第二十話 冬に咲く花
新年祝賀夜会、開幕ーーー
【春に咲く花は、人を魅了する。
だが、冬を越えるために必要なのは、
花とは異なる強さである。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
新年祝賀夜会の開宴まで、あと一刻。
王城中央棟は昼間とは別の姿になっていた。
廊下の燭台には無数の灯がともり、磨き上げられた大理石の床へ柔らかな光を落としている。
窓辺には冬の白百合が飾られ、金糸の刺繍が施された深紅の絨毯が大広間まで真っ直ぐ続いていた。
貴族たちは正装に身を包み、小声で言葉を交わす。
「北方伯も到着されたそうですよ」
「東方使節団は?」
「先ほど控え室へ」
控えめな声ばかりのはずなのに、人が増えるたび空気は少しずつ熱を帯びていく。
ノアは大広間入口の脇に設けられた記帳机の前へ立つ。
今夜の役目は、来賓の記帳と入退場の記録だった。
王国中から集まる貴族や使節の名を記し、後日、夜会の公式記録としてまとめる。
国王専属書記官としての仕事である。
少し離れた受付では、ユリアが侍従たちへ静かに指示を出していた。
祝辞の手紙や各地から届いた献上品の送り主を確認し、一つずつ帳簿へ記しながら、保管担当の侍従へ引き渡していく。
「東方使節団より祝いの品です。第六保管室へお願いします」
受け渡しは無駄なく進み、木箱や包みは次々と裏方へ運ばれていく。
ノアは名簿を開き直し、小さく息を整えた。
大広間へ入る貴族は誰もが穏やかに笑っていた。
だが、その笑顔の奥では、何かを探るように互いの視線が絶えず行き交っている。
「緊張しますか」
隣からユリアの穏やかな声がした。
「少しだけ」
正直に答えると、ユリアは小さく笑った。
ノアは大広間の貴族たちを見渡す。
「……始まる前から肩が凝りそうです」
「始まればもっと凝りますよ」
ノアは静かに肩を落とした。
その時、近衛騎士が静かに槍を打ち鳴らす。
高く澄んだ音が、大広間へ響き渡った。
ざわめきが一瞬で消え、楽団も演奏を止める。
扉の前にはリアが立っている。
礼装の上から白い近衛隊の外套をまとい、腰にはいつもの剣。
ゆっくりと周囲を見渡し、安全を確認すると、小さく頷いた。
侍従長が一歩前へ出る。
「国王陛下、ご入場」
重厚な扉が、静かに開いた。
大広間にいる全員が、一斉にその先を見る。
眩い灯火の向こうから、一人の少女がゆっくりと姿を現した。
その姿にノアは思わず息を呑む。
淡い白銀を基調としたドレスは、夜空を思わせる濃紺の刺繍が裾へ向かって流れるように広がっている。
肩には白い毛皮のショールが掛けられ、その上から金糸で星々の紋様が縫い込まれていた。
銀髪はゆるやかに結い上げられ、小さな真珠と青い宝石を散りばめた髪飾りが、歩みに合わせて控えめに揺れる。
決して華美ではない。
それでも、この場の誰よりも目を引いた。
ステラ陛下はゆっくりと赤い絨毯を歩く。
その足取りに乱れはなかった。
ステラ陛下のすぐ後ろにはヴィオラ、少し距離を置いてリアが続く。
楽団が静かに演奏を再開した。
それでも広間は静まり返ったままだった。
誰もが少女を見つめている。
ステラ陛下は壇上へ辿り着くと、静かに振り返る。
青灰色の瞳が広間をゆっくりと見渡した。
一瞬だけ、ノアと目が合う。
その表情は穏やかだった。
執務室で衣装合わせに疲れ切っていた少女の姿はない。
やがて玉座の前へ立つと、ステラ陛下はゆっくりと振り返る。
「本日はご参集いただき、ありがとうございます」
幼い声が、大広間へ静かに響いた。
形式的な挨拶が終わると、侍従が一歩前へ出た。
「それでは、新年のご祝辞をお受けいたします」
貴族たちが静かに列を作る。
順にステラ陛下の前へ進み出ては、一礼し、祝いの言葉を述べていく。
「新年、おめでとうございます、陛下」
初老の伯爵が、にこやかに微笑む。
「ありがとうございます」
「お可愛らしい陛下でいらっしゃいますな」
ステラ陛下は一瞬だけ首を傾げた。
