第二十六話 春をあとに
その王女は、春の果てに何を失うのかーーー
アルヴェイン公国の使節団が予定どおりの日程をこなす傍ら、王城では、日に日に伝令の姿が増えていた。
外務卿や文官たちは書簡を抱えて廊下を行き交い、執務室の扉は絶え間なく開閉している。
そしてある日、アルヴェイン公国から急報が届いた。
――西部で有力貴族による王家批判が表面化。
さらに数日も経たぬうちに、別の報せが王宮へ届いた。
――ベルモント家当主、貴族派との会談へ出席。
父王の執務室でその一文を読み、セレナは書簡を握り締める。
「……アレクシス様は」
ガイウスが静かに首を振る。
「本人が関与したという報告はありません」
ガイウスが一枚の檄文を机へ置いた。
書簡によれば、アルヴェイン公国の街角で配られているものらしい。
そこには大きく書かれていた。
『アステリア王国第一王女、我らを支持す。ベルモント家と第一王女の婚姻も間近』
父王は、静かに目を閉じて言った。
「……最悪の形だな」
セレナは言葉を失った。
執務机の上には、各国から届いた書簡が幾重にも積まれている。
開かれた窓から入り込んだ風が、その一枚をかすかに揺らした。
セレナは、その紙面から目を離すことができなかった。
数日後。
アルヴェイン公国使節団の帰国が決まった。
予定よりも早い出立だった。
王城の正門前には馬車が並び、従者たちが荷を積み込んでいる。
空は薄く曇り、風が庭木を静かに揺らしていた。
見送りには父王をはじめ、王族や重臣たちが列を作る。
セレナも礼装姿で、その列の一人として立っていた。
形式通りの別れの挨拶が続く。
使節団の面々が順に頭を下げ、馬車へ乗り込んでいく。
最後に、アレクシスがセレナの前で足を止めた。
以前と変わらぬ濃紺の礼装。
だが、その翡翠色の瞳には、春の日に見せた穏やかさとは違う影が落ちていた。
「殿下」
アレクシスは頭を下げ、小さく声を落とした。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
セレナは周囲へ視線を向ける。
父王たちは別の使節と言葉を交わしている。
侍従も、少し距離を置いて控えていた。
二人は正門脇の回廊へ移った。
石柱の間を、初夏を告げる風が静かに吹き抜ける。
庭の薔薇園では、咲き始めた白薔薇が陽を受けて揺れていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、アレクシスだった。
「……申し訳ありませんでした」
その一言に、セレナはゆっくりと首を振る。
「謝る必要はありません」
「ですが、私の家が……」
「あなたではありません」
言葉を重ねるように、セレナは続けた。
「あなたが望んでいないことくらい、分かっています」
アレクシスは俯いた。
拳が、わずかに握られる。
「しかし、止められませんでした……父を説得することも、家を変えることも」
その言葉に、セレナは何も返せなかった。
彼もまた、公爵家の嫡男という立場に縛られていた。
「殿下」
アレクシスが顔を上げる。
翡翠色の瞳が、真っ直ぐセレナを見つめた。
「もし……」
彼は一度だけ言葉を止め、それから、小さく笑った。
「もし、私がただの一人の男として、あなたに出会っていたなら」
セレナも笑みを浮かべ、少しだけ空を見上げる。
「その時は……きっと、幸せだったのでしょうね」
二人とも、その先は言わなかった。
静かな風が吹き、白薔薇を揺らす。
侍従が遠慮がちに近づく。
「アレクシス様、まもなく出発のお時間です」
「……分かりました」
彼は一度だけ深く一礼した。
「殿下の歩まれる道が、穏やかなものでありますように」
セレナも静かに礼を返す。
「あなたも、どうかお元気で」
アレクシスは踵を返し、馬車へ向かう。
彼が振り返ることはない。
セレナも呼び止めなかった。
やがて馬車の列がゆっくりと城門を抜けていく。
