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「界」  作者: 緑陰
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第十二章 「力の代償」

大会の騒ぎが少し落ち着いた頃。

会場の奥、医務室へ続く廊下を二人の男が歩いていた。影。そして天斬。

影がぼそりと言う。「……本当に行くのか」

天斬は肩を揺らして笑う。「ほっほ。弟子が斬った相手じゃ。一応、顔くらい見ておくものじゃろう」

影は小さく息を吐いた。

その時、後ろから軽い足音が近づく。コツ、コツ。

「ねぇ影っち」

影が振り返る。猫女だった。いつものようににこにこしている。

影の眉がわずかに寄る。「……なんでいる」

猫女は首を傾げる。「え?」そして当然のように言った。「お見舞い」

まるで最初から一緒に来るのが当たり前のような口調だった。

そのまま三人は並んで歩き出す。

猫女が影を覗き込む。「影っちさー、結構ボロボロだったよね。大丈夫?」

影は前を向いたまま答える。「問題ない」

猫女が笑う。「強がり〜」

しばらく会話が続いた。そして――天斬の足がぴたりと止まった。じっと猫女を見る。数秒。沈黙。

「……お主」

猫女が振り向く。「ん?」

天斬が目を見開く。「なんでお主ここにおるの!?」

猫女はきょとんとする。「え?普通に会話してたじゃん」一拍。「気づくの遅くない?」

天斬は咳払いする。「……それはそうじゃがの」

影は二人を気にする様子もなくそのまま歩き続ける。小さく呟く。「……騒がしい」

猫女が笑う。「影っち冷たい」

三人はそのまま廊下を進み、やがて医務室の扉の前で足を止めた。

影が静かに扉を見る。中には先ほどまで剣を交えていた男がいる。

影は軽くノックした。コン。静かな音が廊下に響く。

中から声が返ってきた。「……開いてる」

影が扉を押す。ギィ……

医務室の中は薬の匂いが漂っていた。窓際のベッド。そこにライはいた。上半身には包帯が巻かれている。腕にも応急処置の跡。だが表情は妙に元気だった。

ベッドに寝たままこちらを見る。そして口の端を上げる。「……見舞いか?」

影を見て少し笑う。「ずいぶん優しいじゃねぇか」

猫女がひょこっと顔を出す。「影っち、心配して来たんだよ〜」

ライの視線が猫女へ移る。一瞬。そして表情が変わる。ニヤリ。

「お。いい女」ベッドの上で軽く手を上げる。「俺、怪我人なんだけどさ。慰めてくれない?」

猫女がきょとんとする。「え?」

その瞬間、影の視線が変わった。冷たい。

影が小さく言う。「……やっぱり、殺すか」

ライが即座に叫ぶ。「待て待て待て!俺怪我人!」両手を上げる。「平和的に行こうぜ!」

横で天斬が笑う。「ほっほ。元気そうじゃの」

ライは天井を見ながらため息を吐く。「……元気っていうか、死にかけたんだけどな」

そしてゆっくりと視線を戻す。影を見る。その目が少し変わる。

「……やっぱり」小さく言う。「お前なんだな」

影の眉がわずかに動く。

「噂の」少し笑う。「人斬り」

猫女が楽しそうに言う。「あらこわーい」

影は黙ったままライを見ていた。

ライがふっと笑う。「安心しろ。別に喧嘩売ってるわけじゃない」少しだけ真面目な顔になる。「ただ」

影を見る。「天膳を知っているか?」

部屋の空気がわずかに変わった。影の目が細くなる。

ライが続ける。「どういう関係なんだ?」

猫女が身を乗り出す。「それ気になるー。影っち教えて?」

影は少しだけ視線を落とす。そして静かに言った。

「……知らない」

ライが眉を上げる。

「聞いても、いつもはぐらかされる」少し間を置く。「ただ、似ていると言われた。もう要らなくなった。ただそれだけだ」

ライは少し黙る。そして笑った。「なるほどな」天井を見ながら呟く。「やっぱり、面白ぇ」

再び影を見る。「だから確かめた。天膳の言う影かどうか」

影は何も答えない。

猫女が小声で言う。「……影っち、モテるねぇ」

影は小さくため息を吐いた。

ライは天井を見上げたまま小さく笑った。「まぁいい。今はそれでいいさ」ベッドの上で軽く肩をすくめる。「そのうち分かる」

影は何も言わない。視線を外す。

やがて天斬が口を開いた。「さて。長居は無用じゃな」ライを見る。「しばらくは大人しくしておれ」

ライは軽く手を振る。「はいはい。どうせ動けねぇよ」

猫女がひょいと手を振る。「じゃーね雷男」

ライが笑う。「その呼び方はやめろ」

影たちは医務室を後にした。廊下に出ると外のざわめきがまだ残っている。大会は終わった。だが街はまだ興奮の中にあった。

しばらく歩く。猫女がふいに立ち止まる。「んー」軽く伸びをする。

影が振り返る。猫女はにやっと笑う。「んー、このへんでおいとまするね。寄り道したいし」

そしてひらっと手を振る。「またね、影っち」天斬にも視線を向ける。「おじいちゃんもバイバイ」

くるりと背を向ける。そのまま軽い足取りで歩き出す。数歩。そして人混みの中へ溶けるように消えた。気配がすっと消える。

静寂。

影はしばらくその方向を見ていた。言葉はない。ただわずかに眉が動く。

友と呼べるものも、知り合いと呼べるものも、ほとんどいない。そんな影にとって、あの一言は妙に引っかかった。

「またね」

当たり前のようで、当たり前ではない言葉。

影は小さく呟く。「……またね、か」

ほんのわずかに息を吐く。そして振り払うように前を向いた。

街の喧騒が耳に入る。壊れた屋台。焦げた石畳。崩れた壁。あちこちに嵐の痕跡が残っている。

影はゆっくりと歩き出す。隣には老人。

その時、人混みをかき分けるように一人の男が近づいてきた。大会関係者の装い。影の前で止まり深く頭を下げる。

「影殿」顔を上げる。「街の長がお呼びです」

影の眉がわずかに寄る。「……何の用だ」

「大会の件です」少し言い淀む。「被害が想定以上で……直接、お話がしたいと」

影は無言。隣の老人が静かに言う。「よかろう。案内せい」

男が頷く。「こちらへ」

三人は街の中心へ歩き出す。人々の間を抜けながら進んでいく。

影は周囲に目を向ける。そして小さく呟く。「……酷いな」

隣の老人が静かに言う。「力は、扱えねば災いとなる」

影は何も返さない。ただ前を見て歩く。

やがて大きな屋敷が見えてくる。街の中心。重厚な門。兵が立っている。

「こちらです」男が言う。

門がゆっくりと開く。ギィ……

影はその奥を見た。静かに。そして一歩踏み出した。

手入れされた庭。静まり返った空気。外の喧騒が嘘のようだった。

案内された先、大きな扉の前で男が足を止める。「こちらでお待ちです」

扉がゆっくりと開く。ギィ……

広い空間。その中央、一人の男が椅子に座っていた。街の長。

影の視線がその男を捉える。男もまたこちらを見る。

わずかな沈黙。そして静かに口を開いた。

「……よく来てくれました」

影は何も言わない。ただその場に立つ。老人も黙ったまま。

静寂。二つの視線が交差する。


第十二章終~

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