第二十二話 春灯の温室
同じような仮面を纏う、王女と青年。
一人は、その奥に願いを残し、一人は、その奥へ鍵を掛けていたーーー
数年前。
まだセレナ殿下が社交界に赴いていた頃。
新年祝賀夜会の最中だった。
ルシアンは、人目を避けるように温室の扉を開いた。
大広間から少し離れた温室は、夜会の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
硝子張りの天井から月明かりが差し込み、色とりどりの花々が柔らかな光を浴びている。
湿った土の匂いと、花の甘い香りが微かに漂う。
外は冷たい風が吹く冬だというのに、この温室の中だけは、春が閉じ込められているようだった。
温室の奥の長椅子に、女性の姿が見えた。
淡い青色のドレスに身を包み、肩には白い毛皮のショールが掛けられている。
月明かりを映したような銀髪を、柔らかく結い上げている。
この国の誰もが憧れ、誰もが微笑みを向ける王女ーーーセレナ・ゼフィール殿下だった。
その唇から、小さく言葉が零れる。
「……疲れた」
思わぬ先客に踵を返そうとしていたルシアンは、その足を止めた。
夜会では誰に対しても優雅に微笑み、淀みなく言葉を返していた王女。
その彼女の口から漏れる言葉とは思えなかった。
セレナ殿下は長椅子へ深く腰掛け、目を閉じる。
両手を膝の上で重ねたまま、息を吐いた。
「……もう一曲くらいなら、笑っていられるかしら」
自分自身へ言い聞かせるような、小さな独り言だった。
その横顔からは、広間で見せていた眩しい笑みがすっかり消えている。
ルシアンは扉の陰に立ったまま、ほんの一瞬ためらった後、静かに口を開いた。
「……殿下でも、そのようなお顔をなさるのですね」
セレナ殿下は驚いたように肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
一瞬だけ見開かれた菫色の瞳が、ルシアンを映す。
そして次の瞬間には、小さく肩をすくめて笑う。
「見られてしまったわね」
ルシアンはゆっくりと歩み寄り、一礼する。
「申し訳ありません。お邪魔するつもりはなかったのですが」
「いいえ」
セレナ殿下は首を横に振る。
「こんな日だもの。油断していた私が悪いのよ」
ルシアンは温室を見回した。
白い椿やクリスマスローズの色鮮やかな花の上へ、月明かりが淡く落ちていた。
「皆さまは、殿下は疲れを知らない方だと思っておいででしょうね」
冗談めかして言うと、セレナ殿下はくすりと笑う。
「それは困るわ」
「困るのですか?」
「ええ」
セレナ殿下は、鮮やかな花々の片隅で控えめに咲いている菫の花へ視線を向けた。
「疲れない人なんて、きっといないもの」
その言葉に、ルシアンは一瞬だけ目を瞬いた。
社交界では、そんな当たり前のことを口にする人間は少ない。
だからこそ、その一言が妙に耳へ残った。
しばらく、二人は並んで温室の静けさに身を委ねていた。
遠くから夜会の音楽が微かに届く。
笑い声も、グラスの触れ合う音も、硝子を一枚隔てるだけで別の世界の出来事のようだった。
セレナ殿下は小さく息を吐き、ルシアンへ視線を向ける。
「ルシアン」
「はい」
「あなたって、誰にでも同じ顔をするのね」
ルシアンはいつもの笑みを浮かべた。
「便利ですから」
「便利?」
「ええ。誰からも嫌われませんし、余計な争いも生みません」
それは社交界で生きるために身につけた仮面だった。
誰にも本心を見せず、誰の敵にもならない。
その笑み一つで、多くの商談も、人間関係も円滑に進んでいく。
セレナ殿下は小さく頷いた。
「……疲れない?」
ルシアンは答えに詰まった。
温室に沈黙が落ちる。
大広間から聞こえる楽団の演奏が、遠くで響いていた。
やがてルシアンは、少しだけ苦笑する。
「疲れる顔を見せる方が、疲れます」
その言葉を聞いたセレナ殿下は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
セレナ殿下は硝子越しに夜空を見上げた。
星は変わらず静かに瞬いている。
「ねえ、ルシアン」
「はい」
「笑う理由って、一つじゃないのよね」
ルシアンは返事をしなかった。
セレナ殿下は独り言のように続けた。
「嬉しいから笑うこともあるし、安心させたくて笑うこともある……嫌われないために笑うことも」
