33.満ち欠ける希望は徒の夢
海上に咲く一輪。
煌めく日差しを感じながら、一時の休息を仲間と共に。
漆黒に咲く火花の煌びやかさは、それ以上の儚さを感じさせる。
”本当に綺麗ですね……また、来年も来たいっす”
夜天に浮かぶ月輪。
叢雲から零れる冷たき光は、優しく温かな木漏れ日にも思えた。
その光は世界の標となり、闇の中へと消えていく。
”兄さん……これからも、私たちを見守っていて下さいね”
闘争は形を変えて。
剣を置いて、己が能力を存分に奮うのは遠い過去。
彼らの戦場が変わることは無いが、変わる日が来ることを信じて。
”次はお兄さんと出場してみたいかな”
そうした微睡みの中で見た光景はあまりにも眩しすぎて、現実との落差にその心が耐えきれなかったのだろう。
地面よりも高く空に近い場所で、少女たちの頬を小さな雫が伝い落ちた。
きっと目覚めても、自身の頬に残る乾いた水跡の意味を知ることはない。
ただ何かが欠け落ちたような虚無感に苛まれ、悲しい気持ちになるだけだ。
何故ならそれは、誰の心にも在りながら、誰の記憶にも無いものだから。
それは忘却の彼方に在る、泡沫の夢物語。
…………
……
…………――――――――――
静かなる夜。
期待に胸を躍らせ眠りにつく者たち。
朝日と共に祝福を手にすると、各所から歓喜の声が聞こえてくる。
”そうね。期待していなかったと言えば、嘘になるわね”
節目の境界線。
古き汚れを落とし、新たなる時代を迎える世界。
劇的な変化があるわけでもないのに、何処か違って見えてくる。
”皆が前に向かって歩んでいく。だから、私も……”
鬼の善行。
今に伝わる習わしは、古の功績を讃える為に。
善なるものと悪なるものの違い、その全てを知るものはいない。
”手を取り合うことの難しさを知っているからこそ、願ってしまう”
想いの行方。
情愛、敬愛、形は違えど、日々の感謝を形にして。
戦禍に向かう者たちは、秘めたる想いの為に戦い続ける。
”慣れないことはするものじゃないわね。でも……気が向いたら、また……”
雅に気高く。
祝詞に送られ行く行進は、破魔の役目を背負いし者たち。
華の香り、果実の香りを届ける風が、無双の旗を靡かせる。
”私ももっと強くなれたら……”
紳士は真摯に。
返礼の心、受けた想いに感謝を示す。
たとえそれが、儚く無意味なものになるのだとしても。
”本当に何を考えてるのか解らないわね。……こっちの気も知らないで”
虚偽と真実。
真実が残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。
だが、この世界が残酷で優しくないのなら、すでにそれは真実なのか。
”嘘を吐いた少女の死は、嘘か真か……ね”
開花する七華と盟友。
見上げるもの、見下ろすもの、両者が向き合う時間は長くはない。
世界の変化に流されることなく、今宵もまた咲き誇る。
”七深裂の花が開くのは、やっぱりそこなのね。本当は……私も……”
…………――――――――――
遠くの空が白んできたころ、月国フェガリアルにある国の中心部たる月光殿では、眠りから覚めた一人の少女が妙な胸のざわつきを感じていた。
連日の多忙さに加え、日を追うごとに増えていく懸念事項と疑念は留まることを知らず、未熟な彼女の心に不安ばかりを募らせていく。
それはまだ、神位を継いだばかりの彼女自身、未熟だと感じている焦燥からくるものなのかもしれない。
先代を失ってから早二年と半年ばかり。本来であればすぐに立ち上がらなければならなかったものの、彼女は自分という存在を受け入れることができなかった。
先代の後を継いで何を成せるというのだろうか。
いや、何を成そうというのだろうか。
偽りの命……自分が生きているせいで、この世界が滅びに向かっているというのに、どのような顔をして民の前にこの顔を晒せばいいというのか。
そんなとき、彼女の心が動かされたのは、ひとりの来訪者によるものだった。
