第二十五話 風に散る花
人を信じたいと願った王女の、春。
風は静かに花を揺らすーーー
アステリアの王都には、春の風が吹いていた。
白い石畳の広場には色とりどりの花が並び、人々の笑い声が城門まで届いている。
王城では、隣国アルヴェイン公国の使節団を迎える晩餐会の準備が進められていた。
セレナの私室では侍女たちが長い裾を整え、鏡の前では宝石が静かに光を返す。
「セレナ殿下、お時間です」
控えめな呼び声に、セレナは鏡から視線を上げた。
淡い銀髪は丁寧に結い上げられ、薄青の礼装には星銀の刺繍が施されている。
肩へ掛けられた白い外套には、王家の紋章。
幼い頃から何度も袖を通してきた正装だった。
「参りましょう」
扉が開く。
廊下へ出ると、侍従や女官たちが一斉に頭を下げた。
「セレナ殿下」
「本日もお美しく」
「晩餐会の成功をお祈りしております」
セレナは彼女たちへ微笑みを返しながら歩く。
歩幅も、姿勢も、笑みも、王女として教えられた通りの姿だった。
大広間へ入ると、楽団の演奏が静かに流れ始める。
各国の使節や王国貴族たちの色とりどりの礼装が、シャンデリアの光を受けて揺れていた。
「第一王女セレナ殿下、ご入場」
侍従の声が響く。
人々が一斉に振り返り、自然と笑みを浮かべる。
「さすが第一王女様だ」
「王妃陛下によく似ておられる」
「外交は安心だな」
そんな声が耳に届く。
父王の隣へ進み、一礼する。
形式どおりの挨拶。
形式どおりの乾杯。
形式どおりの談笑。
それが王女の仕事だった。
各国の来賓へ順に挨拶を重ねていく。
「本日はようこそ、アステリア王国へ。歓迎いたします」
誰もが礼儀正しく応じる中、セレナは一人の男に目を止めた。
濃紺の礼装は過度な装飾を避けた仕立てで、銀糸による蔦模様だけが袖口から肩口へ控えめに伸びている。
胸元には家紋を刻んだ銀の徽章。
柔らかな栗色の髪は短く整えられ、窓から差し込む灯りを受けて淡く艶めいていた。
若葉を思わせる翡翠色の瞳は穏やかで、王女を見るその視線にも、爵位や立場を量るような色はない。
端正な顔立ちではあるが、人目を引くのは容姿よりも、その静かな佇まいだった。
華やかな宴席にあっても肩肘を張ることなく、誰かの話には自然と耳を傾け、給仕が通れば半歩退いて道を譲る。
その一つ一つの所作に、育ちの良さが滲んでいた。
彼はセレナの前まで歩み寄ると、胸へ手を当てて静かに一礼した。
「お会いできて光栄です、殿下。アルヴェイン公国ベルモント公爵家が嫡男、アレクシスと申します」
「こちらこそ、お会いできて嬉しいです」
セレナが朗らかに微笑むと、アレクシスはふと窓の外へ目を向けた。
「こちらの桜は、もう咲いているのですね」
セレナもつられて庭を見る。
薄紅色の花々が夜風に揺れていた。
「ええ。今年は少し早いようです」
「私の国では、まだ蕾ばかりです」
政治でも外交でもない話題に、セレナは少しだけ肩の力を抜いた。
しばらくの沈黙のあと、彼は静かに言った。
「失礼を承知で申し上げますが……殿下は、ずいぶんお疲れのように見えます」
セレナは一瞬、言葉を失った。
「……そう見えますか」
「ええ」
アレクシスは困ったように微笑む。
「皆様は美しい笑顔をご覧になっていますが」
彼は少しだけ間を置いて続けた。
「私は、その笑顔を保ち続けることの方が気になりました」
セレナは返す言葉が見つからなかった。
王女として美しいと言われることはあっても、疲れている、と言われたことは一度もなかった。
やがて侍従が近づき、小さく一礼する。
「殿下、次のお客様がお待ちです」
「……失礼いたします」
セレナは穏やかに微笑み、一礼した。
そして背筋をまっすぐに伸ばし、裾を小さく揺らしながら、いつもと変わらぬ足取りで踵を返す。
窓の外では、夜風が桜の枝を揺らしていた。
晩餐会から数日後。
アルヴェイン公国の使節団は、滞在中の外交日程を淡々とこなしている。
王女であるセレナもまた、その多くに同席していた。
その日は、王立植物園を案内する役目を務めていた。
春の陽射しを受け、色とりどりの花々が庭園を彩っている。
石畳の小径を歩きながら、庭師が品種や栽培法を説明していた。
「こちらは王家が代々育てている、春花でございます」
使節団の面々が足を止める。
セレナも微笑みながら説明を引き継いだ。
「冬を越え、最初に咲く花です。王都では春の訪れを告げる花として親しまれています」
「美しい花ですね」
声のした方を見ると、アレクシスだった。
彼は花ではなく、世話をしている庭師へ視線を向けていた。
