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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
38/55

34.美しき月の輝く夜に

 

 微睡みの中で見た光景はあまりにも眩しすぎて、現実との落差にその心が耐えきれなかったのだろう。

 いつの間にか眠っていた少女たちの頬を、小さな雫が伝い落ちた。

 きっと目覚めても、自身の頬に残る乾いた水跡の意味を知ることはない。

 ただ何かが欠け落ちたような虚無感に苛まれ、悲しい気持ちになるだけだ。

 何故ならそれは、誰の心にも在りながら、誰の記憶にも無いものだから。

 それは忘却の彼方に在る、泡沫の夢物語。


 それだというのに……いや、彼女たちだからこそというべきだろうか。

 記憶には無く心に在る、その形無き情景の残り香を三人は感じ取っていた。

 ここ最近の多忙さ故に疲れ切った身体の痛みより、訓練で負った体の擦り傷よりも、頬に残る乾いた水痕がずきりと痛む。

 

 だからこそ、目覚めた三人の少女が本気で揉めたのは久方ぶりのことだった。

 それは何が正しくて、何が間違っているのか。あるいは正しくなくとも間違ってもいないのか。その解すら出せない、正解どころか答えの無い問答だ。

 互いに信念や想い、言いたいことを盛大にぶつけ合う。


 これはそう、恋人と仕事のどちらが大切かという問答に似ているかもしれない。

 正確にはそれをよりややこしくした感じだろうか。

 生きる為には金がいる。恋人が大切だからこそ、仕事も大切だといったように、切っても切れない関係というやつだ。大切なのはその塩梅。

 

 だが、それが仮に極論となればどうだろうか。

 恋人を選べば、生涯働くことはできず金が手に入らない。

 仕事を選べば、生涯恋人と共にいることはできなくなる。

 ならばいったい、どうするか。

 信頼の置ける者に、恋人を幸せにできる者に託すことも、一つの答えだろう。

 

 しかしそれが、人と人の選択ならばどうだろうか。

 

「大丈夫っすよ、ツキノ。絶対上手くいきます」

「それには同意かな。一応、楽観視しているつもりもないしね」


 ユーフィリア家の屋敷の屋根の上ではツキノ、シラユキ、モミジの三人が、傾いたその場所で滑り落ちることなく何やら会合を開いていた。


「で、でも! それをしてしまったら、もう……二度と……っ」


 明るく言葉を発していた二人に反して、ツキノの表情は沈んでいた。

 夕陽が沈むまで幾らかの時間はあるが、普段よりも暗く感じてしまうのは、空の色を遮る灰色の存在がツキノの心情を汲み取ったからかもしれない。


「私たち三人なら、どんなことでも乗り越えられるはずです! 今までだってそうでしたし、それに何より……兄さんが……」

「俺がどうかしたのか?」


 縁に掛けた右手の力だけでひょいと屋根に上がり現れたのは、彼女たちの兄であり、この屋敷の主でもあるロウだった。

 想定外の人物の登場によって、ツキノたちの会合はここでいったん切り上げる他なく、三人が互いに頷き合う。


「え、えぇ、そうです。兄さんの話をしてたんです。ここのところ兄さんは、私たちの訓練に付き合ってくれるだけでなく、各所を飛びまわっているようですので、体調をくずしていないかなぁとか!」

「お兄さんはちょ~っと目を離すと、無理をし過ぎるから心配かな」

「そうです、たまには休むことも大切だって言ったのはお兄ぃっすよ!」

「え? あ、あぁ……悪い」


 急に三人に説教じみたことを言われ、上手く言葉を返せなかったロウは、そのまま流される形でゆっくりと休息をとるのであった。

 



 …………

 ……




 外界に於ける絶対中立地域レイオルデンにある女神の居城、虹の塔(イリスコート)

 その一室では各国の神々が神妙な面持ちで、今年に入って何度目かになる会議を開いていた。今回の会議も各国の魔憑部隊の現状報告と降魔の細かな動向などの情報交換が主であり、それらはこの先に控える重要な作戦を完遂させるためのものに他ならない。決して失敗の許されない、世界の命運を懸けた作戦だからだ。