その名をステラ・アストライア。現在、星の女神の名を有する者だ。
それまで一度も話したことのなかった少女。
彼女は自分に似ても似つかぬほど……と、比べることすら烏滸がましいか。
心に決して折れぬ一本の槍を持ち、自ら信じた正義の為に邁進し、仲間を想う優しき意思と、悪を許さぬ強さ、民に寄り添う温かな心を持ち合わせた女神だ。
対して自分は漫然と日々を送るばかり。
贖えない罪を背負った命を自らの手で吹き消すこともできず、死を望みながら、大切な人を憎み続けることしかできない弱さ。
だが、世界にとってまさに綺羅星たるかの女神は、神が不在であったこの国に訪れると、こう言ったのだ。――自分たちは似た者同士だ、と。
例えば試験で百点を採れる者が、赤点の者にそう言ったらどう思うだろう。
例えば笑顔を絶やさぬ人気者に、引きこもりの者がそう言われたらどうだ。
例えば大会で優勝した強者から、喧嘩で一度も勝てたことのない者がそんな言葉を掛けられたらどう感じる。
あまりにも惨めだ。羞恥や怒りが入り混じり、情けなさや憎しみすら生まれるかもしれない。
しかし、不思議なことに……そう、今思い返してもどうしてそう感じたのか少女自身にもわからないのだが、そういった感情は生まれなかった。
ただ、思ったのだ。
貴女の力が必要だと言ってくれた彼女に、いつかの借りを返さなければ……いつかの御礼をしなければならない、と。
初めて出会ったはずの、他国の女神に対してだ。
そうして、この国の玉座についたのが今年の初め頃だった。
(でも、今になっていったい何ができるのかしらね)
寝台で横になりながら薄く瞼を持ち上げ、何もない天井を見上げながら少女は思う。
昨年は本当にいろいろなことがあった。
ルインとの戦いや、危険種との戦い。そして、カオスへの侵攻。
多くのものを犠牲にし、幾多の想いが交じり会い、何かを失い何かを守り、大切な人が傷ついていく最中、自分は何もしなかった。
立ち上がるべきときに立ち上がれなかった……立ち上がらなかった自分に、いまさら何ができるのかはわからない。
どうして怒濤の昨年ではなく、ある程度世界が落ち着いた今年になって、ステラが尋ねてきたのかもわからない。
だがおそらく、少し落ち着いた今だからこそ、不甲斐ない自分に立ち上がる機会を与えるには塩梅が良かったのだろう。
「あんな夢を見るくらいだものね」
そう呟いた月の女神アルテミスはおもむろに寝台から身体を起こすと、窓の向こうに見える未だ薄暗さを残す景色をぼんやりと眺めた。
「夢なんて長らく見ていなかったのに……慣れないことばかりしていたせいかしら」
彼女は昨日、あまりの多忙さを見かねた優秀な亜人の臣下たちによって、緊急性の高くない案件から遠ざけられてしまっていた。
話し合いが必要なことに関しても緊急性の低いものはあと回し、ないしは臣下たちの方で引き受ける事になり、故にその後、執務室に籠っていたアルテミスはすることが無くなり手持ち無沙汰となってしまったのだ。
ついこの間まで怠惰だったにも関わらず、いつの間にか周囲に心配されるくらいに多忙になる未来など、以前はまったく想像もしていなかった。
「でも、あの子たちはずっと不満の一つも零さずに、全部肩代わりしてくれていたのよね」
今は亡き先代に変わって、この国を支え続けてくれていた臣下たちのことを思えば、この程度で泣き言など零していられないのだが、まだ慣れない事務作業から解放された事実に張りつめていた意識が僅かに緩むと、すぐに疲労感と眠気が彼女に襲い掛かった。
そして、急に重く感じるようになった身体を事務机から引き離し、毎日丁寧に整えられている寝台に倒れこむと、彼女の意識は深いところまであっという間に沈んでしまい、今に至るというわけだ。
(夢の中の私はそれなりだった気もするけど……はぁ、どうせ夢ならもっとできる私にしてほしかったわ。って、それじゃ余計にへこむだけかも)
夢の中の自分と現実の自分との違いに、少女はげんなりとした表情を浮かべた。
