第十一話 閉ざされた検問
その怯えた叫びは、北方全体を覆う異変の存在を物語っていたーーー
【恐怖は、剣よりも速く広がる。
人は命を脅かされた時だけではなく、
真実を知った時にも、口を閉ざす。
沈黙は時に嘘より雄弁であり、
その日、私はそれを北方の街道で知った。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
老女のいた村を離れてから、一刻ほどが過ぎていた。
街道は相変わらず北へと続いている。
冬枯れの草原。
葉を落とした木々。
空を覆う灰色の雲。
景色は変わらない。
変わったのは、人の姿だった。
街道ですれ違う旅人は少なく、その誰もが足早だった。
荷馬車を引く商人たちも、王宮の馬車を見ると道の端へ寄るだけで、目を合わせようとはしない。
馬車の窓からその様子を見ていたノアは、小さく息を吐いた。
「やっぱり、変ですね」
前方ではリアが馬を進めている。
「ああ」
短い返事だった。
「村だけじゃありません」
「そうだな」
リアは前を向いたまま答える。
「皆、同じだ」
その言葉に、村で見た男の顔が脳裏によみがえった。
怯えた目。
そして老女の言葉。
――何かを思い出したくない人の顔だよ。
ノアは無意識に窓の外へ視線を向けた。
街道を歩く旅人が一人いた。
荷物を背負った初老の男だった。
男は王宮の馬車へ気付くと、一瞬だけ足を止める。
だが次の瞬間には帽子を深く被り直し、そのまま足早に去っていった。
やはり目は合わなかった。
馬車の中では、紙をめくる音だけが静かに続いていた。
向かいに座るエドガーが、帳簿へ目を落としている。
馬車が小さく揺れた。
石畳から土道へ変わったらしい。
車輪が乾いた音を立てる。
その時、先頭を進むリアの右手が静かに上がった。
護衛兵たちがすぐに速度を落とす。
馬車もゆっくり減速した。
「どうしたんですか?」
ノアが窓を開ける。
リアは街道の先を見つめたまま答えた。
「……検問所だ」
ノアも前方へ目を向ける。
街道の先に、木柵に囲まれた小さな検問所が見えた。
その手前には荷馬車が数台止まり、多くの人影が集まっている。
誰かが何かを叫んでいた。
怒鳴り声だけが、冬の風に乗ってこちらまで届いてくる。
リアの表情がわずかに険しくなる。
「止めろ」
馬車が静かに速度を落とした。
街道は止まっていた。
荷馬車が数台。
商人たち。
旅人たち。
皆が一定の距離を取って、一人の男を見ている。
男は街道の真ん中に立っていた。
髪は乱れ、外套は泥だらけ。
頬は痩せこけている。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
何日も眠っていないような、血走った目だけが異様さを放っていた。
「嫌だ!」
男が叫んだ。
「俺は戻らないぞ!」
周囲の空気が張り詰める。
男の正面には検問所の兵士が二人立っていた。
「落ち着け」
「話を聞くだけだ」
「嫌だ!」
男は一歩後ずさると、兵士が前へ出る。
すると男は本気で怯えたような顔になった。
「来るな!」
男の声が裏返る。
「俺は何も知らない!」
その言葉に、リアの目が細くなった。
馬上から様子を見ていたエドガーも視線を向ける。
ノアは馬車の窓から身を乗り出した。
「何があったんでしょう」
「分からん」
リアは短く答える。
その間にも男は叫び続けていた。
「俺は関係ない!見てない!知らない!」
兵士たちが顔を見合わせる。
「誰もそんな話はしていない。検問だ」
「違う!」
男は激しく首を振った。
額には冬だというのに汗が浮かんでいる。
まるで何かに追い詰められているようだった。
その顔を見て、ノアは老女の話を思い出す。
「リアさん」
「ああ」
リアも気付いていた。
「同じだ」
男の視線がこちらへ向く。
一瞬で顔色が変わった。
青ざめ、唇が震えている。
「お前たちもか」
掠れた声だった。
「もう追いついたのか」
周囲が静まり返る。
男は一歩後ずさった。
次の瞬間。
男が腰から短剣を引き抜く。
商人たちが悲鳴を上げた。
「下がれ!」
リアが叫ぶ。
男は兵士ではなく、真っ直ぐこちらへ向かって走った。
「来るなぁぁぁぁ!」
男が叫びながら突っ込んでくる。
リアはすぐさま、馬から飛び降りた。