 しかし、それが一通り終われば、息の詰まるような空気も弛緩したものとなる。


「ほなお疲れさん。堅っ苦しいのはここまでにして、お茶にしよか」

「失礼しますよっと」


 この地、この塔内に於いての絶対存在である審秤神サラ・テミスの言葉によって、会議の重苦しい空気は一掃され、代わりに白衣を羽織った男が気持ちの落ち着く紅茶の香りと共に部屋に入ってきた。


「今日は有名なスイーツ店の多い冥国の番ですからね。楽しみです」


 先程までは会議を円滑に進めていた星神ステラ・アストライアも、このときを待っていましたと言わんばかりに街娘のような笑みを浮かべている。


「期待に沿えるかはわかりませんが、今日は冥国でここのところ人気のあるらしいお菓子を持ってきました。お二人も遠慮せずに召し上がってください」


 冥神アルバ・ハデスが収納石から取り出したのは、鮮やかな色をした紙で包装された手のひら大の球体状のものが詰まった長方形の缶だった。

 彼が幾つかあるうちの一つを手に取りその包装紙を剥がすと、光沢のある濃茶色の物体が現れ、嗅いだことのある甘い匂いが漂ってくる


「う、うむ」

「……あぁ、頂こう」


 この匂いだけでも、いつもどこか気怠げに見える天神ブフェーラ・ゼウスと、動揺することなど殆どない陽神イグニス・アポロンは一歩引いてしまいそうになるが、自身の座っている椅子の大きな背もたれに阻まれてしまう。

 決して甘い物が嫌いというわけではないのだが、アルバがわざわざ二人に対して声を掛けたのを察するに、程好い甘さというわけでもなさそうだ。


「ふむ。これはチョコレートか」


 言って、手に取った球体を興味深く観察する海神ヴィアベル・ポセイドン。

 本人は無意識なのだろうが、触れたことによって少し溶けて指に付いたチョコレートを舐めとった後の表情は、無邪気な少女のそれに見えた。


「今日もアルコールの匂いは無し、と。先生は悲しい……とほほ」


 紅茶を全員に配り終えた救医神コル・アスクレピオスは、健康的すぎるお茶会に僅かながら落胆しているようだ。

 各国が順々に茶会の品を持ち寄るようになって、今回の冥国こそが彼の本命であり、酒の入った大人な甘菓子などを期待してのだから無理もない。


「ん~、見た目は普通やね。けど人気があるいうことは、味かまた別のなんかがあるんやろうなぁ」


 そんなサラの発言の内容に対し、無粋な発言(余計なツッコミ)をするは者はいない。

 光を失っているはずの瞳でありながら、それを感じさせない彼女にも慣れたものだが、何が彼女の機嫌を損ねる切っ掛けになるのかは今ひとつ掴めずにいる。

 茶会の席とはいえ、ここは彼女にとっての絶対領域。

 つまるところ、神とはいえ五体満足で自国に帰りたいのだ。

 そんな中、そういった余計な思考を持ち合わせていない者が約一名。


「それではいただくのじゃ。はぐっ……もひもひ……おいひいのひゃ!」


 見た目相応に愛らしく甘い菓子を齧る地神ミコト・デメテルは、一口かじったチョコレートを頬に溜めたまま味の感想を述べる。


「ふふっ、よかったですね」


 そう微笑みながもステラはすかさず、円卓(テーブル)に零れ落ちないよう、ミコトの衣服が汚れないように、手拭(ハンカチ)を手にしたまま彼女の傍で待機していた。

 そして、その間にも他の神々が甘い球体に口をつけると、素直に味や香りを楽しむ者、予想より甘くなかったことに安堵する者、表情を変えない者とその反応は様々で、中には――


()てぇっ! これ(ほれ)(ひし)でも入っへるんひゃないのか!?」


 大きな口を開けて一口で口に含んでしまった為、もごもごと口内で一人格闘を繰り広げるおじさん。


「いえいえ。その食べ方は僕にも予想外でしたが、それは石ではないですよ、先生。皆さんもチョコレートの中に埋まっているものをよく見てください」


 突然の大声に驚く一同であったが、アルバの言葉に促されて各人が手元にある欠けた球体に視線を向けると、そこには確かに何かが埋もれていた。

 蛇のようなものであったり、獅子の頭、小鳥と、それぞれに違うものが見られる。


「我に蛇を食させてどうするつもりなのだ、貴殿は」

「これは獅子、か……」

「余は花なのじゃ。なんの花かはよくわからぬが」

「私のは……犬? でしょうか」

「………鳥か」


 自身の手元から出てきた物と他者の物を見比べてみたり、他にはどのようなものが入っているのだろうという好奇心を誘うという発想のもとに作られていることで、雪と氷に包まれた国では大変人気があるようだ。