「それにしても、妙に生々しかった気もするのよね。内容自体は支離滅裂で有り得ないものだったけど」
彼女が断片的に思い出せるのは、見知った土地での知らない記憶。
その夢の中で共に過ごしていたのは、現実でも近しい存在であるメリュジーナをはじめとした信頼できる者たちだった。
とても永い夢だった気もするが、特殊な体質でもない限り、夢の内容をすべて完璧に覚えていることなどできるはずもなく、思い出せるのは僅かな光景だ。
在るはずのない日常……何気ない日々や、特別な行事を実際に体験してきたかのように思えるのは、果たして気のせいなのだろうか。
そう考えてしまう時点で、すでに自分は真面じゃないのだと少女は思う。
「……なに寝ぼけてるのよ、私は」
自分の為の幻想を見ても、自分の為の理想を口にすることは許されない。
いつまでも夢見る少女ではいられないのだ。
幻想を理想として語る夢のすべては、叶えられる現実的なものだけで十分。
自身の為ではなく、世界の、民の為に歩まなくてはならない。
故に、見てしまった幸せな日常が織り成す昨夜の夢は、この先も起こり得ない非日常的な泡沫でしかなく、過去に在ったはずもないただの虚構だ。
そのはずなのに……
”だ――ね、いいんじ――いか? 女――夢――たってさ”
はっきりとは思い出せない夢の記憶。
だが、ずっと傍にいてくれた彼女は、一度もそんなことを口にはしていない。
”叶――いから夢――じゃない。叶えた――とが夢――だ”
思い出せないはずなのに、何を言っているのか薄らとわかる。
だが、ずっと支えてくれていた彼女と、そんな話はしたことがないはずだ。
”気の遠――るほど遠――ある夢――て、確か――こに在る――よ。夢は決――逃げ――しない。逃――のは、いつ――て目を背――諦めち――た自分自身だ”
それなのに、こうも胸の奥を熱くさせるのはいったい何故なのだろう。
実際に彼女と……メリュジーナと――
「駄目ね、私。曖昧な感情に振り回されてばかりだわ」
瞳を閉じて軽く頭を振りながら、少女は小さく嘆息した。
そして薄らと瞼を持ち上げ、
「でも、もしも……本当に夢の出来事が実際に起きたなら……私は……」
――もしも。
それは、誰もが不意に口にしてしまう起こり得なかった可能性の話だ。
あのときこうしていたらと、一度もそう思わずに生涯を終える者はいないだろう。
変えることのできない既存の事実が過去であり、その事実が異なる先の未来など、誰にもわからない未知の事象。
死をなかったことにはできない。罪を消すことはできない。
それどころか、ほんの些細なことでさえ、選び直すことなどできはしない。
だが、それでも――
もしも、あの時声をかけていたのなら。
もしも、あの日遅れていなかったなら。
もしも、あの人の一番傍に居れたなら。
それは実際のところ可能性ではなく、都合のいい只の願望に過ぎない。
もしもを仮定し、想定して結果を想像したところで、それが絶対的な解となることを誰も証明することができないのだから。
それに加え、もしもという事象を起こすこと自体がどう考えても常識的に、現実問題として不可能だ。
いくら考えてもそこに意味はなく、虚しさが募るばかりだというのに、そしてそれを少女自身が一番理解しているのいうのに、それでも夢の記憶を辿ってしまう。
何故ならそれは、そこに妙な違和感を抱いたからに他ならない。
だが、いくら夢の内容を覚えている限り辿ってみても、それが何であるのかを上手く自分の中で整理出来ずにいる。
そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。
寝台に腰掛けたままで思案していると、小気味良い扉を叩く音が部屋に響いた。
「おや、随分と早いお目覚めじゃないか」
「メリー、それじゃまるで、私が怠惰な人だって聞こえるんだけど?」
「そんなつもりはないさ。今日は定例会がないのにって話だよ」
眩しい日差しが差し込む部屋へ訪れたのは、七裂の花冠の一片にして、月の女神の保護者のような立場でもあるメリュジーナだった。
