第十六話 北の王子
一人の王子を知ることは、王家の過去を知ることでもあるーーー
【王とは一人で立つ者ではない。
見える場所に立つのは一人でも、その足元には多くの手がある。
支える者。
守る者。
去っていった者。
そして王は、その全てを背負って歩く。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
旧監視砦から資料を運び出してベルクハイムの宿に戻ったのは、すっかり日が落ちた頃だった。
帳簿の入った木箱は宿の一室へ運び込まれた。
護衛兵が扉の前に立ち、鍵まで掛けられている。
まるで宝物庫だった。
「そこまでしますか」
ノアは思わず呟いた。
エドガーは帳簿を一冊ずつ確認しながら顔も上げない。
「します」
「もう三回は確認してますよね」
「四回目です」
淡々と訂正された。
ノアは苦笑する。
「明日には王都へ運びます」
エドガーは帳簿を閉じた。
「財務局の保管庫へ戻す前に、内容を全て確認する必要があります」
「……寝られます?」
「寝ます、仮眠程度には」
それは寝るうちに入るのだろうか、とノアが考えた時、背後から声が飛んだ。
「寝ろ」
振り返ると、レオニス殿下が立っていた。
片手に盆を乗せ、その上でカップが3つ、湯気を立てている。
「殿下」
「倒れられる方が困る」
レオニス殿下はそう言って、エドガーとノアへカップを差し出した。
エドガーは少しだけ目を瞬く。
「ありがとうございます」
レオニス殿下は空いていた椅子へ腰を下ろした。
暖炉の火が静かに揺れ、木の燃える音が響く。
やがてノアが口を開く。
「ようやく見つかりましたね」
レオニス殿下は火を見つめたまま頷く。
「ああ」
「四年越しですか」
「長かったな」
短い返事だったが、その一言には重みを感じた。
ノアは暖炉へ視線を向ける。
「これで終わりですかね」
するとレオニス殿下は小さく笑った。
「まさか」
青い瞳がこちらを見る。
「むしろ始まりだろう」
ノアは少しだけ背筋を伸ばした。
レオニス殿下は続ける。
「ガルディアの名前は見つかった……だが……」
ノアはエドガーの手元にある帳簿に目を向ける。
「誰が消したのか。なぜ消したのか。それが分からなければ意味がない」
レオニス殿下は静かに言った。
エドガーも小さく頷いて言う。
「ですが、ようやく尻尾は掴みました」
レオニス殿下は少しだけ笑った。
「ああ」
その表情は、昼間よりもどこか穏やかに見えた。
しばらく帳簿の話をしていたが、不意にノアは以前から気になっていたことを思い出した。
「そういえば、気になっていたことがあるんですが」
「何だ」
レオニス殿下が視線を向ける。
ノアは少し言葉を選んだ。
「リアさんって、どうして殿下付きから陛下の近衛騎士になったんですか?」
レオニス殿下は一度瞬きをした。
隣で帳簿を見ていたエドガーも顔を上げる。
「リアか」
「ずっと殿下の護衛だったんですよね?」
レオニス殿下は湯気の立つカップを見つめる。
「元々、リアはいずれステラ付きへ移すつもりだった」
ノアは目を瞬いた。
「ステラが社交界に出る頃には移す予定だった」
暖炉の薪が小さく爆ぜる。
「ただ、私の立場が弱くなって、宮中の空気も変わり始めていた。だから私が離宮に移る前に、リアをステラ付きに移した」
ノアは首を傾げた。
「離宮へ移ったとしても、殿下の命令なら通るんじゃ……」
「通らん」
はっきりとした返答に、ノアは思わず口を閉じる。
レオニス殿下は少し肩を竦めた。
「王宮はそんな単純な場所ではない。近衛騎士の配置一つでも、色々な思惑が絡む。私一人では難しい」
その横でエドガーが静かに頷いた。
ノアは少し考える。
「じゃあ、どうやって?」
「弟を頼った」
ノアは目を瞬く。
「弟って……シリウス殿下ですか」
レオニス殿下は苦笑した。
「人生で初めてかもしれんな、あいつに助けを求めたのは」
レオニス殿下は暖炉の火を見つめながら言った。
「シリウスへ手紙を送ったんだ」
その言葉と共に、記憶を辿るように目を細める。
◇
当時、シリウスは南方の騎士団駐屯地を巡察していた。
レオニスは一通の手紙を書いて、王室直属配達人のユリアに託した。
手紙の内容は短く、『リアをステラ付きへ移したい』と一言だけだった。
数日後、ユリアが王宮に戻ってきた。
「シリウス様より、言伝を預かりました」
「何と?」
「『任された』」
レオニスは目を瞬いた。