その言葉に、ルシアンの指先がわずかに止まる。
セレナ殿下は夜空を見つめたまま、問いかける。
「"好きだから笑う"のと、"嫌われないために笑う"のって、違うのかしら」
温室に沈黙が満ちた。
花の香りだけが、二人の間を流れていく。
ルシアンは何と答えれば良いか迷っていた。
"好きだから笑う"ということを考えたことが、彼には一度もなかったからだ。
笑顔は、人に好かれるためのもの。
波風を立てないためのもの。
そう学び、そう振る舞ってきた。
"好きだから笑う"という言葉は、どこか遠い世界の話のように聞こえた。
やがてルシアンは、ゆっくりと息を吐く。
「……私には、分かりません」
その声は、夜会で見せる穏やかな笑みよりも、ずっと素直だった。
ルシアンは、セレナ殿下に視線を向ける。
温室の灯りに照らされた横顔は、夜会で見せる完璧な王女のそれとは少し違って見えた。
疲れた、と素直に零しても、それでも誰かを思いやるように笑う。
そんな姿に、ルシアンは得も言われぬ危うさを感じた。
「殿下は……」
ルシアンは少し考えて、言葉を選ぶ。
「優しすぎます」
セレナ殿下はきょとんと目を瞬かせた。
菫色の瞳が、ルシアンへ向く。
「そうかしら?」
「ええ」
ルシアンは迷いなく頷く。
「王宮では、人を信じる方から傷つきます」
努めて穏やかな声で続ける。
「皆が殿下を慕っているように見えても、それぞれ思惑があります。笑顔の裏には利益があり、親切の裏には計算もある」
咲き誇る菫の陰で、一輪だけ、花弁の先が茶色く傷んでいた。
「優しい方ほど、そのことを最後まで信じようとなさらない」
セレナ殿下は静かに聞いていた。
やがて、小さく微笑む。
「それは、あなたのこと?」
思いがけない問いに、ルシアンは息を止めた。
セレナ殿下は責めるでもなく、ただ不思議そうに首を傾げている。
「あなたは、人を信じないようにしているのね」
静かな声だった。
「傷つかないために」
温室に静かな時間が流れる。
やがてセレナ殿下は、そっと呟いた。
「……そうかもしれないわ」
それは、セレナ殿下自身へ向けた言葉のように聞こえた。
「優しい人ほど傷つく、ということなのでしょうね」
ルシアンは少しだけ意外そうに目を細める。
「でも」
セレナ殿下は顔を上げ、再び天井の硝子の向こうに目を向ける。
「誰も信じなかったら、誰も信じてくれないでしょう?」
菫色の瞳が、夜空を映している。
「裏切られることは、きっとあるわ……傷つくことも」
「……はい」
「それでも私は、人を信じたいの」
セレナ殿下の声は、決意というよりも願いのような響きだった。
(……危ういな。この人の願いは、きっといつか、誰かに踏みにじられる……)
ルシアンは少しだけ目を伏せる。
「殿下」
「なあに?」
「その優しさは、いつか殿下を傷つけます」
セレナ殿下は驚くこともなく、小さく笑った。
そしてルシアンを真っ直ぐ見つめる。
「じゃあ、あなたは?」
ルシアンは言葉を探して、答えを見つけられずに口を閉じた。
「あなたは、誰にも傷つけられない代わりに」
セレナ殿下は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「誰にも、本当のあなたを見せていないのでしょう?」
こちらを見透かすような問いに、ルシアンは何も答えられなかった。
普段なら、相手の言葉に詰まることなど滅多にない。
どんな問いにも、どんな皮肉にも、笑顔のまま返してきた。
ルシアンは、苦く笑った。
「……敵いませんね」
その不格好な笑みは、夜会で見せるものより少しだけ力が抜けていた。
「そんな顔も、できるのね」
セレナ殿下が柔らかく笑う。
ルシアンもつられて微笑んだが、その表情はすぐに静かなものへ戻った。
「私は、殿下のようにはなれません」
その声は思いのほか低く響いた。
セレナ殿下はしばらく彼を見つめていたが、やがて穏やかに口を開く。
「無理になるものじゃないわ」
ルシアンが視線を向ける。
「きっと、誰か一人で十分なの」
温室の花々が、夜風に揺れる。
硝子の向こうでは、雪が降り続いていた。
新キャラのくせに過去を掘り下げられる男、ルシアン。
君のおかげで、セレナの姿を見せられたよ。
ありがとう。
次回、夜会のクライマックスです。
煌びやかな夜会はの幕引きはーーー
お楽しみに!