車輪の音が遠ざかるにつれ、庭に残るのは風の音だけになった。
石畳の上へ、白薔薇の花びらが舞い落ちる。
セレナはその花びらを見つめたまま、静かに目を閉じた。
使節団が国境を越える頃には、すべてが動き始めていた。
隣国で起きた政変は、瞬く間に周辺諸国へ広がる。
街角で配られた檄文について、問題は真偽ではなかった。
その噂だけで、各国はアステリア王国の中立姿勢に疑念を抱き始める。
王宮では連日、外交会議が開かれた。
外務卿や宰相、各部局の重臣が深夜まで出入りを繰り返し、謁見の間には緊張した空気が張り詰めていた。
数日後。
セレナは評議会への出席を命じられた。
重厚な扉が静かに開く。
玉座には父王が座り、その左右には宰相ガイウスをはじめとする重臣たちが並んでいる。
誰も声を荒らげる者はいない。
その静けさが、かえってセレナの胸に重くのしかかった。
父王が口を開く。
「第一王女セレナ・ゼフィール」
「はい」
「今回の件について、申し開きはあるか」
セレナは静かに首を横へ振った。
「何もございません。私の判断が至りませんでした」
議場に重たい沈黙が落ちる。
セレナは体の前で揃えた手を、小さく握った。
やがて父王が、ゆっくりと頷く。
「……お前は、人を信じることを誤ったのではない」
父王の声は、広間の隅々まで静かに響いた。
「だが、王族とは己の想いより先に、国を守らねばならない 。その責を負う以上、第一王女としての地位を、このまま維持することはできぬ」
セレナはゆっくりと瞼を伏せた。
わずかに息を整え、顔を上げる。
そして朗らかに微笑んだ。
その表情は、これまで幾度となく外交の席や社交界で見せてきたものだった。
「陛下、お願いがございます」
議場に、衣擦れの音だけがかすかに響く。
父王は静かに頷き、先を促した。
「私は、王位継承権を辞退いたします」
その申し出に、重臣たちが小さく息を呑む。
「そして、星祈教の修道院へ入ることを、お許しいただけないでしょうか」
父王はセレナを真っ直ぐ見つめていた。
セレナは両手を胸の前で静かに重ねる。
「王女として果たせなかった責任を、別の形で償いたいのです」
窓から差し込む光が、静まり返った議場を淡く照らした。
庭では初夏の風が木々を揺らしている。
長い沈黙の末、父王はゆっくりと息をつく。
「……お前の願いを認めよう」
セレナは片足を引き、スカートを軽く持ち上げ、深く一礼する。
その所作は最後まで乱れることはなかった。
その日、アステリアの第一王女は、自ら王位継承権を手放した。
セレナが修道院へ出立する日。
王宮正門には、一台の質素な馬車が停まっていた。
豪華な装飾も、見送りの楽団もない。
修道服へ袖を通したセレナは、小さな旅行鞄を一つだけ手にして石段を下りる。
夏に近づく風が白い裾を揺らした。
正門の前で足を止める。
ゆっくりと振り返ると、宮殿の階段には王族と重臣たちが静かに並んでいた。
父王。
母后。
弟の王子たち。
そして、その列の少し後ろ。
侍女の隣で、小さな少女がじっと立っていた。
白銀の髪を風に揺らし、青灰色の瞳でこちらを見つめている。
末姫のステラだった。
彼女は体の前で手を揃え、何も言わずに姉の姿を目で追っている。
セレナは、その小さな姿をしばらく見つめた。
やがてセレナは静かに胸へ手を当て、一礼した。
馬車へ乗り込み、御者が扉を閉める。
車輪がゆっくりと動き始め、王宮が遠ざかっていく。
窓越しに見えた石段の上で、小さな白い影だけが最後まで動かなかった。
庭の花々の淡い花びらが舞い上がる。
空へ昇った花びらは、風に乗り、王宮の外へ流れていった。
セレナの回想回は終わりです。
もし、他国のアレクシスではなく、ルシアンがセレナにもっと踏み込めていたら。
あまり問題にはならず、セレナが王になっていた未来もあったかもしれない。
そう考えると、自分で書きながら胸が詰まる思いです。
次回、現在のセレナの姿は……。
お楽しみに!




