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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
39/55

35.明日在りと想う心の徒桜

 

 年をあらわす暦が星歴となって七七七年、多くの戦いがあった。

 この世界の構造は単純でいて残酷だ。

 決して終わらぬ負の連鎖が、終わりなき戦いを強いている。

 だが正確に言えば、終わりがないわけではない。

 負の連鎖はいずれ終わると、彼は言った。

 しかし、終わらせるわけにはいかないとも、彼は言っていた。

 彼は単純で、分かりやすくて、複雑で、分かりにくい男だ。

 嘘は吐かないが故に言葉足らずで、泣いているくせに微笑みの仮面で誤魔化す。

 だから今となっては、彼の言葉の意味を理解することができた。

 終わらせるべきはずの負の連鎖を、終わらせるわけにはいかない理由。

 いや、違う。彼の言葉を正しく言い換えるなら、こうだ。

 終わらせるべき負の連鎖を、正しい形で終わらせなければならない。

 なぜならそう……負の連鎖を起こす原因たるその存在がすべで消えれば、当然それは起こり得ない。

 彼が拒む負の連鎖の終わりとは、世界の終焉そのものなのだから。

 


 …………

 ……

 


 

「こんな日に限って空が見えないなんてね」

「おや、随分と感傷的になってるじゃないか。頭でも撫でてあげようかい?」


 陽は既に沈みきっており、今日も群青の広がる世界が訪れた。

 自室の窓硝子からアルテミスが外を見ると、普段は人気の無い宮殿の敷地内にも、何人かの月の使徒が思い思いに時を過ごしているのが見受けられる。

 酒瓶を手にしている者、肩を組み語らっている者と様々だ。


「そうね、お願いしようかしら」


 メリュジーナの揶揄うような言葉をそのまま受入れ、背後に立っていた彼女にアルテミスは体を預けた。

 これにはさすがのメリュジーナも面食らっていたが、よくよく考えてみれば、この少女は今まで多くの決断と責任を抱えて生きてきたものの、甘えるなどという事は殆どしてこなかったのである。

 立場と彼女自身の性分がそれを阻んでいたのだが、今日という日だけは、彼女にとっても思うところがあるのだろう。


「まったく……こんな華奢な身体でよくやってきたもんだね。お疲れさんにはちょいと早いけどさ」

「えぇ、そうね。まだ、大切な仕事が残っているんだもの」


 これまで様々なものを彼女は見てきた。

 これまで様々な人に彼女は触れてきた。

 これまで様々な声を彼女は聴いてきた。


 それで得られた多くのものが、今のアルテミス(少女)をアルテミスたらしめている。

 世界に求められた立場()はいつの間にか、彼女の求める未来を掴むための立場になっていた。

 しかし、それは私利私欲の為でなく、文字通り世界の未来(明日)を迎えるためだ。


 今、宮殿内で語り合っている者、気持ちを落ち着かせ休息をとる者、これまでと変わる事無く酒場に向かう者、家族との時間を楽しむ者たちも皆、誰もが皆、場所や立場など関係なく宿す想いは同じである。

 それこそ神も、魔憑も、亜人も、老兵も新兵も、関係なくだ。


 綿密な計画、周到な準備、過酷な鍛錬、十分な休息。

 多くの不安は存在し、想定できない万が一に怯える中でもその時は訪れる。

 それでも、誰一人として逃げ出す者はいなかった。

 逃げたところで救われないと知っていたから。

 戦って勝利を得ねば未来は無いと、そう知っていたからだ。

 

 