「それだけか」
「それだけです」
レオニスは思わず笑った。
それからシリウスが何をしたのか、レオニスは知らない。
しかしその翌週、騎士団上層部の態度が変わった。
難色を示していた者たちが黙る。
近衛騎士隊の人事案が進み始める。
各地の隊長からも反対意見は出なかった。
やがて近衛騎士の隊長がレオニスの元へ訪れた。
「もう決まったのか」
レオニスは少し驚いた。
「はい」
「騎士団長も了承しています」
そして数日後、レオニスはリアへ近衛騎士隊への移動を告げた。
◇
「あいつは、私より遥かに顔が広かった」
エドガーが静かに口を挟む。
「結果として、リア殿は無事に陛下付きとなった」
「ああ」
レオニス殿下は頷く。
「だから今のリアには、私だけではなくシリウスの後ろ盾もある」
二人の王子の名が後ろにある。
その意味が分からない者は王宮にはいない。
ノアはしばらく考えてから口を開く。
「シリウス殿下って、どんな方だったんですか?」
レオニス殿下は少しだけ眉を上げた。
「急だな」
「名前だけは城内で何度も聞くんですけど、実際の話は聞いたことがなくて」
ノアがそう言うと、レオニス殿下は湯気の上るカップを見つめた。
「そうだな……忙しい男だ。宮中にいる方が珍しかった」
ノアは意外そうな顔をした。
「地方を回っていたんですか?」
「騎士団の駐屯地をな、北も南も関係なく回っていた」
「なんだか騎士みたいですね」
「実際、そっちの方が向いていたかもしれん」
レオニス殿下は苦笑した。
「だから騎士団からの支持も厚かった」
ノアは何となく納得する。
現場を知り、騎士たちと同じ場所で働く王子。
確かに好かれそうだと思った。
「でも、王宮に戻ることもあったんですよね」
「ああ。戻るたびに騒がしかった」
「騒がしい?」
「土産が多くてな」
レオニス殿下は真顔で答える。
エドガーが小さく口元を押さえた。
彼もその土産をもらっていたのかもしれない。
「そして真っ先にステラの所へ行く。珍しい菓子だの、変わった玩具だのを持ってな」
レオニス殿下は少しだけ笑った。
「仲が良かったんですね」
「ああ」
レオニス殿下は頷いた。
「少なくとも私やセレナよりは、ずっとな」
窓の外では風がうなっていた。
ノアは少しだけ声を落とした。
「今は……」
レオニス殿下の表情が僅かに変わる。
「収監されている」
暖炉の薪が小さく音を立てる。
「違法薬物使用の件、ですよね」
「ああ。それについては本人も認めている」
レオニス殿下はカップを握る手に少し力を込めた。
「問題は売買への関与を疑われていることだ」
ノアとエドガーは静かに続きを待った。
「本人は否認している。だが、無実を証明する証拠も見つかっていない」
「……」
「だから捜査が続いている」
しばらく沈黙が落ちた。
やがてノアが呟くように口を開く。
「それでも慕われているんですね」
レオニス殿下は小さく頷いた。
「今でもあいつの釈放を望む声は少なくない。嘆願書も届いている」
ノアは少し迷ってから口を開いた。
「だったら陛下が助けることは……」
「できん」
レオニス殿下は真っ直ぐな声で即答した。
「王命で釈放することは可能だが……証拠が曖昧なまま王族だからという理由で釈放すれば、法が揺らぐ」
エドガーが小さく頷いた。
「納得しない者も多いでしょう」
レオニス殿下の青い瞳に暖炉の火が揺れる。
「下手をすれば王位そのものが揺らぐだろう」
部屋に静寂が広がった。
やがてレオニス殿下は小さく息を吐き、少しだけ目を伏せた
「だから待つしかない……真実が出るのをな」
風が窓を小さく揺らした。
重たい話が続いたせいか、しばらく誰も口を開かなかった。
ノアは少し考えて、カップを置く。
そして、尋ねる。
「殿下は陛下と仲が良いんですか」
エドガーも顔を上げる。
少し考えてから、レオニス殿下は首を傾げた。
「どうだろうな……私はあまりステラを構っていなかった」
「えっ、そうなんですか?」
「年も離れていたしな」
王宮で顔を合わせることはあっても、一緒に過ごす時間は多くなかった。
レオニス殿下は少しだけ考える。
「だが、一度だけステラが私の部屋に遊びに来たことがある」
「遊びに?」
レオニス殿下は小さく笑った。
◇
まだレオニスが離宮へ移るずっと前。
ある日の夕方、レオニスは私室で書類を読んでいた。
その時、扉が叩かれる。
「入れ」