「だったらどうしてこんな時間に来たのよ」
「寝顔を見に来ただけだから、そんな訝しげな視線を向けないで欲しいもんだ」
「その手に持っている記録石がなければ、罪に問わずに済んだんだけど?」
「未遂に終わったんだから、別にいいじゃないか」
「だったら私も、死刑未遂で我慢しておいてあげるわ」
「おお恐い。月の女神様の発言とは思えないね」
「……不敬ですよ」
「これは失礼致しました、我が愛しき女神様」
「ぷっ、なによそれ」
陽が昇り始めた時間から来訪したメリュジーナに悪びれた様子はなく、アルテミスも多少の皮肉は口にするものの、それほど機嫌を損ねていないのは、それだけこの二人の信頼関係が良好であると言えよう。
硝子越しに届く、まだ熱を持たない淡い光は、口許に軽く手を当てながら可笑しそうに微笑むアルテミスの長く伸びる髪に当たり、その輪郭を煌めかす。
本人は特に意識していないのだが、そういった無意識の所作の一つ一つが、どこか人を惹きつけるような神秘性が感じられるものだった。
(そうやって微笑む顔は……やっぱり似てるね)
その魅力が女神ゆえに持ったものなのか、あの御方に似ているからなのかは定かではないが、少なくとも前に進もうと顔を上げた彼女の成長を嬉しく思うと同時に、この子を支え続けたいとメリュジーナは思う。
故にメリュジーナにはわかっていた。
立ち上がり前を見て、その一歩を踏み出した少女が次に、いったいどこへ向かおうとするのか。
それが少女の意思ではなくとも、たとえ不本意だとしても、目を反らし、立ち向かいたくはない問題だとしても、少女の中にある無意識に潜む願望が、彼女の本心を淡い光で照らし出すことを。
闇夜に囚われた迷花を、月が優しく照らすように。
なぜなら少女はいまだに黒き月のまま。それは月にかかる叢雲の如し。
自身が闇に囚われたままで、誰かを照らすことなどできるはずがないのだから。
「でも、丁度良かったわ。ねぇ、メリー……もしも、夢の出来事を実際に体験できるとしたらどうする?」
唐突なアルテミスの発言にメリュジーナは言葉を失い、かけられた言葉の意味を理解するのに暫しの時間を要した。そう、振る舞ってみせた。
「ははっ、なんだいなんだい。本当にあんたはあたいの知ってるアルテミスなのかい? そんなにもユーモアのある性格じゃなかっただろうに」
からかうようにメリュジーナが言うと、途端に目を見開いたアルテミスの顔が茹で上がり、小さな口から大きな音が飛びだしてくる。
「な、何よ! 私だって、こういったことを考える時くらいあるわ!」
可笑しそうに笑うメリュジーナに対して、アルテミスはなんとか言葉を並べるものの、その弁明は正しく伝わりそうにもなかった。
その間にも空から届く光は先ほどよりも強くなり、次第に宮殿内にも朝の慌ただしさが広がっていく。
しかし、それを感じることもなく、彼女たちは何とも言えない雰囲気のまま会話を続行させていく。
「それで、どうして急にそんなことを? 何かいい夢でも見たのかい? それとも、善くない夢でも見たのかい?」
「――っ!? べ、別にそれほど大した話じゃないわ。一般論として、夢でみたもの……現実とは違う選択や行動ができるならどうしたいかって話よ。そう、これは巷で話すような他愛のない内容の一つなの。決して、ここ最近見ている夢や、昨日見た夢が気になったとかではないのよ。本当よ?」
「……いや、さすがに下手すぎないかい?」
「本当なの。ほ、本当だからね?」
「あぁ~、わかったわかった。そんなに必死にならなくても、この話はクロリコには内緒にしておくさ、女神様」
メリュジーナのその一言を聞き、小さく息を吐き出し胸をなでおろすアルテミス。
神位を継いでから最も会話が増えたのは、クローフィとリコスの二人だろう。
これまでと違った関係になってみれば、彼女たちへの印象も変わるというものだ。
無表情で口数も少なく、淡々と自身の役目をこなす人形。ずっとそう思っていたのだが、いざ近づいてみると……あぁ、こんな人形があってたまるか。