 ――陽国ソールアウラ神都ヘメラ


 陽天はすでになく、夜天がこの国を覆っていた。

 灼熱の世界は姿を変えて、熱の失われた世界へ移りゆく。


「せっかく飲むんやったら、肴くらい用意したらえぇのに。ほいっと」

「戻っていたのか」


 宮殿から少し離れたところにある、砂丘へ続く道に建てられた休息所。

 壁はないが、大きな屋根は日中の日差しを防ぎ、とにかく広い事もあって心地良い風が吹き抜けていく。

 太陽が沈めは少し肌寒く感じるそれは今も吹き続けており、銘酒で火照った巨躯には熱を奪いすぎるくらいの風は丁度良いものだった。

 街の方では、宴が未だに続いているところもいくつかあるようで、まだ暫くの間は明かりが消えることも無いのだろう。


「それで、貴公はこれからどうするつもりなのだ?」

「どうするもこうするもないわ。その時が来るまで、此処が俺の居場所(ホーム)やからな」

「ふっ、そうか」

「なんや、今笑ったんか? 珍しい」

「気のせいだ。ならば、そうだな……」


 イグニスは一度言葉を切り、手にしていた硝子杯(グラス)の中身を一気に呷った。

 そしてアトラスに視線を送ると、彼は肴と共に持参した硝子杯(グラス)を掲げて見せる。

 決戦前夜の乾杯、をするつもりだったのだろう。

 だが、イグニスが続けた言葉は、アトラスの想像通りのものではなかった。

 それは酒に酔った訳ではなく、この時の空気に酔った訳でもなく、正気の状態での思考と発言であった。


「ソレイユが壊した他の休息所の修繕を頼む」

「それ俺に関係無いやん!」


 陽国内に現存する休息所は本来あるべき数の半分にも届いていない事を知っている者からすれば、それはそれは過酷な作業になるのは想像に難くない。


「冗談だ」

「ったく、慣れへん冗談なんか吐くなや。今から全部直そうもんなら、明日の体力全部もってかれるわ」

「あぁ……そうだな」

「…………直したる」

「何か言ったか?」

「明日なら、直したるっていうたんや」


 それは果たせるかどうかはわからない……それでも――


「そうか」

「なにがおかしいねん」

「いや……明日は頼んだ」

「まかしとき」


 果たしたいと願わずにはいられない、そんな約束だった。




 ――海国エデルメーア神都ポントス


「それで、だ。こんな時間に呼び出して何用だ? まだ詰めておきたいことがあるのだがな」

「そんなに邪険にしなくてもいいでしょう? たまには一杯付き合いなさいよ」


 穏やかな漣の音だけが聞こえるメロウの自室に設けられている露台(テラス)では、優雅に硝子杯(グラス)を傾けるメロウと、仕事の合間をぬって訪れた呆れ顔をしたヴィアベルの姿があった。

 相応の立場が約束されているとはいえ、国の代表である神を平然と呼びつけるメロウに、周囲の海の流人さえ辟易する時期もあったが、今となっては見慣れた光景となっている。


「言っても聞かないとわかっているからな。付き合うしかない、が……本当に一杯だけだからな」

「はいはい。むしろ、これを飲めることを喜ぶべきだと思うけど」


 そう言って、メロウはもう一つ用意していた空の硝子杯(グラス)に、自身が飲んでいるのと同じ酒をゆっくりと注いでゆく。

 その間にもヴィアベルはメロウの向かいの椅子へ腰を下ろし、小さく息を漏らすが、その表情には疲労よりも充実感のようなものが感じられた。


「はい、どうぞ。これを飲んだら戻ってもいいわよ」

「随分と勝手な事ばかり言ってくれる。ならば、早々に頂いて戻らせてもらおう」


 眉間に小さく皺を寄せ、僅かに苛立った声を発しながらヴィアベルは硝子杯(グラス)を傾けた。その瞬間、彼女の瞳が僅かに見開かれる。

 そうして一口、二口と味わうように口に含んでいたはずが、瞬く間に硝子杯(グラス)は空となった。

 それは紛れもなく覚えのある味であり、ヴィアベルは興奮気味になった声調をできる限り抑えつつ、その出所をメロウに問いただす。


「こ、これをどうやって手に入れたんだ?」

「馬鹿ね、私が手に入れられないはずないでしょ」

「も……」

「も?」

「もう一杯だけ……飲ませろ」

 

 恥ずかしそうに逸らした顔が紅潮しているのは、酒のせいではないだろう。

 そんな彼女の横顔を呆れたように眺めつつ、メロウは素っ気ない言葉を返す。


「一杯だけって言ったのは貴女の方じゃない」


 が、ヴィアベルの反応も仕方のない事だろう。その酒の希少性と品質は非常に高く、万が一に手に入れることができたとしても、開けることを躊躇う者も多いと言われている一品だ。

 そんな銘酒にメロウが厳重に栓をすると、まるで玩具を取り上げられた子供のような表情を浮かべるヴィアベル。


(この子のこんな顔を見たことがあるのは、私とあの人くらいでしょうね)


