えるものでは?」
ノアは返答に困った。
まるで、「ご飯は食べるものでは?」くらい自然な口調だったからだ。
領主の名前だけではない。
ステラ陛下は領地の状況や最近の出来事まで覚えている。
それが王として普通なのかどうかは、ノアには分からない。
ただ少なくとも、
目の前の少女にとっては当たり前らしかった。
するとユリアが小さく笑った。
「最初は私も驚きましたよ」
「え?」
「北方の炭鉱事故の話をしたら、陛下の方が詳しかったので」
「ユリア」
ステラ陛下が少しだけ困った顔をする。
「本当じゃないですか」
ユリアは悪びれない。
「私、届け先の名前しか覚えてなかったんですけど、陛下は炭鉱の場所まで覚えてました」
「……」
ノアは思わずステラ陛下を見る。
ステラ陛下は視線を逸らした。
少しだけ気まずそうだった。
だが否定はしない。
つまり事実なのだろう。
ユリアは楽しそうに続ける。
「だから私、最近は陛下に聞いた方が早いかなって思ってます」
「やめてください」
珍しくステラ陛下が即答した。
そのやり取りを見て、ノアは少しだけ肩の力が抜けた。
戴冠式の日に見た王と、今目の前にいる少女は同じ人物のはずなのに、不思議と別人のようにも見えた。
そんなことを考えていると、ステラ陛下は再び机上の手紙へ目を落とした。
「北方伯には、雪害対策についても書きたいんです」
「はい」
「南方侯には収穫のお祝いを」
「はい」
「鉱山管理官には事故で亡くなった方への弔意を」
ノアは頭を抱えた。
「……つまり」
「はい」
「全部内容を変えるんですね」
「はい」
即答だった。
ノアは遠い目になる。
ざっと三十通。
一通ずつ内容変更。
しかも相手は領主。
失礼があれば問題になる。
「帰りたい……」
思わず本音が漏れた。
するとステラ陛下は少し困った顔をした。
「駄目ですか」
その表情は反則だった。
ノアは天井を見上げる。
そして諦めた。
「……やります」
「ありがとうございます」
少しだけ。
本当に少しだけ。
ステラ陛下の表情が和らいだ。
その横で、ユリアがぱちぱちと小さく拍手した。
「おめでとうございます、お仕事が増えましたね」
「全然おめでたくないですよ!?」
ユリアは楽しそうに笑う。
「でも断らないと思ってました」
「なんでですか」
「本当に嫌なら、もう少し抵抗します」
「僕は十分抵抗しましたよ」
「帰りたいって言っただけじゃないですか」
「抵抗です」
「願望ですよね」
「……そうかもしれません」
認めた瞬間、ユリアは満足そうに頷いた。
どうやら最初から見抜かれていたらしい。
「素直でよろしいです」
「褒められてる気がしないんですが」
ユリアは楽しそうに笑うと、机上の手紙の山へ手を伸ばした。
「じゃあ私は封筒を整理しておきますね」
そう言ってユリアが一番上の束を持ち上げる。
ずしりと重そうだった。
ユリアは紙束とノアを見比べた。
「……これ全部ですか?」
「全部です」
「うわあ」
「今さらですか」
「今さらです」
ユリアはけろりと答えて、続ける。
「ノアさん、今日帰れます?」
「帰りたいです」
「帰れます?」
「帰りたいです」
「質問の答えになってませんよ」
くすくすと笑う声が響く。
その様子を見ていたステラ陛下も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
どうやら、この仕事から逃げられないのは確定らしい。
それから二人は机を挟んで座る。
最初の相手は北方伯だった。
ユリアは少し離れた棚の前で封筒を整理している。
「まず冒頭は定型でいいと思います」
ノアが羽根筆を持つ。
「戴冠への祝辞をありがたく受け取りました――」
「硬いですね」
「公式文書なので」
「もっと暖かくできませんか」
「領主宛てですよ?」
「でも感謝しているのは本当です」
ノアは少し考える。
そして書き直した。
『戴冠へのお言葉を賜り、心より感謝いたします』