 当然、味においても拘っており、見た目ほど甘すぎないことによって、幅広い層からその存在が知られている。


「ん~、うちのはうさぎやろか。面白い細工やねぇ。今度、エウメニデス(あの子ら)にも持って来てもらお。なんていうお菓子なん?」

「喜んでもらえて何よりです。ご贔屓にしていただけると幸いですねぇ」


 この菓子の存在を教えてくれた妖艶な女性と、その後の情報収集(リサーチ)に貢献してくれた仲の悪い(仲の良い)二人から得た情報、たとえば現在確認されている中身が数十種類あること等を披露したかったアルバであったが、こうも急かされては止む無しといったところか。

 塔の女神様は、そういったものに興味はないらしい。


「で、このチョコレート菓子はですね――」



 …………

 ……



 会議を行っていた部屋と違い、塔の外へと続く通路に紅茶やチョコレートの甘い香りは一切なく、少し静かで冷たい空気を感じるだけだ。

 その一本道のようなところを規則的な固い音を鳴らしながら、真っ直ぐに前を向いて進んでいくのは、両側頭部に艶めく髪を輪環状に結わえた少女だった。

 神殺しを生み出した月国フェガリアルの女神アルテミス。


 これまでの長き年月の中、お世辞にも良い印象の無かった月国ではあったが、近年はその存在が世界にとって大きな役目を果たし、それに加えてアルテミス自身の様々な実績により、月国の民の生活の質は良いものに変わってきていた。

 しかし、それだけの良い事があってもなお、アルテミスの胸中にある暗闇が晴れることはく、苛立ちは日に日に増している。


 それは後悔。

 遠い日に込められた想いへの嘆き。


 それは後悔。

 個人の感情ではなく女神としての選択。


 それは後悔。

 素直さと感傷の葛藤による羨望の叫び。


 会議が終わるや否や、コルと入れ替わるように退出した彼女のことを、他国の神々や偉大なる二神が連れ戻しに来ることは無く、声を掛ける者も誰一人としていないはずだった。

 だが、横に続く通路を横切ると同時に届く声。


「相変わらずお早いお帰りだねぇ。至急の案件でもあるのかい?」


 外界の七国において、その国を治める神とほぼ同格として扱われる七人の強者、七深裂の花冠(セブンスクライム)。その者たちを取りまとめ、神魔総位(ネメシスランキング)第一位の座に不動として就く彼女こそがメリュジーナ・イラだ。


「そんなのじゃないわよ。今日も相変わらずだっただけ」

「はぁ~。たまには騒がしくお茶会を楽しんでもいいと、あたいは思うけどね」


 誰よりもアルテミスの傍に寄り添い、互いの置かれている立場などを気にした様子もなく言葉を掛け、気に掛けるその姿は姉のようにも見える。

 その気風の良さから、各方面からは姐御と慕われていたりもするのだが、彼女にとって地位や周囲からの評価など、別にどうでもいいものだった。


「…………ふん」

「やれやれ……」


 アルテミスが鼻を鳴らし、無言のまま再び通路に音を響かせて歩み出すと、それに遅れることなくメリュジーナは追随する。

 それを見た者は漠然と主従の正しい立ち位置だと思うのだろうが、実際には異なり、メリュジーナがアルテミスを見守るための丁度良い距離なのだ。

 だが、普段のそれすらも今日に限っては違っていたらしく、塔から出る為の扉が見えてきたところで、不意にアルテミスは足を止めた。そして――


「どうしたんだい、急に立ち止まって。お茶会に戻る気にでもなっ――」

「どうしてなのよ! どうしてみんなあの男の話ばかりするのよ! 英雄がなにっ! 救世主がなにっ!?」


 メリジューナの方へ振り返ったアルテミスの口から飛び出してきたのは、何かを糾弾するかのような数々の言葉。

 突然のことに面食らい、思考が追い付かなかったメリュジーナではあったが、それと同時にその時(・・・)が訪れたのだということを実感していた。

 彼女は視線をアルテミスから逸らすことなく、全てを受け止める決心を改めて持ち、まだ暫く続くであろう言葉を待つ。


「あの男はこの国の為、未来を諦めた人のために剣を奮った! 虐げられる者がいれば我が身を顧みずに駆け付けた! でも……っ、でも! 罪人なのよ、あいつは!」

「…………」

「わかってるわ……これが只の私の癇癪で、私個人の問題だって事くらい! それでも、私は許せないのよ! ただ救う事しか考えてないあの男がっ! あの男が諦めることをただ望んでいただけの私がっ!」