 両眼を瞑り、メロウは心の中でくすりと微笑んだ。そして、言葉を続ける。


「心配しなくても、続きを一人で楽しんだりはしないわよ」

「ほ、本当か?」

「当然でしょ。残りは明日の夜……祝勝の席で、ね?」


 いつもの表情で、いつもの声音で、そのときが来るのが当然の如く。




 ――天国チエロレステ神都ウラノス


 街の明かりは殆ど消え、未だついているのは街灯だけとなっている浮遊街。

 空に浮かぶ神都の中心部の天空殿内では、厳かな空気が相変わらず漂ってはいなかった。


「もう一度聞くが……この有様はどういうことだ、ベンヌ」

「いやぁ、どういうことなんでしょうかね? 玉座の間(こんなところ)で雑魚寝をしているなんて、本当に困った連中ですよ」

「あくまで、しらばくれるつもりか」


 時間など関係なく響き渡る、怒りを押し殺したような静かな怒号。

 そんな天神ブフェーラの声にさえ気付かず、いまだ夢の中にいる者たち。


「はぁ……今がどれだけ大事な時なのかわかっているのか、まったく」


 準備は整い、打ち合わせも重ねに重ねた。鍛錬の質と量も申し分無いほどのものを乗り越えては来たはずだが、今はまだその成果を見せるときではない。

 だが、その力を遺憾なく発揮すべきそのときまで、残り後僅かだ。


「これが我が国の精鋭とはな」


 見渡したブフェーラの視界に入るのは、自国の誇る戦士たちだ。

 天使(ジェン)妖鳥(クーン)禿頭人(イーリット)

 そして、一番彼の頭を痛め悩ませているのが、決して国民に見せるわけにはいかない仮にも女神たる(ファロ)の姿だった。


「わかっているからこそ、じゃないですかね」


 小さく苦笑しながらも、ベンヌは当たり前のようにブフェーラへと言葉を返し、この話題を断ち切るかのように、懐から一本の酒瓶を取り出した。


「おい、ベンヌ! それは、それだけは開けるでない!」


 それが自分の大切にしている物だと一目で理解したブフェーラは、珍しくも先程とは異なる焦りの声を出し、ベンヌがこれからしようとしている行為を制した。

 が、それは叶わなかった。


「うおっと、いきなり大きな声を出さないで下さいよ」

「貴君が馬鹿な真似をしようとしているからだ! いつの間にそれを持ち出した!?」

「まぁまぁ、これほどの銘酒を今飲まない手はないでしょうよ。前祝いってやつです」

「……前祝い、か。そうだな。そう言われては、呑むしかあるまい」


 いずれ訪れるであろう日に友と呑む為に保管していたのだが、開けてしまっては仕方ないと、半ば呆けながらもブフェーラは盃に口をつけた。

 その味と香りに浸りながら、二人はその後も何度か杯を小さく鳴らし合う。

 互いの存在を確かめるように、互いの明日を祈るように。




 ――地国テールフォレ神都ウーレア


「今日はもう寝た方がいいね。ほら、ミコト」

「ね、眠くなぞないのじゃ。皆が働いておるのに、先に眠るわけにふぁ~あ……」

「そんな状態で言われても、なんの説得力もないさね」


 地国の女神であるミコトの住まう屋敷では、多くのものが荷造りや明日に向けての準備とその最終確認に追われていた。

 彼らは軍全体の動き方や、一般人への対応に重きを置き過ぎたあまりに、自分自身の事が蔑ろになっていたのだが、今夜だけはそういうわけにもいかない。


「そんなことあ……ない、のじゃ」


 連日、夜遅くまで会議に時間を費やしてきたミコトの体は疲労困憊といった様子だった。

 容姿に関してもそうだが、精神的な部分を見ても他国の神々に比べて幼く、それでいて人一倍気をもんでいるはずだ。故に頑張りすぎてしまうところがある。

 だが、美点だといえる努力も、度が過ぎれば欠点となってしまうこともあるのだ。


「余は……まだまだ…………すぅ~……」

「やっと利いてくれたみたいだね」


 瞼を下ろした愛らしい寝顔を覗き見て、イズナは軽く微笑んだ。


「すまないね。だけどこうでもしないと、ミコトは寝てくれないだろう?」


 働き詰めで、元々十分な休息をとっていなかった上、そんな状態でさらに働こうとするミコトを休ませるためにイズナがとった行動というのが、入眠効果の強い薬やそれに準じたものを摂取させることだった。

