第十話 灰色の村
北方へ続く街道で、一行は最初の違和感と出会うーーー
【真実は隠せる。
記録を消し、証人を黙らせ、
噂を封じることもできる。
だが恐怖だけは残る。
そして恐怖は、時として証拠より雄弁に語る。
―――星冠記録官ノア・フェルディン著『星風の国物語』より】
王都を出て半日ほどが過ぎていた。
冬の街道は静かだった。
空は灰色の雲に覆われている。
雪こそ降っていないが、風は冷たく、頬を刺すようだった。
街道の両脇には枯れ草が広がっている。
葉を落とした木々が点々と立ち並び、その向こうには低い丘が連なっていた。
先頭を進むリアが前方へ目を細める。
「村が見えた」
その言葉にノアも馬車の窓から顔を出した。
街道の先。
小さな村が見えていた。
石積みの家が十数軒。
中央には井戸があり、周囲を木柵が囲んでいる。
どこにでもある地方の村だった。
しかし、昼時だというのに人の姿が少ない。
「妙ですね」
ノアが呟く。
畑には誰もいない。
薪割りをしている者もいない。
煙突からは煙が上がっている。
生活の気配はある。
それなのに妙に静かだった。
馬車が村へ入る。
車輪が土を踏む音だけが響いた。
すると家々の窓が少しだけ開く。
誰かが覗いている。
視線だけがこちらへ向けられていた。
だが目が合うとすぐ閉まる。
また別の窓が開く。
そして閉じる。
まるで一行を観察しているようだった。
ノアは思わず辺りを見回した。
「警戒されていますね」
「そうだな」
馬上のリアが短く答える。
視線は村全体を見渡していた。
「理由は分かるか?」
「王宮の馬車だからじゃないですか?」
「それだけではない」
リアの声は低かった。
その時、一人の男が家の陰から姿を現した。
四十代くらいだろうか。
痩せた顔。
無精髭。
厚手の外套を羽織っている。
男は馬車を見た。
次にリアを見て、護衛兵たちを見る。
その瞬間。
男の顔色が変わった。
怯えたような、何かを思い出したような。
そんな表情だった。
男は慌てるように視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていく。
ノアは思わず振り返った。
「今の人……」
「見た」
答えたのはリアだった。
その黒い瞳は男の背中を追っている。
「覚えておけ。ああいう目をした人間は、大抵、何かを知っている 」
それだけ言うと、リアは再び村全体へ視線を巡らせた。
もう男の姿はなかった。
村の中央広場へ到着すると、一行は馬車を停めた。
「ここで休憩にする」
リアが馬から降りる。
護衛兵二人も周囲の確認を始めた。
井戸。
出入口。
建物の配置。
護衛兵たちは自然な動きだった。
まるで敵地に入った時のようでもある。
ノアが荷物を下ろしていると、広場の端に人影が見えた。
小柄な老女だった。
厚手の毛織物を肩に掛け、小さな籠を抱えている。
老女は少し迷うように立ち止まった。
それから意を決したように歩き出す。
真っ直ぐ向かった先は、黒い外套の男だった。
エドガーである。
老女は周囲を見回し、小さな声で尋ねた。
「……お役人さんかい?」
エドガーが顔を上げる。
「ええ」
老女は少しだけ安堵したように息を吐いた。
だが、その表情はすぐに曇る。
何を言うべきか迷っているようだった。
「北へ行くのかい」
「その予定です」
エドガーが答えると、老女は何度か頷いた。
それから声を潜めて続ける。
「なら気を付けなさい」
その言葉に、近くにいたノアも手を止めた。
「何かあったんですか?」
老女は困ったように眉を下げ、北へ続く街道へ視線を向けた。
「北から来る人たちが、おかしいんだ」
老婆の言葉は白い息となり広がっていく。
誰も口を挟まなかった。
「みんな、怯えてる」
老女はぽつりと言った。
「何かに追われてるみたいに」
エドガーは一瞬、ノアへ視線を送る。
それを受けてノアは手帳を取り出し、簡易筆を走らせる。
「盗賊ですか?」
「いいや、違う」
「……じゃあ、何に?」
老女はしばらく黙った後、ゆっくり答える。
「誰も話さないんだ」
冷たい風が、音を立てて広場を吹き抜ける。
エドガーは無言で、老女を見ている。
「それだけじゃないよ。最近は北へ向かう商人も減った」
「商人が……理由は?」
「知らないよ」
老女は肩を竦めて、続ける。
「理由を聞いても、みんな目を逸らすんだ」
「目を逸らす?」
「何かを思い出したくない人の顔さ」
老女は唇を結ぶ。
その時だった。
少し離れた場所からリアの声が飛ぶ。
「ノア」
振り返ると、リアは村の入口を見ていた。
黒い瞳が僅かに細められている。
「さっきから、こちらを見ている男がいる」
その言葉にノアも視線を向けた。
家屋の陰。
一人の男が立っていた。
男はノアたちと目が合った瞬間、慌てるように姿を消した。
老女の顔色が変わる。
「ほら、そういう顔なんだよ……誰も、口にしたがらない」
老女は家々へ目を向けた。
窓辺にいた人影が、こちらの視線に気付くと静かに身を引く。
開いていた窓も、一つ、また一つと閉じられていった。