男の懐へ踏み込み、短剣を持つ手首を捻る。
鈍い音とともに短剣が地面へ落ちた。
足を払われた男はそのまま転倒し、駆け寄った護衛兵が瞬く間に取り押さえた。
「離せ!」
男は暴れる。
「離せ!」
「落ち着け」
「嫌だ!」
男の顔は恐怖に歪んでいた。
「殺される!」
その叫びに、周囲の人間がざわめく。
「誰にだ」
リアが尋ねる。
男は答えない。
代わりに周囲を見回した。
何かを探すように。
何かから逃げるように。
そして震える声で呟く。
「……見たんだ」
誰も動かない。
「見てしまったんだ」
男の目から涙が零れる。
「だから……」
そこまで言って。
男は口を閉ざした。
何かを思い出したように、恐怖が再び顔を覆う。
それ以上は何も言わなかった。
リアがゆっくり立ち上がる。
エドガーが男に近づいて、灰色の瞳が男を見下ろす。
「北方から来たのですか」
男は答えない。
だが、その沈黙だけで十分だった。
エドガーは小さく息を吐く。
「ノアさん」
「はい」
「記録を。後で必ず照会します」
ノアは手帳を開いて、男の様子を書き留めた。
冷たい風に、手がかじかむ。
男が兵士たちに連れて行かれると、街道には重苦しい静けさが戻った。
周囲で様子を見守っていた商人たちも、小声で何かを話しながら荷馬車へ戻っていく。
誰も男について口にしようとはしなかった。
その時、一人の兵士が足早に近付いてきた。
四十代半ばほどの男だった。
鎧は手入れが行き届いている。
肩当てには北方守備隊の紋章が刻まれていた。
男はリアの前で立ち止まり、一礼する。
「お見苦しいところをお見せしました」
落ち着いた口調だった。
リアは表情を変えない。
「責任者か」
「北方第三検問所隊長、ハインツと申します」
男は名乗ると、王宮の馬車へ視線を向けた。
エドガーが静かに一歩前へ出る。
「監察局の調査隊です」
ハインツの表情が、ごく僅かに強張る。
だが次の瞬間には、何事もなかったように笑みを浮かべた。
「そうでしたか」
「北方視察の途中です」
「でしたら、通行手続きをいたします」
そう言って部下へ目配せをする。
兵士たちは慣れた手付きで通行証を確認し始めた。
リアはハインツから目を離さず、短く尋ねる。
「先ほどの男は?」
ハインツは肩を竦めた。
「旅人です」
「様子がおかしかったが……」
「最近は、ああいう者もおります」
ハインツの答えはよどみなかったが、その目だけは笑っていない。
エドガーが続ける。
「北方から来たのですか」
ほんの一瞬、ハインツの視線が揺れた。
「……ええ」
静かな返答だった。
「何があったのですか」
問い掛けるエドガーに、ハインツは少しだけ言葉を選ぶ。
「私どもも、詳しくは……」
風が吹き抜け、検問所の旗が大きく鳴った。
「ただ、最近は北から来る旅人の中に、あのような者が時折おります」
「理由は?」
リアの問いに、ハインツは首を横に振る。
「……分かりません」
ハインツはそう答えた。
だが、その視線だけは一瞬、北の街道へ流れた。
リアは何も言わず、ただハインツの目を見つめている。
やがてハインツは視線を逸らし、兵士へ向き直った。
「通行証の確認は終わったか」
「はい」
「では、お通ししろ」
兵士が木柵を開く。
ハインツは改めて一礼した。
「どうか、お気を付けて」
丁寧な口調だった。
だが、その言葉は見送りというより、警告のようにも聞こえた。
馬車へ戻りながら、ノアは小さく呟く。
「何か隠していましたね」
リアは前を向いたまま答える。
「……ああ」
「でも、嘘をついているようには見えませんでした」
その言葉に、リアは僅かに目を細めた。
「だから厄介なんだ。知っている人間ほど、口は重くなる」
冬の風が街道を吹き抜ける。
開かれた検問の向こうには、灰色の北方が静かに広がっていた。
検問を抜けてからしばらくして、街道は再び静けさを取り戻していた。
先頭を進むリアは馬上から周囲を警戒している。
護衛兵二人も同様だった。
――見てしまったんだ。
男の叫びだけが耳に残る。
馬車は灰色の空の下を進んでいく。
北へ向かう街道の先は、低く垂れ込めた雲に隠れて見えなかった。
検問を抜けて、さらに北へ。
次回、雪原を駆ける一頭の黒馬が、止まっていた物語を再び動かします。
お楽しみに!