 一生懸命さや思いやりのあることは美点ではあるが、目的を達成するためには体調管理もぬかってはならないのである。


「ミコト……うちはね、元気なミコトの姿をこれからも見ていきたいのさ。だから、今はゆっくり休んどくといいさね」


 そう言って、イズナはミコトを起こさないように優しく、そっと背負い上げると、ミコトの寝室へと向かって歩を進めた。

 落とすことなく、引きずることなく、ゆっくりと静かに歩いていく。


「いつの日か、お前さんが酒の味をわかるようになるのが楽しみだ」


 自身の背中に感じている小さくて軽い、それでいてとても大切で大きな重みを、これからもずっと感じることができるようにと……そう願いながら。




 ――冥国オスクロイア神都エレボス


 そこは雪と氷に閉ざされ、暗い空に覆われた国。

 しかし、それも恒久的なものではなく、常に気温こそ低いものの、他の国ように吹雪いていない時ももちろん存在する。


「こうも晴れた日が続くっていうのも、なんだかこの国らしくなくて、どこか味気ないわねぇ~」

「外に出る度、胸元まで雪の中に埋もれてしまう人が言う台詞ではありませんよ?」


 外気など感じることのない部屋の中は暖炉の火で温められ、窓硝子の向こうの世界とは、同じでありながら何処か遠い世界に感じられた。

 陽が沈み、欠けた月に照らされた世界は冷たく、多くの生物がそのままで生きていくのは困難な環境といえるだろう。だが……


「随分と言ってくれるじゃないのぉ。好きで埋もれちゃうわけじゃないのよぉ?」

「それはそうでしょうとも。それはそれとして、リリスさん……また僕のお酒を開けましたね?」

「お酒はねぇ~、飾るために存在してるんじゃないの。飲むために存在してるのよぉ~」


 それでも生きているものたちがいる。

 そんな状況でも、生きていかねばならないものたちが居る。

 劣悪な環境であっても、生きたいという強い意思があれば存在する事ができる。


「そこまで言うのであれば、是非ともこれを飲んでもらいたいものですねぇ」


 そう言ったアルバが丸机(テーブル)の上に固い音を鳴らして置いたのは、夢見桜謹製の米酒・夢宵宵桜。

 味に酔い、薫りに酔う銘酒を前に、リリスは静かに笑みを漏らす。


「そう……こんなにいいお酒があるなんて。いま飲むのが勿体無いわねぇ」

「どうせならあの人と、というのはわかってますけどね。まぁそう言わずに飲んで下さいよ」


 アルバは収納石から硝子杯を二つ取り出し、粋酔桜をそれぞれに注ぐと片方をリリスに差し出し、もう一方を自身の手で持った。


「そうねぇ、あの人との楽しみは、祝杯まで取っておくことにするわぁ」


 リリスが暫しの逡巡した後、諦めたように硝子杯(グラス)を手に取ると、思案顔だった彼女に笑みを浮かべさせるべく、アルバが口を開く。


「それなら彼と夢見桜まで直接出向いて、ついでに数泊してくればいいんじゃないですか?」

「ふふっ、腹黒糸目のくせに素敵なこと言うじゃない」


 未来を思い描くということは大切なことだ。

 闇に包まれ、窮地に追い込まれ、絶望の最中にあったとしても、そうした未来への想いが己を生かす。


「一言余計ですよ。それでは、乾杯」

「カンパ~イ」


 誰も彼もの舌を唸らせる銘酒。

 それを口にしても、リリスが感じたのは……いや、おそらく今日という日に於いて誰もが感じたのは、甘さや辛さでなく、不安という名の苦味だった。


 


