第三章 「霧の先へ」
槍が唸る。
風を纏った突き。影は一歩退く。突きが空を裂き、地面に深い線が走った。
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鋼牙が踏み込む。風が槍を押し出す。間合いが広い。影は踏み込めない。
「押されてるぞ!」観客席から声が上がる。
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その時だった。空気が変わる。
山からゆっくりと霧が流れてくる。白い霧が試合場を覆い始めた。
「霧だ!」「見えないぞ!」観客がざわめく。視界が一気に落ちる。
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鋼牙はすぐに槍を振るう。風が走り、霧を払う。だがそこに影はいない。
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霧の中、静かに足音が動く。
影は走る。縦、横、背後。
だが意識の中では別のものが動いていた。山での修行。霧の夜、何度も振り続けた刀。暗闇の中、星明かりだけで振り続けたあの夜。
体が覚えていた。霧の中での動き方を。見えなくても、流れが分かる。空気が分かる。
相手の位置が、なんとなく分かった。
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鋼牙が振り向く。「どこだ!」
風を纏わせた槍が霧を裂く。だがそこに影はいない。
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次の瞬間、影が現れる。一太刀。刃が走る。
槍の穂先が落ちた。
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「穂先が!」「終わりだ!」観客席がざわめく。
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だが鋼牙は退かない。残った槍を握り直し、棍のように構える。
「……なるほど。いい剣だ」
突き、薙ぎ、踏み込み。穂先がなくても鋼牙は強い。
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影は距離を取る。無理に攻めない。霧の中で静かに立つ。
観客には何も見えない。ただ霧の中で、二つの影が向かい合っている。
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影はゆっくり呼吸を整える。心を落ち着かせる。
霧。風。空気。すべてが静かに流れていた。
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その瞬間、影の体が自然に動いた。考えではない。ただ、体が動く。
一閃。
刃が走る。その瞬間、霧が裂けた。白い霧が一気に流れ、試合場の視界が開ける。
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観客が息を呑む。
霧が晴れた先。鋼牙の握っていた槍が、途中から折れていた。
影の刀は鋼牙の喉元で止まっている。寸止め。
静寂。
審判が叫ぶ。「勝者、影!」
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「霧が……」「今の何だ?」観客がざわめく。
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鋼牙は動けなかった。影の刀ではなく、折れた槍を見ていた。
今、何が起きた。霧が裂けた。それは見えた。だがそれだけではない。自分の槍に纏わせていた風が――一瞬、消えた。
いや、違う。
斬られていた。
鋼牙は影を見る。呟く。「……なんだ、今のは」
影は答えない。ただ、刀を収めた。
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試合場では次の試合が始まっていた。歓声が再び広場を包む。
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影が試合場を降り、観覧席へ戻る通路を歩いていた。その途中、後ろから声がかかる。
「ねぇねぇ」
影が足を止める。
「今のすごかったねぇ〜」
振り返る。そこに一人の女が立っていた。
猫のような雰囲気。細めた目。軽い笑み。女はひらひらと手を振る。「霧ごと斬るなんてさ、びっくりしちゃった」
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影は短く言う。「……何だ」
女はくすっと笑う。「別にぃ?ちょっと声かけただけ」
影の顔を覗き込む。「でもさ、君」少し首を傾げる。
「普通の人じゃないよね?」
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影は黙る。
女は楽しそうに笑う。「ま、いっか。またね〜」
猫のように軽い足取りで、人混みに消えていった。
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影は少しだけ振り返る。だがすぐに歩き出す。
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観覧席へ戻ると、天斬が試合場を見ていた。影が隣に立つ。
この大会、強い者が多い。影はそう感じていた。
天斬は試合場を見たまま言う。「この大会、強い者が多い」
影は少し間を置く。「……分かる」
天斬は静かに笑う。「まだ上がいる」
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しばらく沈黙が続いた。
天斬は試合場を見たまま言う。「霧を斬ったか」
「……斬れた気がした」
「気がしたのではない。斬っている」
影は少し間を置く。「霧の中で、なぜか分かった。風の流れが。相手の位置が」
天斬は静かに言う。「霧は隠す。だがお前には見せる」
影は黙る。まだ理解しきれていなかった。
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その時、審判の声が響く。「ここで昼の休憩とする!」
観客席が一気に動き出した。街へ人が流れていく。屋台、酒、肉の匂い。武人たちの笑い声。街は祭りのような騒ぎだった。
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影と天斬も席を立ち、通路を歩く。その途中、前から一人の男が来た。
鋼牙だった。
男は影を見て、少し笑う。「さっきは見事だった」
影は軽く頷く。
「街を案内してやろう。憲兵隊長だからな」
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三人は屋台の並ぶ通りへ出た。街は完全に祭りだった。
しばらく歩いた後、鋼牙が言う。「ちなみに、次の相手は知っているか」
影は首を振る。
「大剣使いだ。重い一撃の男」少し間を置く。「そして、平気で人を殺す」
影は黙る。
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天斬がぽつりと言う。「構わん」
鋼牙が少し眉を動かす。
天斬は続ける。「迷いがあるなら――殺される」
静かな声だった。だが重い。
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影は屋台の向こうに見える試合場を見た。
次の戦いが、待っている。
第三章終~