侍女が扉を開け、その後ろからステラが顔を出す。
ステラは片腕に木製の盤、もう片方には布袋を抱えていた。
レオニスは珍しい客人に少し驚いて、眉を上げた。
「どうした」
ステラは部屋へ入り、慎重に盤を机へ置く。
続いて袋から駒を取り出した。
白と黒の駒が机の上へ並べられていく。
「チェスか」
ステラは小さく頷く。
「ヴィオラ卿に教わりました。兄様がお得意だとも」
そして少しだけ視線を上げた。
「……お相手いただけますか?」
レオニスは思わず笑いそうになる。
「断ったらどうする」
「ヴィオラ卿に再戦を申し込みます」
迷いのない返答に、レオニスは小さく肩を竦める。
「なら私がやろう」
そうして向かいへ腰を下ろした。
勝負は三十分ほどで終わった。
レオニスの勝ちだった。
「……負けました」
その声にあまり悔しさは滲んでいなかった。
ステラは盤面を見つめたまま、しばらく動かない。
何かを探しているようだった。
「どうした」
レオニスが尋ねる。
ステラは盤面を指差した。
「ここですか、負けた場所は」
レオニスは盤を見る。
終盤近くの局面だった。
「違うな」
ステラが顔を上げる。
「その時にはもう負けていた」
レオニスは駒を数手戻した。
「ここだ」
ステラは身を乗り出す。
「ですが、この時はまだ駒数も――」
「お前は、見えている駒だけ見ている」
レオニスが言う。
ステラは黙って、再び盤面へ視線を落とした。
数秒後、ステラは別の場所を指差した。
「こちらでは?」
「それも違う」
「では」
「その前だ」
レオニスはさらに駒を戻した。
ステラは黙り込む。
小さな指で盤面をなぞって、配置を一つずつ確認していく。
「……ここで守りを優先したからですか」
レオニスは少し驚いた。
「気付いたか」
ステラは盤面から目を離さない。
「攻めるべきだった……ですが、危険です」
「だから読める者だけがやる」
ステラは考え込み、やがて再び駒を動かし始めた。
今度は別の手順。
さらに別の手順。
何度も盤面を組み直していく。
◇
「結局、納得するまで帰らなかったな」
ノアは思わず口元を緩めた。
「陛下らしいですね」
「ああ。正直、何を考えているのかは今でも分からん」
青い瞳が静かに揺れる。
「だが、昔から変わらないことはある」
「変わらないこと、ですか」
「負けを認めることと、負けたままで終わることは、別だと思っているところだ」
レオニス殿下は少しだけ笑った。
「だからこそ、今回の調査に私を呼んだのだろう」
暖炉の火が静かに燃える。
外では雪が降り続いていた。
翌朝、ベルクハイムの雪は止んでいた。
灰色の雲は残っているが、昨日より空は明るい。
宿の前では帰還準備が進められていた。
護衛兵たちが木箱を馬車へ積み込んでいる。
中身は昨夜見つかった帳簿だ。
木箱の積み込みが終わると、エドガーはすぐ近付き封印を確認する。
「まだ確認するんですか」
「重要証拠です」
「それ、何回目ですか」
「五回目です」
エドガーは真顔で答える。
ノアは少し呆れて肩を落とした。
そこへ後ろから声がした。
「相変わらずだな」
レオニス殿下だった。
厚手の外套を羽織っている。
その隣にはユリアもいた。
「殿下」
エドガーは姿勢を正し、一礼した。
「今回の件、助かりました」
レオニス殿下は木箱へ目を向ける。
「礼を言うのはまだ早い」
「それでも原本を見つけられたのは、殿下のお陰です」
レオニス殿下は少しだけ肩を竦める。
「そういう台詞は全部終わってから言え」
出発準備が進む中、ノアはふと気付く。
「あれ?」
ユリアは馬車へ向かっていない。
レオニス殿下の隣に立ったままだ。
「ユリアさんは戻らないんですか」
「戻りますよ、離宮へ」
ノアは瞬きをした。
「王都じゃなくて?」
「私は殿下と同行です」
するとレオニス殿下が続ける。
「私も王都へは戻らん」
ノアは目を瞬いた。
「戻らないんですか」
「ああ。今の状況で私が王都へ戻れば、余計な憶測を呼ぶ。王位を揺るがせるわけにはいかんだろう」
ノアは少し黙る。
横からユリアが言う。
「陛下から私への依頼は、“往復便”ですしね」
「往復便?」
「レオニス殿下を離宮まで送り届ける仕事です」
ユリアは当然のように答えた。
「配達人って、そんな仕事もするんですね」
「仕事ですので」
ユリアは、にこりと笑った。
ノアはふと思い出したように口を開く。
「そういえば、昨日聞き忘れていたんですが、」