「……ありがとうございます」
伯爵は満足そうに笑い、一礼して去っていく。
入れ替わるように、今度は年配の婦人が前へ出た。
「お健やかそうで安心いたしました」
「ありがとうございます」
さらに一人の壮年の貴族が進み出る。
「兄君はお変わりありませんかな」
その瞬間だけ、ステラ陛下の青灰色の瞳がわずかに揺れた。
「……存じません」
静かな返答だった。
男は「ああ、これは失礼を」と穏やかに笑い、一礼して列へ戻っていく。
まるで何事もなかったかのようだった。
ノアは、その後ろ姿を目で追った。
悪意は感じられなかったが、胸の中に小さな棘が残る。
「何だか、不思議ですね」
思わず小声で漏らすと、ユリアが視線を前へ向けたまま答えた。
「試しているんです」
「試す……?」
「陛下がどのような王なのか。どこまで理解し、どこまで耐えられるのか」
ユリアの声は淡々としていた。
「社交界では、祝いの言葉もまた問い掛けになります」
ノアはもう一度、祝辞の列へ目を向ける。
皆、笑っている。
誰一人として声を荒らげない。
それでも一つひとつの言葉には、小さな秤が隠されているように思えた。
そんな中、ステラ陛下は一人ずつ相手の目を見て、丁寧に言葉を返していく。
祝辞の列は途切れることなく続いていた。
ノアは来賓名簿を開き、一人ひとりの名を確認しては筆を走らせる。
祝いの挨拶を終えた来賓には、小さく印を付ける。
途切れさせるわけにはいかない。
名前を書き損ねれば、それだけで後日の記録に齟齬が生じる。
「北方伯、ご歓談へ移られます」
近くの侍従が小声で告げる。
ノアは名簿へ印を書き込み、頷いた。
一方、その隣ではユリアが次々と届けられる祝辞や贈答品を受け取っていた。
「西部商会より祝いの品です」
「こちらへお願いします」
木箱には送り主を書いた札が結ばれ、侍従が一つずつ確認していく。
ユリアは受領帳へ素早く書き込み、箱へ番号札を結び付けた。
「第五保管室へお願いします」
待機していた侍従が木箱を抱え、小走りで裏廊下へ消えていく。
その向こうでは、さらに慌ただしい声が飛び交っていた。
「こちらは祝辞を保管室へ!」
「返礼品の準備を!」
「次の箱はこちらです!」
表の広間は優雅な音楽に包まれている。
しかし扉一枚隔てた裏側では、侍従や使用人たちが休む間もなく走り回っていた。
ユリアは帳面を閉じると、小さく息を吐く。
「今のところ予定どおりですね」
「これでも、ですか」
「戴冠式の日に比べたら、少ない方ですよ」
真顔で返され、ノアは苦笑した。
祝辞の列がようやく途切れた頃だった。
「少し休まれてはいかがでしょう」
ヴィオラがステラ陛下に小さく声を掛ける。
ステラ陛下はほっとしたように息を吐き、頷いた。
「ありがとうございます」
そのまま大広間の一角へ移る。
庭園へ続く大きな窓際には、冬の花々が飾られていた。
白い椿、水仙、薄紫のクリスマスローズ。
外は雪景色だというのに、室内だけは春を先取りしたような彩りだった。
「……陛下」
控えめな声が聞こえた。
ステラ陛下が振り返ると、一人の令嬢が緊張した面持ちで立っていた。
淡い桃色のドレスに身を包み、金色の髪をゆるく結い上げている。
十六歳ほどだろうか。
ステラ陛下より頭一つ背が高いが、その表情はどこか不安そうだった。
「初めまして、陛下」
令嬢はスカートの裾を摘み、丁寧に一礼する。
「初めまして」
ステラ陛下も微笑み返す。
令嬢は何を話そうか迷うように視線を泳がせ、小さく息を吸った。
「……お庭のお花をご覧になっていたのですか?」
令嬢が窓辺へ視線を向ける。
「ええ」
ステラ陛下も頷いて、花々を見る。
「どのお花がお好きですか?」
令嬢は質問を終えると、小さく胸の前で手を重ねた。
周囲の貴族たちも、微笑ましそうに二人を見守っている。
年頃の娘らしい、他愛のない話題だ。
ステラ陛下は少しだけ考え、花壇へ目を向けたまま答える。
「……あまり、得意ではありません」
令嬢がきょとんと目を瞬かせる。
「そう、なのですか?」