自身が不甲斐ないせいではあるのだが、小言が多い。
心配してくれているもわかっているが、余計な世話まで焼いてくる。
無表情なくせに感情豊かで、苦悩もあるし悲しみもする。喜びもするし、なにより己の役目に対して、誇りと熱いものを抱えながら戦っている。
それを知ったとき、アルテミスは思った。
立ち上がることも立ち向かうこともなく、すべてが仕方が無いと諦め、どうすることもできないのだと悔いながら、漫然と過ごすだけの無為な日々。
人形は、鳥籠の中で翼をたたんだままの自分だったのだ、と。
それに気付いたことからくる慚愧の念のせいだろうか。
加えて月国という括りに於いての立場を考えると、アルテミスとしては弱い部分をあまり臣下であるクローフィとリコスに知られたくはないのだ。
「ほんとあの二人は小言が多いのよ。私のためだと分かっていてもね」
「でも、それが嬉しいんだろ?」
「どうしてそうなるのよ。別に嬉しくなんてないわ。どうせ、あの人に言われて仕方なく世話を焼いてくれてるんでしょうし」
「……本当にそうかい?」
「な、なによ」
「それだけで、あの二人があそこまで心を開いていると思うのかい?」
「…………わ、悪かったわよ」
成長している部分もあれば、思春期のように可愛らしい一面があるのを知っているのは、ずっと傍に寄り添ってきたメリュジーナくらいだろう。
そんな愛おしい妹のような女神の姿に微笑みを零し、硝子越しに陽の温かさを微かに感じ始めると、メリュジーナはわざとらしく咳払いをして、先程アルテミスの言っていた他愛のない話について答え始めた。
「しかしまぁ、そうだね……結論から言ってしまえば、あたいにもこうあってほしいと思うこと、夢に見るほどの願望っていうものはあるさ」
普段と変わらない表情と口調で、普段は語らない心情を吐露したメリュジーナの姿に、アルテミスは少なからず衝撃を受けた。
なぜなら、今までの人生の殆どを共に過ごして来た彼女は、姉のような存在であるメリュジーナの抱えているものを少しくらいは察しているつもりで、その上でそれらの部分にはずっと触れないようにしてきたからだ。
そして今、メリュジーナがそれを躊躇うことなく口にし、自身の問いかけに付き合ってくれていることに、アルテミスの内には衝撃以上の感謝もあった。
「ただ……そのもしもは、決して不可能な事じゃないのさ。可能性が零じゃない限り、あたいはその夢を追い続けるよ」
「……メリュジーナ、貴女は――」
「失礼致します」
目の前の戦士から向けられた言葉と視線を受けたアルテミスは、その真意を確かめるために口を開き言葉を続けようとするが、扉を叩く音と聞きなれた声によって遮られてしまった。
「お早う御座います、アルテミス様。朝食の準備が出来ておりますので、必要でしたらいつでもお声がけください」
固い音を鳴らしながら姿を見せたのは、澄ました表情でありながら少々機嫌の良くなさそうなクローフィだった。
彼女の発言にすぐさま反応したのは、先ほどまで真剣な表情をしていたメリュジーナだ。いつも通りの快活さと豪快さを混ぜ合わせた姿に戻りながら、クローフィに言葉を返す。
「お前さんにしては珍しく、朝から機嫌が悪そうじゃないか」
「おはよう、クローフィ。何かあったのかしら?」
特に朝が弱いというわけでもないクローフィにしては珍しいと思いながら、アルテミスが問い掛けると、
「ムメイの姿が見当たらないもので……」
「あぁ……そういう」
「こちらにも来てはいないようですね」
「そうだね。今日はまだムメイの姿は見ちゃいないよ」
「……そうでしたか」
二人の言葉を聞いてさらに機嫌が良くない方へ傾いていくクローフィだが、それを表情に出すことなく、自らを落ちつかせるように軽く息を吐くと、丁度良かったと言わんばかりにメリュジーナが彼女へと歩み寄った。
「とりあえず、あたいが食堂に行って手配してくるよ。クローフィも忙しいだろうしね」