「……こっちの方がいいです」
ステラ陛下が頷く。
すると横からユリアも覗き込んだ。
「確かにこっちの方が嬉しいですね」
「そうですか?」
ノアが顔を上げる。
「はい。前の方は王宮から届いた手紙って感じですけど」
ユリアは新しい文面を指差した。
「こっちは陛下から届いた手紙って感じがします」
ステラ陛下が少しだけ目を瞬いた。
ノアも思わず文面を見返す。
正直なところ、その違いはよく分からなかった。
その後も修正は続いた。
『今後とも王国への忠誠を――』
「忠誠は要求するものですか?」
「王家は割とします」
「でも今回のお手紙は忠誠確認ではありません」
「確かにそうですね……」
ノアが文面へ線を引く。
するとユリアが楽しそうに言った。
「今日だけで何回書き直しました?」
「数えないでください」
「数えてません」
「その顔は数えてますよね」
「十五回くらいです」
「数えてるじゃないですか!」
ユリアはくすくす笑った。
ステラ陛下も少しだけ口元を緩める。
気付けば夕方になっていた。
窓の外は赤く染まり始めている。
完成した手紙はまだ五通。
残り二十数通。
先は長かった。
「終わりませんね」
ステラ陛下が呟く。
「終わりませんね」
ノアも頷く。
するとユリアが封筒の束を持ち上げた。
「まだ五通しかありませんからね」
「現実を突き付けないでください」
「事実です」
ユリアは、にこりと笑う。
まったく慰める気はないようだった。
その時だった。
ステラ陛下が一通の祝辞を見つめながら、小さく言う。
「……言葉って難しいですね」
ノアは顔を上げる。
「同じ意味でも、書き方で変わります」
「そうですね」
ステラ陛下の指先が、手紙の端をそっとなぞる。
「感謝も、命令も、謝罪も」
その言葉だけが、静かな部屋に溶けていく。
ノアは黙って聞いていた。
ステラ陛下は静かに続ける。
「王になると、たくさんの人へ言葉を送ります」
西日が窓硝子を橙色に染めていた。
「でも今までの私は、誰かへ言葉を送る側ではありませんでした」
机の上へ伸びた夕暮れの影が、ゆっくりと長くなる。
「だから」
小さな声だった。
「まだ、よく分からないんです。どんな言葉を選べばいいのか……何を書けば届くのか……」
少し考えるように視線を落とし、それから静かに続ける。
「だから、間違えたくないんです」
ノアは返事をしなかった。
出来なかった。
十歳の少女が言うには、あまりにも重い言葉だと思ったからだ。
静かな沈黙の中で、封筒を整えていたユリアがぽつりと言った。
「でも」
二人が顔を上げる。
ユリアは少し照れたように笑う。
「受け取った人は嬉しいと思いますよ」
「……そうでしょうか」
「はい」
ユリアは頷いた。
「だって私なら嬉しいです」
そう言って積み上がった手紙を見た。
「定型文より、自分のために考えてくれたって分かる方が」
ステラ陛下は少しだけ目を丸くした。
それから静かに手元の紙へ視線を落とす。
どこか安心したような表情だった。
「……じゃあ」
ノアは新しい紙を机へ置いた。
「続きをやりましょうか」
ステラ陛下は小さく頷く。
「はい」
ユリアも封筒の束を抱え直す。
「まだ二十五通くらいありますしね」
「言わなくていいです」
ノアが即答した。
くすりと笑い声が響く。
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り始めていた。
完成した手紙はまだ五通。
残りは二十を優に超える。
先は長い。
けれどその日、ステラ陛下は初めて、自分の言葉を誰かへ届けようとしていた。
第一章『幼王戴冠』はここまで。
ノアとユリアは、書記官と配達人。
情報を記す者とそれを運ぶ者。
良き友人になると思います。
ここまでお読みいただいた皆様、
ありがとうございます。
次回より、第二章『冬越しの議会』スタートです。
お楽しみに!!
追記:この第三話は大幅な加筆修正しております。