「はい。」
ステラ陛下は静かに頷いた。
「花は、いつか枯れてしまいますから」
その返答に、令嬢は言葉を失った。
近くにいた婦人たちも顔を見合わせている。
「そう……ですね。でも、咲いている間は、とても綺麗ですよ」
令嬢が少しぎこちない笑みで続けようとした、その時。
「ふふ」
柔らかな笑い声が聞こえ、周囲の人々が振り返る。
一人の女性が、人垣を静かに抜けてきた。
落ち着いた色味の深紅のドレス。
肩には銀糸を織り込んだストールを羽織り、胸元には星を模した小さな徽章。
年の頃は三十代半ばほど。
長い栗色の髪を後ろでゆるくまとめ、青い瞳は穏やかな笑みを浮かべていた。
ヴィオラがそっとステラ陛下に呟く。
「ロザリン・エーヴェル卿です」
ステラ陛下は僅かに目を見開いた。
ロザリンは令嬢の隣まで歩み寄ると、穏やかな笑みを浮かべた。
「正直なお方ですね」
その一言に、周囲から小さな笑い声が漏れる。
ステラ陛下は首を傾げる。
「……変なことを言いましたか」
「いいえ」
ロザリンは静かに首を横へ振る。
「そうお答えになる方が珍しいだけです」
令嬢もようやく表情を緩め、小さく笑った。
「私でしたら、『好きです』と答えてしまいます」
「本当は?」
ステラ陛下が不思議そうに尋ねる。
令嬢は少し照れたように微笑む。
「……本当は、お手入れが大変なので少し苦手です」
今度は広間から、くすくすと穏やかな笑いが広がった。
ノアはその様子を見ながら息を吐く。
少し場が和むと、令嬢はほっとしたように一礼した。
「ありがとうございました、陛下」
「こちらこそ、お話しできて嬉しかったです」
令嬢は笑顔で輪の中へ戻っていく。
それを見送りながら、ステラ陛下も小さく息をついた。
「陛下」
再び掛けられた声にステラ陛下が振り返ると、一人の老婦人がゆっくりと歩み寄ってきた。
淡い紫の礼装を上品に着こなし、銀色の髪を美しく結い上げている。
傍らのヴィオラが小声でステラ陛下に告げる。
「アデルハイト侯爵夫人です」
ステラ陛下は何事もないように、丁寧に一礼した。
「アデルハイト侯爵夫人、お会いできて光栄です」
「こちらこそ、お目にかかれて嬉しく存じます」
侯爵夫人は目尻に穏やかな皺を寄せて微笑んだ。
しばらくステラ陛下を眺めるように見つめ、やがて、何かを懐かしむように目を細めた。
「こうしてお話ししておりますと……セレナ殿下を思い出しますわ」
その名が出た瞬間、周囲の空気が静かに揺れた。
近くにいた貴族たちも自然と足を止める。
「セレナ殿下は本当にお見事でした」
侯爵夫人は微笑みながら続ける。
「春の園遊会では、一度お会いした方のお名前を決してお忘れになりませんでした」
「ええ」
隣にいた老紳士が頷く。
「どなたにも分け隔てなくお声を掛けてくださいましたな」
「社交界の華でした」
別の婦人も懐かしそうに目を細める。
「まるで春に咲く花のようなお方でした」
ノアはそっとステラ陛下を見る。
ステラ陛下は黙って耳を傾けていた。
やがて、小さく口を開く。
「……私は違いますので」
あまりにも静かな声だった。
侯爵夫人が困ったように目を瞬かせる。
「陛下、わたくしはそのような意味では──」
「お姉様みたいには、できません」
ステラ陛下は少しだけ視線を落としていた。
「人のお名前を覚えるのも得意ではありませんし……会話も、あまり上手ではありません」
広間が静まり返る。
侯爵夫人たちは誰も口を開かず、気まずそうに互いに視線を巡らせる。
そんな中、穏やかな声が静寂を破る。
「セレナ殿下は、春の花でした」
そう言ったのは、ロザリンだった。
いつの間にかステラ陛下のすぐ近くまで歩み寄り、静かにワイングラスを手にしている。
彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。
「春になれば花は咲き、人はその美しさに足を止めます。それは、とても尊いことです」
誰も口を挟まず、静かに耳を傾けていた。