 ――月国フェガリアル神都ニュクス


 長らく感じていなかった温もりに包まれ、穏やかに時を過ごしているアルテミスに、その温もりの主は静かに口を開いた。


「アルテミス……こんなタイミングなっちまって悪いんだけどね」

「なに? もう判子は押したくないわよ?」


 二人のやり取りは普段と変わら無いようにも見えるが、アルテミスは何故か表情を強張らせており、心臓はその動きを早めだす。

 いつしか窓硝子の向こう側には誰をおらず、明かりも消えた暗い世界にアルテミスとメリュジーナが映るだけだ。

 メリュジーナの事だから何時もの冗談だろうとアルテミスは自分に言い聞かせるが、それは直ぐに打ち砕かれる。


「これはね、サラ・テミスがとある男から預かっていたものなんだ」

「――っ!?」


 アルテミスが窓硝子越しに見せられたのは、一冊の日記帳だった。

 それをただの備忘録(ノート)ではないと判別することができたのは、表紙に書かれていた、見覚えのある文字があったからだ。

 無邪気で、無垢な思いの込められた一冊の日記帳。

 いや、それは一冊だけでなく、何冊も存在するのかもしれない。


「メリュ、ジーナ……それは……それは本当に、あいつが持っていた物なの?」


 衝撃を呑み込み、必死に絞りだした声は酷くか細いものではあったが、メリュジーナの耳にはハッキリと届いた。

 温もりを感じながらも、身体は固く冷たくなっているような感覚を受け、それでいて、胸の奥に微かな熱が生み出されようとしている。

 そんな矛盾し、歪な感覚と感情が、アルテミスの胸に広がっていく。


「あぁ、間違いない。それをあたいに預けた人は冗談を口にしても、こういったことに関して嘘を言うような人じゃないからね」

「そう、なのね。本当にこれは……この、思い出は……」


 目頭を熱くさせながら、後方から差し出された日記帳を受け取ろうとするアルテミスだが、メリュジーナの掴んだ手がそれを放そうとはしなかった。

 それを渡すために必要な一言(想い)を、メリュジーナはまだアルテミスの口から聞けていないからだ。


「最後に確認だ、アルテミス。それを受け取って、あんたはどうするんだい?」

「……」

「見たくない現実から目を反らして、受け入れたくない現実から逃げて、その命に価値を見出せなかったあんたがさ……いまさらあの御方の想いに向かい合って、どうしたいんだい?」


 これまでアルテミスは色々な(しがらみ)を理由に、自身の想いを閉じ込め、自分に向けられる厚意を拒絶し続けてきた。

 その発端である出来事を、今でも完全に許すことができないという部分は確かに存在している。

 故に、今までの積み重なった想いは在るが、今までの自分の行いを顧みるとその想いに素直になることができず、彼女にとって何よりも重大であるはずの問題、この気持ちを拗らせた問題を解決することを先送りにしていたのだ。


 しかし、それも今日で終わりにしようと彼女は決心した。


 きっかけはメリュジーナだった。

 論理での闘いではなく、ただ喚いているようにしか見えなかったであろう口喧嘩で溜め込んでいた感情を表に出したあの日から、少しづつでもアルテミスは変わり始めていたのだ。

 それは誰も気づかないような小さな、本当に小さな変化だろう。

 誰もいない部屋の中、寝台の上で自分の素直な気持ちを口にするという独り言(第一歩)


 そして今日、大きな一歩を彼女は踏み出す。


「私は、あの人が何を考えてるのか、何を想っているのかが知りたい。私の想いも……知って欲しい」


 それは、メリュジーナが望み続けていた一言だった。

 その想いを聞くために、どれだけの長い時が過ぎただろう。

 湧き上がるのは途方もない嬉しさと、情けなく不甲斐ない自責の念だ。

 もっと早くに少女の心に絡んだ鎖を外せていたら……

 どうして、未来の最果てに辿り着いてしまった今なのだ……


(だからこそ、あたいはこの子に未来を作ってやりたいんだ)


 この世界の未来に最果てなどあってたまるものか。

 もっと早くに少女の鎖を外せていても、未来がなければ意味はない。

 この世界の未来が続いて行く限り、今からでも決して遅くはないのだ。

 それ故にメリュジーナは、怯えたように素直な想いを吐露した少女へと、冷たい鼓舞(言葉)を投げかける。


「知って、知ってもらってどうするんだい? あんたの思っているその命の価値と、あの御方の思っているその命の価値は違う」

「……わかってる」

「死んでもいいと思ってるあんたと、死なせまいとするあの御方の想いは絶対に交わらない」

「……わかってる」

「あの御方がくれたその歯車()で、あんたはいったい何を成す?」

「……わかってる。いまさら過ぎるって」


 今にも泣き出しそうな震えた声を漏らし、アルテミスはゆっくりと立ち上がった。そして、窓硝子に映る自分の頬に指先で触れると、まるで涙を拭いさるように虚像の目許を擦り上げ、勢いよく振り返った。