「お、押さないでください。それではアルテミス様、失礼致します」
メリュジーナに背を押されながら、アルテミスに言葉をかけるクローフィ。
僅かばかりの気まずさか、それとも先ほど会話も夢だったのか。メリュジーナはいつもの調子、いつもの声音のまま振り返ることなく扉の外へと姿を消した。
「ちょっと、メリュジーナ! 私の話はまだ!」
その言葉を絞り出したところでメリュジーナが引き返して来ることもなく、引き留めようと中途半端に上げられた右腕が、ゆっくりと降ろされる。
通路を行く足音が徐々に小さくなっていく中、すでに柔らかな陽射しが入ってきているというのに、部屋の空気はどこか冷めているようにさえ感じられた。
緩やかな風が窓の硝子に時折触れて、寂し気な音を立てる。
それはまるで、アルテミスの心情を表しているかのようだ。
今まで聞きたくても聞けなかったこと。
しかし、まだ全てを語ってくれてはいないメリュジーナ。
それと同じく、自身も彼女には語っていない秘めた想いがあり、それを打ち明けるべきかを未だ悩み続けている。
――もしも、全てを語ってくれたなら。
――もしも、全てを打ち明けたなら。
あぁ、それも確かに考えたことのある”もしも”なのは否定しない。
ただ……そう、本当にたったひとつの”もしも”が叶うとするのなら……
――もしも、あの日あの時あの場所で……私がきちんと死んでいたら。
…………
……
人気も無く、陽の届かない建物の陰で、誰にも見つからないように静かに佇んでいる一人の少女。
何処か一点を見つめ続けている少女の暗い瞳は、まるでこの世界を映していないかのように遠くを見つめている。
いつものような無邪気な明るさは無く、絡繰り人形のような違和感を纏い、少女はただそこに在った。
――役目を果たせ、全てが果てるその為に。
たとえ何が起きようと、お前はその為に在るのだから。
想定外への、抑止の力として。
…………
……
永遠とも思える時間。
全てが凍てつき、時間が止まったようにさえ感じられる何処か。
そんな色の失われた世界で唯一の存在。
孤独にありながらも、願いを果たすために只々待ち続ける深き者。
常識的には考えれないほどの強靭な精神力、忍耐力。
何がその者をここまで突き動かすのか。
いったい何にその者は固執しているのか。
「焦る必要は無いのよ、ワタシ。これまでの事なんて些事でしかないの」
その表情や所作は落ちついており、焦燥や苛立ちとは無縁のような優雅ささえも感じられる。
静かな湖面に映る自身の姿を見ながら、彼女は髪の乱れがないか確認し、身だしなみを整えた。
その姿はまるで、逢瀬を楽しみにしている淑女の如く。
誕生日の贈り物を差し出された少女の如く。
近い未来に必ず訪れる現実を想像し、恍惚感と悦楽に包まれそうになるが、まだその時は来ていない。しかしそれは絶対に訪れる。
「ワタシはアナタの総てを許し、受け入れるの。アナタの罪すらも……そう、全部、全部よ」
穏やかだった表情は一転。口角が吊り上がり、喜びの表情には違いないが、その中には別のナニカが隠れているようにも見えた。
そしてソレは両腕を大きく広げ、天を仰いだまま不気味な笑い声を誰もいない世界に響かせる。
「ははハハはハはっ! ハハはははアははははっ!」
光も届かず風の吹かぬこの地で彼女は独り、境遇を悲観することなく、すでに眼前に迫っている刻限を待ち侘びる。
時を越え、輪廻を超え、永劫の刻を耐えてきた。
そう、すべてはただこのときのために。
定められた道筋は遮られることなく、絶たれることなく繋がっている。
それを妨げることは何人たりとも出来はしない。
それがたとえ、絶対存在だとしても、不可能と呼ぶに等しいものだ。
宿命は続き、運命は廻る。
この二つが最期に至るのは何処か。其処に在るのは果たして何か。
――そノ魂が尽きる時マデ無様に足掻きなさい。
――ドウせ価値の無いオマエラニは何も出来ナイのだから。
かくして、物語の終幕……終焉への秒読みは開始された。