 静かで冷たさを感じるだけだった通路の一角では大きな声が響き渡り、その声の主であるアルテミスと言葉を受け止めたメリュジーナは確かな熱量を感じていた。


「あの人の貫こうとしているものは、他の誰にも真似なんてできない……それと同じくらい、あいつの全てを理解して傍に居られる人なんて……いないのよ」

「アルテミス……」


 女神ではなく、一人の少女としての言葉を次々と吐き出す彼女の姿を目の当たりにしたメリュジーナは、これまで自分が思っていた以上に、小さな少女がこの瞬間までそのことに耐え続けてきたことを知る。

 しかし、メリュジーナは全てを受け止めた上で、それでもアルテミスにとっての厳しい言葉を届けなくてはならなかった。

 それは誰かに言われたからではなく、来るべき時の為でもなく、損得を完全に思考の彼方に吹き飛ばしたアルテミスの……いや、一人の少女の理解者であり、彼女の姉貴分としての想いがあるからだ。


「そんなことも知らずに、考えずに! 他の神々はこの計画を成功させることを第一に考えている!」

「…………」

「それは確かに必要なことだと思うわ! でも、だからって、本当にこれが正しいことなの!? 罪人に縋ることが――」

「そこまでだ、アルテミス。それ以上のことは、今のお前さんに言っていい資格は何処にもないよ」


 アルテミスから漂っていた熱量を完全に打ち消してしまいそうなほどの冷え切った言葉が、メリュジーナの口から静かに放たれた。

 それを耳にしたアルテミスは、これまで自分の事を見守っていてくれていた者からの発言に頭の中が真っ白になり、自分がどのような言葉を発しようとしていたのかさえ忘れていた。


「お前さんだっていろいろ抱えて、考えて、苦しんでることもあたいはよく知ってるさ。だから、癇癪を起して喚き散らすのは別にいいよ。それで本当に、お前さんの気持ちが少しでも楽になるならね」


 その言葉の一つ一つが、少しづつアルテミスを追い込んでいく。

 わかっているのだ。メリュジーナが自分の気持ちを理解してくれている事を。 喚き散らしても怒ることなく、耳を傾け受け止めてくれる事を。

 だが、それで気持ちが楽になることはなく、メリュジーナが何に怒りを感じているのかも。


「でもね、少なくとも他の神々は向き合った。不甲斐なさや後悔と。これまでの自分を否定してしまうから、決して認めたくはないはずの、自分の気持ちに」


 それ以上は聞きたくないと思っていても、アルテミスの体は氷漬けにされたように動かなくなり、視線もメリュジーナから離せないでいる。逸らしてしまえば、五体満足ではいられないと想像してしまうほどの静かな迫力がそこにはあった。

 それが世界第一位たる貫禄であり、七深裂の花冠(セブンスクライム)が一片としての本来ある彼女の姿なのだろう。だだ……


「だからね、自分の根っこにある想いを隠したままで周りの事を糾して……その想いを相手に気付いて欲しいだなんてのは、ただの我儘なんだよ。強欲や傲慢になんて到底なり得ないちっぽけなもんさ!」

「ちっぽけとは何よ! 私がどれだけ……どれだけ振り回されて生きてきたか知らないわけじゃないでしょう!?」


 これほどまでに一方的に言われて黙っていられるほど、アルテミスという少女も慎ましく大人しい性格ではないのだ。

 感情任せの討論ではない言葉の応酬を、目の前に立ちはだかる強者(かべ)にぶつけていく。


「知ってるに決まってるだろう! でもそれを言ったらね、それ以上にクロリコやあたいたちがお前さんの偏屈さに振り回されてるって話さ!」


 だが、それはメリュジーナも同じだった。普段は飄々とし達観したような存在に見せてはいるが、元来の性格は拳で語ることを是とする精神論者なのだから。


「なっ!? 貴方ねぇ!」

「ふん、否定できるものなら否定してみな」

「確かに迷惑をかけてるのは自覚してるけど、私だって他の神々と同じように向き合ったじゃない! だからこうして会議にだって――」

「同じだって? 笑わせてくれるじゃないか。お前さんは向き合いたくない現実から逃れるために、少しましな現実と向き合っただけだ。そうだろ?」

「っ、うるさい! 私は女神として、向き合わなければならない現実を選んだの! 必要なのは、過去じゃなくて未来と向き合うことでしょ!? 貴女の言ってる現実は、もう向き合う必要なんてない終わったものなのよ!」