レオニス殿下が視線を向ける。
「何だ」
「第一王女殿下って、どんな方だったんですか」
レオニス殿下は少しだけ眉を上げた。
「優秀だった。勉学も、礼儀作法も、社交も……王女としては理想的だったな」
ノアは頷いた。
城内で聞く噂と一致していた。
第一王女セレナ殿下。
かつて王位継承者の有力候補だった人物。
「陛下とは、仲が良かったんですか」
レオニス殿下は少し考え、やがて首を横に振る。
「分からん。セレナも私と同様に、あまりステラを構わなかった……ただ、ステラが見送りに出ていたことはある」
「見送り?」
「セレナが茶会や夜会へ出る時だ」
レオニス殿下は遠くを見るような目をした。
◇
王宮の玄関は賑やかだった。
侍女たちが慌ただしく動き回り、馬車の準備を整えている。
その中心にいたのはセレナだった。
淡い青のドレス。
銀糸の刺繍。
髪を飾る宝石。
王女として完璧な姿だった。
侍女が裾を整え、護衛騎士が馬車の扉を開く。
セレナは慣れた様子で頷き、馬車へ向かう。
その光景を、レオニスは二階の回廊から眺めていた。
ふと視線を下げる。
すると柱の陰に、小さな影が見えた。
ステラだった。
侍女も連れず、一人で馬車を見ている。
セレナが馬車に乗り込み、御者が合図を出す。
車輪がゆっくりと動き始めた。
それでもステラは動かず、馬車を見送っていた。
やがて姿が見えなくなる。
そこでようやく踵を返し、何事もなかったように廊下の奥へ歩いていった。
その光景を、レオニスは一度だけではなく何度も見た。
◇
「悪くは思っていなかっただろう。本人に聞いたことはないがな」
レオニス殿下は小さく肩を竦める。
そこでユリアが口を開いた。
「今は全く交流がありませんけどね」
ノアは目を瞬かせた。
「そうなんですか」
「お互いに会いに行くことはおろか、手紙のやり取りもありません」
「全く?」
「修道院への公的な連絡はありますよ。でも、個人的な手紙は見たことがありません」
宿の前に、少しだけ静寂が落ちた。
ノアは思わず尋ねる。
「それでいいんでしょうか」
レオニス殿下は少しだけ目を細め、小さく肩を竦める。
「あの二人が何を考えているのか、私には分からん 」
レオニス殿下は灰色の空を見上げる。
「昔も、今もな」
風が吹き抜ける。
誰も続けて言葉を発しなかった。
しばらくして、出発の時間が近付いた。
護衛兵たちが最後の確認を終え、馬たちも出発の準備を整えている。
リアは馬の装備を確認していた。
そこへレオニス殿下が歩み寄る。
「リア」
リアは顔を上げる。
「何でしょう」
レオニス殿下は少しだけ沈黙した。
何か特別なことを言うのかと思ったが、口を開いた言葉は短かった。
「ステラを頼む」
リアは一瞬だけ目を瞬く。
そしてすぐに呆れたような顔になった。
「今さらですね」
「そうかもしれん」
レオニス殿下は否定しない。
リアは小さく息を吐いた。
「断ったことがありましたか?」
「ないな」
「なら今後もありません」
リアはそれ以上何も言わず、レオニス殿下も追及はしなかった。
冷たい風だけが二人の間を抜ける。
「そろそろ出ます」
リアが振り返る。
護衛兵たちも配置についていた。
エドガーが馬車に乗り込み、ノアも続いて席へ腰を下ろした。
窓の外を見る。
宿の前にはレオニス殿下とユリアが並んで立っていた。
ユリアがこちらに軽く手を振る。
「お気を付けて。王都まで長いですよー」
最後だけ少し気の抜けた声だった。
ノアは思わず笑う。
「ユリアさんも。離宮まで気を付けてください」
「私を誰だと思ってるんですか」
「王室専属配達人です」
「正解です」
ユリアは満足そうだった。
その隣でレオニス殿下が小さく肩を竦める。
「ではな」
短い別れの言葉だった。
ノアは窓を開ける。
「ありがとうございました」
レオニス殿下は何も言わず、ただ片手を上げる。
リアが馬へ跨がり、手綱を打つ。
「出発」
号令が響き、馬車がゆっくりと動き始めた。
車輪が雪を踏みしめる音が続く。
ノアは窓から外を見た。
雪景色の中。
レオニス殿下とユリアの姿が小さくなっていく。
離宮へ戻る者たちと、王都へ向かう者たち。
道は再び分かれた。
ノアは雪の向こうへ消えていく王子の姿を見つめながら、静かに窓を閉めた。
馬車は雪に覆われた街道を、南へ進んでいく。
次回、調査隊は王都へ帰還。
発見された帳簿を前に、一人の財務官が口を開きます。
お楽しみに!