「これだけ咲かせるには、大変な手間が掛かるのでしょう」
庭師は少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「ええ。毎年、冬の間から手入れをしております」
「だから、こんなに綺麗なのですね」
庭師は照れくさそうに頭を掻いた。
セレナは、そのやり取りを静かに眺めていた。
来賓の多くは花を褒める。
けれど、その花を育てた者へ言葉を掛ける者は少ない。
案内が終わり、人々が次の庭園へ移動していく。
少し遅れて歩き始めたセレナの隣へ、アレクシスが並んだ。
「失礼でしたでしょうか」
「いいえ。庭師も喜んでいました」
「それなら良かった」
彼は穏やかに笑った。
「花は人を楽しませますが、それを咲かせた人も、同じくらい大切だと思っています」
その言葉に、セレナは小さく頷いた。
風が吹き抜ける。
花びらが二人の間を横切っていった。
その後も、外交日程は続いた。
王立図書館の視察。
王都の工房や市場の見学。
歓迎演奏会への列席。
使節団との晩餐。
第一王女であるセレナは、そのほとんどに同席していた。
大勢に囲まれた公式の場ばかりだったが、それでもアレクシスと言葉を交わす時間は、少しずつ増えていった。
「殿下は、本がお好きなのですね」
図書館でアレクシスが尋ねる。
セレナは手にした一冊を閉じた。
「父の影響です」
「どのような本を?」
「歴史書が多いでしょうか」
「意外です」
「そうですか?」
「もっと詩集などがお好きなのかと」
思わず、小さく笑みがこぼれた。
「詩も好きですよ」
「安心しました」
二人で笑う。
ほんの短い時間だったが、アレクシスの笑みは、王女ではなくセレナ自身に向けられているように思えた。
また、ある日。
外交会議を終え、使節団が使っている客室へ戻る短い回廊を、セレナとアレクシスは並んで歩いていた。
夕焼けが窓いっぱいに広がり、磨き上げられた床へ朱色の光を映している。
不意に、アレクシスが足を止めた。
「殿下」
「はい」
「あなたと話していると、不思議な気持ちになります」
セレナは首を傾げた。
「皆が話すのは、王女としてのあなたです」
彼は静かに続ける。
「ですが私は、本を読んで笑い、花を見て足を止めるあなたの方が好きです」
その言葉に、セレナは息を止めた。
春風が吹く。
回廊の向こうで、花びらが静かに舞い上がった。
やがて春が過ぎ、初夏を迎える頃。
王城の空気は、少しずつ張り詰め始めていた。
執務室へ呼ばれたセレナは、父王アルトゥスと宰相ガイウスの前で静かに一礼する。
机の上には、隣国アルヴェイン公国から届いた書簡が何通も並べられていた。
どれも封は切られ、端には赤い印が付けられている。
父王は一枚を手に取った。
「アルヴェインの情勢が悪化している」
低い声だった。
セレナは黙って耳を傾ける。
「王家派と貴族派の対立が激しくなっております」
続けたのはガイウスだった。
机上の地図へ指を滑らせる。
「ベルモント家は中立を表明しておりますが、周辺では貴族派との接触が相次いでいるとの報告があります」
セレナは顔を上げた。
「アレクシス様は、そのような方ではありません」
父王もガイウスも、すぐには答えなかった。
やがて父王が静かに言う。
「彼個人を疑っているのではない」
「では、何を」
「情勢だ」
ガイウスが書簡を閉じながら、淡々と言う。
「一人の誠実な人間でも、家や国までは動かせません」
セレナは小さく唇を結び、視線を落とした。
「今は婚姻について話を進める時期ではありません。隣国の情勢が落ち着くまで、お待ちください」
「……」
「もし今、婚姻の話が表へ出れば、双方の政治に利用される恐れがあります」
返す言葉が見つからず、セレナは指先をそっと握りしめた。
「私は……彼を、政治の道具にはしたくありません」
父王はしばらく黙って娘を見つめていた。
「だからこそ、今は距離を置くべきだ」
「……違います」
セレナはゆっくりと首を振る。
「利用されることを恐れて離れるのではなく、信じるべきです」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
ガイウスが静かに瞼を伏せる。
「殿下。それは王女ではなく、一人の女性としての答えです」
その言葉に、セレナは返事をしなかった。
開かれた窓から初夏の風が吹き込み、机上に置かれた書簡の端を、かすかに揺らした。
第五章『春花の行方』、開幕。
セレナの回想回は次回も続きます。
セレナとアレクシスの行く末は……。
お楽しみに!