「だったらここで宣言してみな! この先なにがあっても、生きる(・・・)って!」 

「――ッ!?」


 メリュジーナの止めの言葉で、アルテミスは険しい表情のまま口を噤んだ。

 怒っているのか泣いているのか分からない表情を浮かべつつ、メリュジーナを睨み付ける。

 そして、アルテミスは一粒の雫を虚空へ残しながら扉の方へと走っていき、そのままメリュジーナの視界から消え去った。


「ったく……本当に似た者同士だね。振り回されるこっちの身にもなって欲しいもんさ」


 そう小さくぼやきながら、メリュジーナは通路の壁に背中を預けた。

 そして腕を組み、瞼を下ろしながら彼に語りかける。


「これで立ち上がってくれたらいいんだけどね。本当の意味でさ」

「そればっかりは嬢ちゃんを信じるしかないだろうよ。すまんな、あんたにこんなことさせちまってよ」


 そう言いながら時機を見計らい姿を現し、向かいの壁に背中を預けたのは、この茶番ともいえる展開を仕込んだ張本人であるコルだった。


「少しでもそう思ってるなら、別の方法を考えてくれても良かったんじゃないかい、先生?」

「嬢ちゃんがああなってちまった原因を作った無力なおじさんには、こんなことしか思いつかなかったのさ」

「まぁ先生に言われなくても、こうなっていただろうけどね」


 彼は長い間、医神として色々な無茶をし尽くすロウの事を気にかけていたのだが、それと同じくらいにアルテミスの事も気にかけていた。

 そして、女神としての振る舞いに専念し続けたアルテミスの溜まったものが限界に達することを懸念していたコルやメリュジーナたちにとって、これは少女を固く縛りつける鎖から解き放つために必要なことだったのだ。

 少女の後悔を知る者として、少女にこれ以上の後悔をさせないために。


「あとはこれだな。心の扉を開くための大切な鍵だ」

「確かに受け取ったよ」


 コルが手渡したのは、一つの箱だった。

 闘技祭典の後にサラがある者から回収していたそれは、彼に関わる者たちにとっての様々な鍵を内包した宝物庫のようなものでもある。それはつまり、


「でも、本当にいいのか? それを使うってことは、裏切るってことだ」

「先生……救医神の名を持つ先生は、感情を失った子供を治せるかい?」

「いや、俺が治せるのは体の傷だけだ。命に瀕していても、どんな傷でも外傷なら救ってみせるが、心の傷だけは治せない……そんな、不甲斐ないおじさんさ」

「でも、あの御方はくれたんだ……あたいに、感情を」


 言って、メリュジーナは手にした小箱に視線を落とした。


「だから、あの御方はそれを失った。だから、あたいはあの子を大切に思えた。だから、あの御方の分まであの子を愛したいのさ」


 そして、小箱の底を横に動かし、中にある写真のうち一枚を手に取った。


「あの御方は教えてくれた。楽しさや喜び、幸せを。それと同時に、あたいは自分が許せなかった。あたいが感情を得た分、あの子にとってのすべてを奪っちまったあたい自身が」

「…………」

「だからさ、先生。あの御方とあの子のために、あたいは大切な二人の想いを裏切るよ」

 