「でも、未来を望んでしまったの! たとえ明日が最期だとしても、その先の光景を思い描いてしまったの!」

「……そうかい」

「えぇ、そうよ! 私は死ぬ(戦う)ために生きるんじゃなくて、生きるために戦うの! 私の未来も、あの人の未来も、世界の未来も終わらない、終わらせない!」


 それは正に宣戦布告するかの如く、決意に溢れる言葉だった。

 狼狽えていた少女の姿はすでになく、品位の漂う女神の姿でもなく、紛れもない乙女の姿。

 そんなアルテミスの宣言に、思わず抱きしめたくなるのを堪えながら、メリュジーナは日記帳を優しく手渡した。


「まったく、そこまで啖呵を切っておいて、顔を合わせた途端に逃げ出さないでおくれよ?」

「そ、そんなことにならないわよ! な、ならないと……思うわ、たぶん」


 尻すぼみなる強きな言葉を発する少女の頬は赤く染まり、恥ずかしげに視線を逸らすそんな姿を見つめながら、メリュジーナは温かい笑みを零した。


「やれやれ。……それじゃ、あたいは戻るよ」


 共有していた温もりを名残惜しく思いながらも、メリュジーナはそのまま振り返ることなく扉へ足を向けると、振り返らずにアルテミスに声を掛ける。


「渡しておいてなんだけど、明日は大事な一日なんだ。ちゃんと休むんだよ?」

「それくらい分かってるわよ。おやすみなさい、メリー。それと、ありがとう」

「あぁ、おやすみ」


 いつも通りの挨拶も、尊く感じるのは気のせいではないはずだ。

 これからも昇る朝陽を迎える為に。

 これからも日輪に照らされる為に。

 これからも夜空の月を眺める為に。


 各々が信じた道は険しく、長いものであったとしても、その道には多くの仲間が共に歩んでいる。

 道を阻む困難に、独りで立ち向かうのではない。

 皆で立ち向かうのだという思いを胸に、戦士たちの夜が過ぎていく。

 最期の盤面に挑むための棋譜は完全ではなく、絶対ではない。

 それと同等に、終焉の可能性も絶対には成り得ない。


 誰もがそう信じていた。




 ……………

 ……




 ――星歴(せいれき)七七七年、大翼節(たいよくせつ)三十六日

 それは再会を祈願し、想いを天へと届ける日だ。

 帰魂祭に先立って、祖霊を迎える為に棚機つ女が穢れを祓う。

 里芋の葉に溜まる夜露(天の川の雫)を集めて墨をすり、五色の短冊に願いを書く。

 神迎えの役を負った神聖な笹竹に、想いの言ノ葉を吊すとういう祭事。

 

 とある男女の御伽噺では、離ればなれになった男女が年に一度再会できる日が七月七日とされており、二人は待ちに待った”再会”という願いを叶える。

 人々は”二人が無事に会えるように”という願いと共に、”二人のように、願い事が叶いますように”と、短冊に色々な願い事を書いて、笹や竹の葉に飾るようになったのだ。  


 そう、昨夜から明朝にかけて行われていたのはそんな七夕祭り。

 世界中でたくさんの祈りの言の葉が紡がれる、一年の中で最も願いの多い日(・・・・・・)だ。

 想い人が巡り逢えるはずの、そんな夜のはずだった。


 雲無き夜、夜空を流れる天河に散りばめられた星の輝き。


 ――否 


 暗雲立ちこめる空に輝く星は見えず、(てん)(かわ)は荒れ狂う。

 渡ることのできない川は、無情にも二人を引き合わせてはくれなかった。

 この日に降る雨を、催涙雨というのだそうだ。


 それはなんの皮肉だろうか……


 雨降る夜、地上を流れる血河に散りばめられた命の灯火。

 

 そんな絶望の中、滅び逝く世界の中で、私は――



 …………――――――――


 明日ありと思う心の仇桜……誰もがそう、甘く見ていたのかもしれない。

 降魔が消えることはなく、負の連鎖も止まらない……それでも、最大の脅威を封じ込め、ようやくにして世界中が手を取り合いひとつになった。

 だが、まだ終わりじゃない、とそう言った彼の言葉を、いったいどれだけの者が本当の意味で実感していただろうか。

 何も起きずに過ぎ行く日々は、確かに誰もが求めたもので……だから――


「――さん、後ろです!」


 すぐ近くで、悲鳴にも似た少女の声が響く。

 一秒にも満たない刹那で男が柄に手を掛け振り返るも、

 

「くッ、そういう、ことか……」


 胸からおびただしい血を流し、口から大量の血を吐き出して男が地に伏した。


「…………え?」


 いったい何が起きたのだろう。それは、あまりにも突然の出来事だった。

 誰もが気付かず、誰もが反応できなかった。

 決して油断していたつもりはない。信じていなかったわけでもない。

 彼の言葉を疑う者はおらず、この日に何かが起こると誰もが思っていた。

 故に……甘かった。その一言に尽きるだろう。


「……嘘」


 規格外の力を有し、絶望に負けず、光を灯す雄々しき存在。

 彼を中心に世界が一丸となった今、何かに負ける未来など誰が想像できただろうか。

 未来は断絶していない、まだまだ続いていくのだと、誰もがそう思っていた。

 

