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「界」  作者: 緑陰
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第一章 「残霞一閃」

影は天斬の弟子となった。

修行は単純だった。刀を振る。ただそれだけ。朝も、昼も、夜も、影は振り続ける。

だが時折、天斬に挑む。そのたびに、すべて止められた。

影が斬る。次の瞬間には、刀は止められている。天斬の動き出しが見えない。

天斬は言う。「荒い」

それだけだった。

修行はそれだけではなかった。

掃除、柱の修理、屋根の補修。道場の仕事はすべて影がやる。

影は思う。

(あのジジイ……いつか絶対一泡吹かせてやる)

それでも刀は振り続けた。

ある日、天斬が言った。「修行を変える」

影は黙って聞く。天斬は山を見た。

「この山はな、月に数度、霧に覆われる」

そして言う。「その霧を斬れ」

霧など、斬れるはずがない。影はそう思った。

それから影は山で暮らした。野宿。川で魚を捕り、火を起こす。そして刀を振る。霧の夜も、霧のない夜も、ただ振る。

霧は斬れない。当然だ。霧など斬れるはずがない。

ある夜、火が消えた。

薪が尽きていた。影は暗闇の中、刀を膝に置いたまま動かなかった。

空を見上げる。星だけがある。

(俺は何のために斬っている)

答えは出ない。出たことがない。

斬り始めた頃のことを思い出そうとする。だが――うまく思い出せない。怒りだったのか。悲しみだったのか。それとも、ただそうするしかなかったのか。

分からない。

ただ一つだけ分かることがある。

刀を置いたことは、一度もなかった。

影は立ち上がる。暗闇の中、刀を構える。

星明かりだけで振る。

それだけだった。

半年が過ぎた頃。

ある霧の夜、影の一振りが霧に触れた気がした。ほんの一瞬、霧が裂けたように見えた。だがすぐに消える。

(今のは……何だ)

それからも振り続けた。霧は毎日出るわけではない。月に数度、時間も分からない。多くは夜更け。影はただ、霧の夜を待った。

一年が過ぎた頃。

川辺の岩の上で、影は正座していた。刀は膝の上。目を閉じる。

この頃には、なんとなく分かるようになっていた。今夜は霧が出る。

やがて山が白く染まる。霧だった。

影は動かない。呼吸だけ。霧が周囲を覆う。

その瞬間、影の手が動いた。意識ではない。自然に。

一閃。

刀が抜かれる。静かな、居合。

霧が、わずかに裂けた。

それが影の奥義――残霞一閃。

その様子を、遠くから天斬が見ていた。しばらく黙り、小さく呟く。

「……ようやくか」

そして、少し笑った。

数日後、影は道場へ戻る。天斬は言う。「朝早く来い」それだけだった。

翌朝、影は天斬の後を歩いた。森を抜け、川を越え、長い道を進む。やがて小さな建物が見えた。煙突から煙。鍛冶屋だった。

「……鍛冶屋?」影は自分の刀を見る。「俺の刀は、まだ使える」

天斬は言う。「その刀は、とっくに限界を越えている」

影は刀を見た。霧を斬った夜から、確かめていなかった。

「最後に、お前の剣に応えた」

影が刀を抜く。その瞬間、刃が静かに砕けた。

鍛冶屋の戸が開き、大柄な男が現れた。天斬を見る。

「……お前か」

影を見る。「ほう、そいつが弟子か」男は笑う。「どういう風の吹き回しだ」

「こいつの刀を打て」天斬は言う。

鍛冶師は影を見た。「小僧、何を斬った」

「……霧だ」

鍛冶師の目が変わる。「なるほどな」刀を見て聞く。「いつから使ってる」

「初めからだ」

鍛冶師は息を吐く。「よく持ったな。いい刀だ」

鍛冶師は棚から一本の刀を取り出し、影に投げた。

「一月後また来い。それまでには用意しておく」そして言う。「それまで、これでも使っとけ」

影が受け取る。天斬がその刀を見た瞬間、わずかに顔が引きつった。

鍛冶師が笑う。「懐かしいか。そいつ、昔このジジイが修行で使ってた刀だ」影を見る。「安心しろ。その刀、まだ人は斬ってねぇ」

鍛冶屋を出たあと、山道を戻りながら天斬が言った。

「一月ある」

影は黙って歩く。

「街へ行く。武術大会がある」

「……大会?」

「武を競う場だ。賞金も出る」

影は少し考える。鍛冶屋の顔が浮かぶ。「……出ろってことか」

天斬はあっさり言う。「もうエントリーしてある」

影は足を止めた。しばらく黙る。そして心の中で吐き捨てた。

(このクソジジイ……またか)

天斬は振り返らない。ただ歩き続ける。

数日後、影と天斬は街へ入った。大会会場はすでに人で溢れている。剣士、槍使い、弓使い、格闘家。様々な武人たちがざわめいていた。

入口には長い列ができていた。

「……並ぶのか」「ああ」

順番が来る。受付の男が言う。「名前」

「影」

男は帳面をめくり、指を止める。「……あるな。登録済みだ」

影は横を見る。天斬は何も言わず、目を逸らした。

少し離れた場所。仲間に囲まれた一人の男が、ふと視線を止めた。

天膳。一行の頭だった。

その目が、影を捉える。どこか懐かしい。だが――違う。まるで別人のような雰囲気だった。

「知り合いです?」仲間が聞く。

天膳はしばらく影を見ていた。やがて首を振る。

「……いや」小さく笑う。「昔のこと思い出しただけだ」

もう一度、影を見る。そして小さく呟いた。

「……なんでもない」


第一章 終

影の修行編いかがでしたか。まだ荒削りな影が、少しずつ何かに近づいていく過程を丁寧に書いていきたいと思っています。次回から大会編に入ります。

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