 この差し迫った時期だからこその強行手段。それは全てを為しえた後に、一切の後悔をしないようにするための唯一の打算的な行動。

 これから何が起こり、どのような結末に至れるのかは未だに未知数。

 だからこそ、打てる手は打ち尽くし、思考と行動を止めることなく、着実に破滅が近づきつつある日々を生きている。

 こんな不条理に囲われた世界で見つけた想いを無為に散らせないためにも。

 己の信じる者が信じた世界を散らせないためにも。

 彼女たちは其の身に宿った力を奮い続ける。


 たとえそれが、禁忌に触れることになったとしても。

 その身がたとえ、人ではなくなってしまうのだとしても。

 いずれそのときが訪れたら……


「しっかし……このまま月国に戻るのは、ちょいとばかし気まずいもんだね」


 彼女たちは一切の迷い無く、この魂の深淵を覗くだろう。



 …………

 ……



 一方、会議を行っていた部屋まで届いた声を聞いた神々は、口内に広がっていた甘さが消え、むしろ僅かな苦味を感じていた。


「本当に正しいことなの、か」

「……確かに、正しくはないのだろうな」

「ですが、間違っているわけでもない」

「もとより正解のない選択です。正しい選択があれば、誰だって……」

「我らの……いや、私のしてきた言動を振り返れば、とても月神殿に物言える立場ではないが……」

「うむ。そういうのは、余らに直接ぶつけて欲しいのじゃ……」


 この場に残る六神の……いや、六人の表情を、サラは何度も視たことがある。

 そいうときは、たいてい彼がいれば解決したものだ。

 彼がいれば、自然と俯いていた顔が上がり、立ち止まっていた足が動き出す。

 どんなことがあっても、前を往く彼の存在が闇に灯る光だった。

 だがこればかりは、彼を頼ることはできないことだ。

 彼の光があまりにも眩しく、彼に縋るしかないからこそ……


(すべて上手くいけば、そのときはきっとみんな笑ってられる。最悪ここで失敗しても、あと一回チャンスはある。逆にいえば、あと一回しかチャンスは残されてないってことやけど……やからこそ、絶対に見極めなあかん)


 そう自分に言い聞かせ、サラはいつもと変わらぬ声音を響かせた。


「落ち込んでる暇なんてあらへんよ。正しい選択がなくても、選んだ道で最善を尽くすしかないんやからね。せやから今は、この甘いお菓子でしっかりと心を癒やしとき。自国に戻って、そんなみっともない姿晒されへんねやから」


 今度こそ、絶対に見極めなければならないのだ。

 絶対的存在であるサラ・テミスの認める規格外な存在。

 そんな男を落とせるほどの、あの敵の正体を。




 …………

 ……




 視界の端から届いていた茜色は完全にその光源を失くし、薄雲の広がる空の群青は徐々にその濃さを深めていく。

 屋敷の屋根から見渡す街の景色の中では、人々の生活を照らす幾つもの明かりが優しく広がっていた。


「そういえば、こうやって四人でゆっくりと過ごすのも久しぶりですね」


 ロウの右腕を抱き寄せたまま、ツキノがぽつりと呟いた。

 シラユキはロウの左側に寄り添い、モミジはロウの背中に自身の背中を合わせ、もたれかかっている。


「そのせいで、妹力(まりょく)不足かな」

「最近は色々と忙しいっすからね」


 ツキノの呟きに続いて、シラユキとモミジもそれぞれ感傷に浸っているかのように言葉を漏らしながら、これまでの思い出を振り返っていた。

 兄と慕うロウとの別れと再会、それに伴う様々な人たちとの交流と騒動の数々。

 魔憑としての人生からするとそれほど長い年月ではないが、簡単には語りつくせないほどの思い出があった。


「で、でも、それが不満だとかそういうのではないんですよ? 本当です」

「そうっすね。地獄の特訓(トレーニング)はかなりきついっすけど」

「いつまでも、ただの妹でいることに甘えてもいられないかな。なにせボクたちは、お兄さんの妹なんだから」


 いつもの三人らしい空気感でありながらも、彼女たちは妹としての意地と強がりを隠そうとはしない。

 日に日に増える痣や擦り傷。時には食事も碌に摂らずに寝台(ベッド)へ向かい、朝日が昇るまで起きてこない事も少なくはなかった。

 いったい何が、ここまでツキノたちを突き動かすのか。

 それはやはり、(ロウ)の存在が大きく、大前提であるのは確かだ。

 しかし、何もそれだけではない事を、当の本人たちはよく理解している。


「そうか、なら俺も兄として格好悪いところは見せられないな」


 ロウとの再会のきっかけとなり、兄の事を理解している少女――シンカ。

 高潔さと穏やかさを持ち合わせる彼女の姿に魅せられ、三人は自分たちも更なる高みを目指そうと強く決心したのだ。

 兄の隣に並ぶために――彼の腕となるために。


「はい! そのときは、是非私たちの目の前で格好よく決めてください!」

「だね……よし、記録石の貯蔵は充分かな」

「えっ、さすがに準備が早くないっすか?」

 