「だって、私は……まだ……」


 そう、男はあまりにも眩し過ぎたのだ。

 強く気高く、誰もが憧れる英雄であるからこそ、どれだけ暗闇の中でも彼を目印に突き進むことができた。

 その光を追っていれば、確かな道を歩むことができた。

 だから、見えなかったのだ。だから気付けなかった。

 眩し過ぎるが故に、彼の立つその道の先が……すでに無いのだということに。


 …………――――――――


「俺は……まだ……」


 その声で、現実から逃避し始めていた意識が強制的に引き戻された。

 いつの間にか周囲から激しい戦いの音が響いている。

 地面に力無くへたり込んでいる自分の腕の中には、ぐったりとした男が今にもその物語を終えようとしていた。


 誰に悟られることもなく、音も気配も何もなく、狙われた最強たる彼さえも気付かぬ不可視であり不可避でもある攻撃が開戦の合図……終わりへの始まり。

 おそらく、あの少女の声がなければ彼は即死だっただろう。


(そうよ、あの子の力があれば…………あの、子?)


 あの少女の力があれば、この男を治せるかもしれない……と、そう思ったはずなのに、何故か少女の名前を思い出すことができないでいる。

 必死に周囲を見渡すも、そうするごとに頭の中から少女の顔が消えていく。

 そこに居るはずなのに、どこにいるのかがわからなくなる中――


「終われ、ない……」


 腕の中から聞こえた声が、多くの現実を突き付けた。


「ここで、終われ、ないんだ……」


 きっと力を込め、立ち上がろうとしているのだろう。

 だが男の力はあまりにも弱々しく、手を震えさせるのが精一杯だった。


「もういいの」


 そう言って、必死に戦おうとする男の手をぎゅっと握り絞めた。

 光を失った両眼は何も見えておらず、遠い音も聞こえていないのだろう。

 冷たくなっていく手に、包み込む手の感触が伝わっているかさえわからない。


「君、は……」


 周囲の気配が遠退き、男が感じられる気配は傍に居る誰かという一人だけ。

 それは紛れもない終わり……死、そのものだ。


「もう……いいんです……」


 彼はきっと、泣かないのではない。泣けなかったのだ。

 どれだけ辛くても、痛くても、苦しくても、立ち止まりたくても、逃げたくても、泣きたくても……彼の強さが、彼の立場がそれを許さなかった。

 誰もが光に縋り、英雄という存在を望んでしまったから。

 この世界を救えるのが、彼しかいなかったから。

 彼は英雄になりたかったのではない。

 やるしかなかった。やらねばならなかった。

 運命に、この世界に生きるすべてのものを人質に取られた彼は……

 本当は臆病で優しい彼は、この残酷な運命に立つ向かうしかなかったのだ。


「だが、俺が……やらない、と……」

「大丈夫。もう、大丈夫です」


 だからどうか、お願いします。

 世界よ、民よ、神々よ……もうこの人を、赦してあげてください。


「大、丈夫……?」

「えぇ、終わったんです」


 剣戟や爆音は鳴り止まず、雄叫びは途切れず、土煙は上がり続けている。

 だが、男を抱えた少女は優しい嘘を吐いた。

 遠い昔……嘘を吐けなかった彼女は嘘を吐けなかったが故に、彼を追い詰めてしまった。それを悔いて悔いて悔いて、少女は心を殺して生き続けてきた。

 そんな彼女が今になって、この男の為にもう一度嘘を吐くというのは、なんという皮肉だろうか。

 

「もう、戦いは終わりましたから」 


 確かに彼は多くの人を殺めてきた。

 多くの人が、彼の手によって強制的に物語の幕を下ろされた。

 だが、彼はそれ以上にたくさんの人を救ってきた。

 確かに誰かを救ったとしても、誰かを殺した罪が消えるわけではない。

 単純な足し算のように、マイナスの数だけプラスを足しても零にはならない。

 咎は刻まれ罪は消えず、己の心を蝕み続ける病魔そのものだ。

 だからどうか、お願いだ。

 

(せめて私たちだけでも……この人に英雄であることを強いてしまった、私たちだけでも……この人を赦してあげることを許して欲しい)


