「序章」
この世界には、多くの人が生きている。
村があり、街があり、国がある。人は生き、時に争い、武を振るう者もいる。
だが――本当に強い者というのは、ただ力を持つ者ではない。何を持っているかでもない。
何を極めたか。それだけだ。
そしてこの世界には、ほとんど語られることのないものがある。
「界」――そう呼ばれるものだ。
多くの人間にとっては、ただの噂か、昔話のようなもの。それが何なのか、どこにあるのか、語れる者はほとんどいない。
ただ一つ言えることがある。
それは確かに、この世界に在る。
そしてこれは――後に霧影と呼ばれる男の、まだ誰にも知られていない頃の話だ。
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月夜の山。
静かな山道を、一人の男が歩いていた。黒い外套。腰には一本の刀。人々はその男を「影」と呼んでいた。
――あれから、どれだけの月日が流れただろうか。
朝も、昼も、夜も、俺はただ斬り続けた。何を斬るのかも、何のためなのかも分からないまま。ただ刀を振るい続けた。
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影の足が、ふと止まった。
足音ではない。息遣いでもない。ただ――殺気に近い何かが、夜の空気に滲んでいた。
次の瞬間、木々の間から男たちが現れる。五人。山賊だった。
「気付いてたか」男の一人が薄く笑う。「悪いな旅人。ここを通るなら金と荷物を置いていけ。刀もだ」
男たちが影を囲む。影は何も言わない。ただ静かに立っている。
「聞こえねぇのか?」山賊の一人が苛立ちをあらわにした。
影はゆっくりと視線を上げた。そして短く言う。
「……邪魔だ」
次の瞬間、影の手が刀の柄に触れた。それだけだった。
音はほとんどなかった。風がわずかに揺れた気がした。
一人、崩れる。二人目。三人目。四人目。五人目。
誰も何が起きたのか分からなかった。刀を抜く暇もない。声を上げる時間もない。ただ、倒れていく。
数秒後、山道には五つの骸だけが残っていた。影の刀は、いつの間にか鞘に収まっている。影は振り返らない。そのまま山の奥へと歩いていった。
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やがて、古びた道場に辿り着いた。
朽ちた門。長い間、人が訪れた気配のない場所。影が門を眺めていると、背後から声がした。
「荒いな」
振り向く。
そこには一人の老人が立っていた。いつからそこにいたのか――気配は、なかった。
だが影はすぐに理解した。
勝てない。
久しく感じていない感覚だった。言葉が出てこない。
老人は静かに言う。「山賊を斬ったな」
影は答えない。
「だが」と老人は続ける。「それは剣ではない」
影の目がわずかに動く。
「荒々しい。まだ人の域だ」
しばらく沈黙が続いた。やがて影が口を開く。
「……剣とは何だ」
老人は答えなかった。ゆっくりと刀を抜き、遠くの山へ向けて――空に一振り。それだけだった。
夜は何も変わらない。
だが、数秒後。
空が裂けた。
遠くの山で、巨大な岩が遅れて真っ二つに割れる。
影は動かない。
老人は静かに刀を鞘へ収め、影を見た。「これが剣だ。お前はただ、人を斬っているだけだ。真の剣はそうではない」
影はしばらく動かなかった。
遠くの山を見ていた。割れた岩を。あの一振りの残像を。
自分がこれまで斬ってきたものが、酷くちっぽけに思えた。力ではない。速さでもない。あれは――次元が違う。
やがて影は老人へ視線を戻し、静かに言った。
「……弟子にしてくれ」
老人は影をじっと見つめた。やがて、静かに頷く。
「いいだろう」
老人の名は、天斬。この世界で初めて、剣士となった男。
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ここから――影の運命は、大きく変わることになる。
ここまで読んでくださりありがとうございます。これが霧影と呼ばれる男の、まだ何者でもなかった頃の始まりです。ゆっくり更新になるかもしれませんが、最後まで付き合ってもらえると嬉しいです。