「ですが、花は冬を越えられません。冬には、冬の強さが必要です」
ロザリンが視線を窓際の花へ移すと、周囲の人々も続いて花を見る。
ステラ陛下だけは、ロザリンに目を向けていた。
「厳しい寒さの中でも立ち続ける木があります。季節が違えば、求められる強さも違うのです」
ロザリンはゆっくりと微笑んで、伯爵夫人へ視線を向ける。
「ですから、比べる必要はございません。セレナ殿下は、春の花として美しく咲かれただけのこと」
ロザリンの言葉に、伯爵夫人は小さく身じろぎをして、微笑みだけを返す。
その様子に小さく頷いたロザリンは、次にステラ陛下と視線を合わせた。
「陛下は、陛下のお歩みになる季節を進めばよろしいのです」
先ほどまでセレナを懐かしんでいた貴族たちは、静かに杯を見つめていた。
侯爵夫人は小さく目を伏せる。
「……ええ、本当にその通りですわ」
ステラ陛下はロザリンを見つめたまま、小さく口を開く。
「……冬の強さ、ですか」
「ええ。春を待つだけでは、冬は越えられませんから」
ロザリンは穏やかに頷く。
広間に流れていた重い空気が、少しずつほどけていく。
ロザリンはグラスを給仕へ預けると、何事もなかったかのように口を開いた。
「そういえば陛下」
ステラ陛下が顔を上げる。
「北方の調査は、その後いかがでしょう」
突然変わった話題に、周囲の貴族たちも自然と耳を傾けた。
「監察局より、まもなく新たな報告が届く予定です」
ステラ陛下は落ち着いた声で答える。
「今回は帳簿も発見されたと伺っております」
「ええ」
「北方が落ち着けば、隣国との往来も戻ります。外交としても、気になる土地なのです」
その言葉に、一人の貴族が口を開いた。
「冬ですから、街道の復旧には時間が掛かるでしょうな。物流が戻らねば交易も難しい」
ステラ陛下は少し考え、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「だからこそ、春までに準備を整える必要があります。雪が解けてから動き始めるのでは遅いでしょう」
真っ直ぐな返答に、何人かの貴族が小さく頷く。
ロザリンも柔らかく微笑んだ。
「春は待つものではなく、迎えるための準備をするものですものね」
その一言に、先ほどの「春の花」の話がふっと重なる。
ノアはロザリンに視線を向けた。
彼女は穏やかな笑みを崩さず、ステラ陛下と貴族たちとの会話をつないでいた。
やがて伯爵夫人たちがその場を離れて行っても、ロザリンはまだ残っていた。
ロザリンはさりげなくヴィオラを一瞥し、それを受けてヴィオラは小さく微笑む。
「改めまして、ご挨拶申し上げます」
ロザリンはステラ陛下に向かって一礼した。
深紅のドレスの裾を静かに整え、優雅に頭を下げる。
その所作は飾らず、洗練されて見えた。
ステラ陛下はロザリンを見つめたまま、静かに頷く。
「ロザリン卿……お名前は伺っております」
「光栄です」
ロザリンは柔らかく微笑む。
「本日は一人の来賓としてだけでなく、外交を預かる者としても、ご挨拶に参りました」
ロザリンの青い瞳が、静かにステラ陛下を見つめる。
「陛下にお目にかかれる日を、楽しみにしておりました」
その言葉には社交辞令らしい滑らかさがあったが、不思議と軽くは聞こえない。
ステラ陛下は少し照れたように目を伏せ、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
ロザリンは満足そうに微笑むと、さりげなく広間の奥へ視線を巡らせた。
穏やかな笑みが、ほんのわずかに深くなる。
「……お見えになりましたね」
ロザリンのその一言に、近くにいた貴族たちも振り返る。
人々が左右へ静かに道を開けていく。
その先から、一人の青年がゆっくりと歩いて来た。
少し離れた窓際で控えているリアの視線も、その青年へ向く。
やがて青年は、迷うことなくステラ陛下のもとへ歩みを進めた。
ロザリン卿の、そこはかとない強者感・・・伝わってますか?
次回、夜会第二幕。
お楽しみに!