 たとえ本人が自分を赦せなくても、もういいのだと、もう十分だと、彼の魂に安らぎを与えることを許して欲しい。

 独りで背負い、独りで戦い続けてきたこの人のことを。

 涙が涸れ果て、己の正しいさを正しいと認識することすらできなくなってしまうほど、悲しみと後悔に蝕まれ続けて来たこの人の心を。


「聞こえますか? この勝ち鬨が……皆の声が」

「……そう、か」


 黒天を見つめる男の虚ろな瞳には、いったい何が映っているのだろう。

 光を失い、何も見えない彼の瞳は、今どのような景色を見ているのだろう。


「これは、貴方がもたらした勝利です。前で戦い続ける貴方の背中が、多くの者に勇気を与え、力を与え、この場所へ辿り着かせてくれました」

「俺、は……」

「見えますか? 皆が泣いています。ですがそれは、悲しみや後悔からではありません。絶望を踏破した涙です。笑顔に零れる涙です」

「俺は……いつの間にか……やり遂げていたのか」


 そう言った男の瞼が静かに下がり、少女が包み込んでいる大きな手が僅かに重くなると、これまで強く在ろうとしていた少女の心が崩れ始めた。


「ま、待って……ください。もう少し、もう少しだけ……お、お話を」

「……」

「ほ、本当はずっと願っていたんです。ずっと、待っていたんです。こ、この日が来るのを……また、お話ができると……」

「……」


 それは嘘を吐けない禁忌を背負った嘘吐きな少女が零した、嘘偽り無い想い。


「もう、目を覚まさなければよかったなんて言いませんから……」

 

 だって、目を覚まさなければ、もう戦う必要がないと思ったから。


「もう、ずっと捕まってればよかったなんて言いませんから……」


 だって、ずっと塔に捕われていれば、もう傷つくことはないと思ったから。


「もう酷いことも言いません」


 あのときの約束を、ずっと守っていてくれたのだと知れたから。

 紫の花をくれた日の、ずっと見守っているという言葉無き約束を。


「だから、だから……」

「あぁ……見えるさ」


 消え入りそうなか細い声で、男はそう呟いた。

 すでに瞼すら持ち上がらず、意識が暗闇に誘われていく中、それでも最期の力を振り絞り、必死に手を持ち上げようとしていたのだろう。

 少女は小さく震える男の手を自身の頬にあてがった。

 目尻から止め処なく零れる雫が、冷たい男の手を濡らしていく。


「笑っている……愛おしい、顔が。本当に……綺麗に、なった、な……」

「……うっ、くっ」

「俺は、ずっと……見守っ……る」  

「あっ、あぁ……」

「笑って、生き、る……のことを……」

「――っ」

「だから、どうか……幸せ……に……生き……」


 そうして――


「――っ」


 腕の中に感じた重みが、彼はもう目を覚まさないのだと告げていた。

 そして、少女はまた一つ、ここに後悔を生み落とす。


「うそ……つき……」


 少女の吐いた下手くそな嘘など、気付かなかったはずがない。だが、

 

「最後まで……人の心配、ばっかり……」


 自分のために吐いてくれた少女の優しい嘘を、彼が否定するはずもなかった。

 何故なら彼の最期に浮かべていた表情は笑顔ではなく、微笑みだったのだから。

 安堵ではなく、祝福でもない。誇らしさもなく、喜びでもない。

 それはまるで、手の掛かる妹を心配しているかのような――


「っ、うっ……く……あぁ……」


 彼は知っていた。何も成し遂げることができなかったと。

 彼は気付いていた。この世界の物語に、続きの頁がないことを。

 故に最期、彼は願った。

 自分はもう、あの世で見守ることしかできなくなってしまったけれど……

 自分はもう、すぐ傍で皆の望んだ景色を見ることはできないけれど……

 たとえ自分がいなくても、たとえこの世界が終わりに向かっていても。

 どうかすべてを諦めないで欲しいと。

 どうか笑顔で、幸せに生きられる未来の頁を綴って欲しいと。


 だがら――


「あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 だから今だけは、どうか弱い自分を晒すことを許して欲しい。

 たくさん泣いてしまっても、いつかきっと笑ってみせるから。


 そう……いつか必ず――


「兄様っ! 兄様ぁあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 愛おしい貴方の無念を晴らした、そのときに。



 …………

 ……




 絶望を前に、人は自ら死を望むことすらあるという。

 それは愚かなことだと思っていた。

 絶望の中でも、希望は生まれ落ちると信じていたから。

 

 しかし、襲い掛かる絶望はあまりにも深く――


 故に、報われぬ想いの中で、刹那の時に私は願う。

 最も願いの多き日に、心の底から私は願う。


(絶対に……許さない……)


 この世に、本当の奇跡があるのなら……


 この世に、本当に英雄がいるのなら……

 

 この世に、本当の正義があるのなら……


(兄様を救わなかったそんなすべてのものに――)


 涙天(るいてん)(もと)、それは誰かが祈った……

 

「――復讐してやる」


 紛れもない、救いを求める声だった。

 

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