 それはロウにとって、心安らぐひとときだった。

 こういった何気ない会話や日々が、ロウに勇気を与えてくれた。

 忘れたくない、失いたくないからこそ、戦う力を与えてくれた。

 永遠に続くことはないと知っているからこそ、永遠にしたいと思えた。


(何も心配するな。お前たちが苦しむ必要はない。俺が全部終わらせて、必ず日常を取り戻す。俺は……お前たちの兄だからな)

 

 その後、時間が経つのも忘れて他愛ない話をいくつかしていると、下方から四人を呼ぶ声が聞こえてきた。


「み、みなさ~ん」


 普段は控えめで穏やかな性格をしており、その姿や行動が小動物を思わせるのも相まって、性別問わず庇護欲を掻き立てられるような優しき少女。

 しかし、窮地に立たされたときの胆力や意志は、あの姉に匹敵しているといっても過言ではないだろう。やはり、姉妹とは似るものなのだろうか。

 そんな、ブリジットやフォルティス、ロザリーから特に一目置かれている少女は、この屋敷のお母さんに頼まれてツキノたちを呼びに来ていた。


「は、早くしないと、夕食が冷めてしまいますよ~! あとブリジットさんが、すぐに来ないとデザートはなしだって言ってましたよ~!」


 慌ただしい毎日の中での数少ない楽しみを失くすわけにいかないツキノたち三人は、呼びに来てくれた少女に慌てながら言葉を返した。


「ブリジットにすぐに行くからって伝えてくださ~い」

「昨日は食べ損ねたから、今日は食べたいって伝えて欲しいっす」

「お兄さんも一緒に行くって伝えてほしいかな~」


 すると、次にロウのことも探しに行こうとしていた少女が言葉を返す。


「ロ、ロウさんもそこにいるんですか? お姉ちゃんが探してましたよ~!」


 おそらく、また訓練に付き合って欲しいといった類の内容であると察したロウは、僅かに苦笑しながら屋根から顔を覗かせた。

 別に約束していたわけではないのだが、夕食前の空いた時間はたいていシンカに付き合っているため、きっと今日もそのつもりだったのだろう。


「先に行って、食後に時間を取ると伝えておいてくれ」

「わかりました」


 そう言って笑顔を向けてくれた少女へと、ロウも優しく微笑み返す。


「ありがとう――カグラ(・・・)




 …………

 ……




 黒天に浮かぶ美しい金色の月を見上げる者がいた。

 こういしている間にも、歯車は正常な時を刻み続けている。

 一秒も早まることなく、一秒も遅れることなく、そのときは訪れる。

 一節の猶予もなく、残すところ後一ヶ月。

 それが、この世界の行く末が決定づけられるまでの制限時間(タイムリミット)


「命や幸福な時に永遠はない。最後に待っているのは、いつも絶望という闇だ」


 故にそう……より一層に美しく、そして尊く感じるのだろう。

 いずれ終わると知っているからこそ。

 いずれ失ってしまうと理解(わか)っているからこそ。

 本来誰もが得ることができたはずの、何気ない当たり前のこの日々を。


「だからこそ、俺が視る未来の景色は一つだけ……」


 自分の物語の結末が酷く醜く、穢れたものであるのは認めよう。

 自分の物語の題目が後悔に塗れ、積み重なった罪であることも認めよう。

 自分の灯火の行く末が、地獄であることは受け入れよう。だが――


「この世界の結末は、まだ誰の手にも渡ってはいない」


 世界の物語の結末……最後の(ページ)を綴るのは……


 否、その(ページ)を終わりにしない、その為に――


「それを手にすることができたなら、きっと俺は笑って逝ける」


 一際強い風が吹くと同時に、男は袖を靡かせながら身を翻した。

 そして、彼の背後に控えていた七人へと声を掛ける。


「泣こうが喚こうが、これが正真正銘最後の挑戦(・・・・・)だ。だからせめて、残りあと僅かな時間だけでも後悔の無いように生きよう」


 たとえこの身が地獄に墜ちても、心に咲いた温かな花の名を忘れないように。

 


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