老女が去った後も、しばらく誰も口を開かなかった。
広場には冬の風だけが吹いている。
ノアは手帳を閉じた。
北から来る人々。
怯えた顔。
どれも曖昧な話だった。
だが、不思議と作り話には聞こえなかった。
エドガーは無言のまま木箱の一つを開き、手帳へ何かを書き込んでいる。
少し離れた場所では、リアが馬へ水を飲ませていた。
その視線は時折、村の出入口へ向く。
「何か気になりますか?」
ノアが尋ねる。
リアは村の出入口を見つめたまま動かなかった。
風が吹く。
雪が舞い、足跡だけが白く埋もれていく。
「……何もないなら、それでいい」
そう小さく呟いてから、やがて手綱を握り直す。
「出発する」
リアの声が響く。
護衛兵たちが馬へ跨る。
御者も手綱を整えた。
エドガーは最後にもう一度だけ広場を見回した。
「どうしました?」
ノアが尋ねる。
「いえ」
エドガーは馬車へ乗り込む。
「念のためです」
それだけだった。
だが灰色の瞳は僅かに険しかった。
馬車が動き出し、車輪が土を踏む音が響く。
村人たちは道の脇へ避けた。
誰も手を振らない。
誰も見送りの言葉を掛けない。
ただ黙って一行を見ていた。
村の出口へ差し掛かった時だった。
ノアはふと振り返る。
広場の端に、先ほどの老女が立っていた。
小さな体を丸めるようにして、こちらを見ている。
目が合った。
老女は何か言いたそうに口を開く。
だが結局、何も言わなかった。
代わりに小さく頭を下げる。
まるで無事を祈るように。
ノアも軽く会釈を返した。
やがて村が遠ざかる。
木柵が見えなくなり、再び冬の街道だけが続いた。
先頭を進むリアが周囲へ視線を巡らせる。
護衛兵たちも黙って後に続く。
街道の両脇には冬枯れの草原が広がっていた。
遠くの丘は薄茶色に染まり、木々の枝には葉が残っていない。
車輪が石を踏む音だけが規則正しく響いている。
馬車の中には帳簿箱が積み上げられていた。
その隣でエドガーはずっと資料を読んでいる。
紙をめくる音だけが続く。
ノアは窓の外を見ていた。
「ノアさん」
エドガーが顔を上げた。
「はい」
エドガーは手元の帳簿を、ノアへ差し出す。
「中央備蓄庫の搬送記録です。読んでください」
「今ですか」
「移動時間は有効活用すべきです」
そう言うと、エドガーは別の資料へ手を伸ばしていた。
ノアは帳簿を開く。
数字が並んでいる。
日付。
品目。
搬入量。
搬出量。
保管数。
ノアは十数ページほど目を通した。
途中で前の月へ戻り、さらに次の月も確認する。
冬季配給用穀物。
塩。
保存肉。
北方守備隊向け補給品。
数字を追う。
搬入量と搬出量を照らし合わせる。
月末在庫も確認する。
さらに数ページ。
もう一度戻る。
「どうですか」
向かい側からエドガーが尋ねた。
ノアは帳簿に目を落としたまま答える。
「少なくとも、この帳簿だけを見る限り不自然な点はありません」
エドガーの眉が僅かに動く。
「理由は」
「数字が綺麗だからです」
「綺麗?」
「はい。搬入と搬出の差異がほぼありません」
「ふむ」
「記録漏れも見当たらない」
ノアの指が表を辿る。
「在庫量も前後の月と自然に繋がっています」
エドガーは黙って聞いている。
「仮に不正があるなら、この帳簿単体では分からないですね」
「なぜですか」
「帳簿そのものが正しい可能性があるからです」
ノアは帳簿から顔を上げて、続ける。
「別の帳簿と照合しないと見えません」
その言葉を確かめるように、エドガーは目を細める
「私も同じ結論です」
エドガーが小さく頷いた。
「だから現地にある原本が必要です」
灰色の瞳が再び帳簿へ落ちる。
「数字は嘘をつきません」
静かな声だった。
「ですが、人間は数字を隠します」
その言葉に、出発前のリアの姿が浮かぶ。
ーーー人の嘘は見えない。
馬車の前方から蹄の音が聞こえる。
「王都を出発する時、リアさんも似たようなことを言ってました」
帳簿をめくるエドガーの指先だけが静かに動く。
「彼女はレオニス殿下の北方調査に、何度か同行しています。今回の調査で最も北方を知っているのは、彼女でしょう」
「そうなんですか」
「ええ。私は数字しか見ていませんから」
エドガーが淡々と言った。
ノアは目を瞬き、少しだけ口元を緩めた。
馬車が小さく揺れる。
ふと、村の入口で見た男の顔が脳裏によみがえった。
村の入口でこちらを見ていた男。
怯えたような目。
何かを知りながら、口を閉ざす人間の顔。
――ああいう目をした人間は、大抵、何かを知っている。
リアの言葉に、もう一つの記憶が重なった。
議会で笑みを失った、財務卿ガルディア。
彼もまた、何かを知っていたのだろうか。
窓の外では、冬の風が枯れ草を揺らしていた。
空を覆う灰色の雲は低く垂れ込め、その先に続く北方の景色を隠している。
馬車は静かに街道を進む。
まだ雪は降っていない。
けれど、その空はいつ降り始めてもおかしくない色をしていた。
不穏な旅は続きます。
北方の人々は何に怯えているのか…。
次回もお楽しみに!




