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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
36/55

32.散り残る意志は桜花の下に

 

 ……――――――――


 ひらり、はらり

 

 ゆらゆら、ゆらり


 音も無く舞い落ちる薄紅色の花弁たち。

 白い景色の中で独り佇む少女は、降り止まぬ花の雨をただただ眺めている。


「……散る姿こそ美しい、か」


 無意識に呟いた言葉は何処かで聞いた誰かの言葉。

 花というものは開花した状態こそが最も美しく、それを愛でるのが一般的ではあるが、中にはそうではないものも存在する。


「見上げてばかりだったけど、悪くないものね」


 その花が満開になれば、人々はそこに集まり昼夜問わずに花を愛でる。

 ある者は家族や友人たちと食事を楽しみ、ある者は歌を詠む。

 ある者は酒を嗜み、そして、ある者は月と共に愉しむ。


「また、見られるかしら……」


 生涯を終えた花の花弁一枚一枚が風に乗って別れていけば、寂しさを感じる。

 しかし、その花は枯れる訳ではなく再び同じ季節、同じ場所で美しく咲くのだ。

 散ることは今生の別れではなく、再会の為に必要なことであるからこそ、人はそれに美しさを見出すのかもしれない。

 

 花も人も変わらず、命あるものに最期というものは必ず訪れるが、その儚い終わりを迎えるまでに自分の人生に胸を張る事がでたのならば、それはとても幸せなことなのだろう。

 だからこそ、人は美しき花を羨むのだ。


 たとえ短い生涯の中で、誰一人に見られることはなくても。

 たとえ儚い時間を、過酷な場所で生きなくてはならなくても。

 花は咲き、散り逝けども再びそこに咲き誇る。

 咲いても実を結ばない徒花など、本当はありはしないのだ。

 

 人は生まれる場所を選べず、花もそれは同じこと。

 だが、人は生きる場所を選ぶことも、散り場所を選ぶこともできる。

 故に生きる場所すら、散り場所すら選べない花が咲き誇るというのなら……

 

 少女が静かに中空に向けて手を伸ばせば、そこに舞い落ちてくる薄紅色の花弁。


「――咲き誇れ、世界の(はな)よ」


 その瞬間、数多の花弁が何処からともなく嵐のような勢いの花吹雪となり、白い世界を埋め尽くす。

 少女の視界もそれらに阻まれ、身体が花弁に埋没していく最中で、先程まで存在していなかった黒き男の影をその瞳に映し出した。

 

 ……――――――――


 ゆっくりと瞼を持ち上げると、月国の女神アルテミスの視界に入ってきたのは、大量の酒瓶と酒樽、肴が載っていたであろう大皿だ。


「よくこの場所で宴会みたいなことができるわね」


 気だるさ感じながら身体を起こしたアルテミスは、目の前の宴会の後(惨状)に呆れた声を漏らした。

 それに対し、盃の中身を空にしたトウカが、悪戯な笑みと共に言葉を返すと、


「いえいえ、疲れ果てて眠ってしまう女神様ほどではないでありんすよ」

「――にゃ!?」

「ふふっ」


 その結果、寝起きで上手く舌が回らず噛む始末。

 重ねて羞恥を晒したアルテミスが月光殿内と同じような敗北感に包まれるも、トウカは静かに微笑むだけだった。


 遊郭の当主であるトウカ。

 この地にあるもの全てを代々預かっている一族の四代目。

 武と商の二つを幼い時から教え込まれてはいるが、本人の元来から持つ性格もあって、立場に囚われること無く同じ街に住まう者たちと関わっている。

 容姿に関しても、遊郭というだけあって他の者と一線を画す美しさがあり、彼女と並びたてる者はこの街だけでなく、月国の中でもそう多くはないだろう。


「それで、他の四人はどこに行ったの? 片付けもしないで」

「えぇ、船漕ぎはった方がお二人おりんしたゆえ、メリュジーナ様とクローフィ様に、こちらで用意させて頂きんした客室まで運んでもらいんした」

「ムメイは兎も角、リコスまで何をやっているのよ……」

「口ではそうは言いはっても、呆れているわけではないご様子。これが噂に聞くあれでありんしょう。確かそう、つんで――」

「断じて違うわ!」


 風に揺れる桜の音だけが流れていただけに、夜の街にアルテミスの声は本人が思っている以上に大きく響いた。

 そして、彼女からすれば大いに不名誉な称号を与えられたことと、眠る街に自身の声が広がったことで、アルテミスは耳まで熱を持つほどに顔を赤くした。

 そんな中、アルテミスを揶揄い満足した様子のトウカは、懐の収納石から年季の入った水筒(ボトル)と湯呑を取り出し、水筒の中身を湯呑に注いでいく。


「ふぅ……肌寒い日は、いつも以上に美味しく感じんす」


 湯気の立ち上るそれの味と香りを十分に楽しんだトウカの表情は緩み、非常に弛緩(リラックス)したように見える。

 そんなトウカの姿は珍しく、彼女をそうさせる湯呑の中のものにアルテミスの興味の視線が注がれた。


「ふふっ、甘露甘露。ん? 月神様も一杯どうでありんすか?」

「何か変なものじゃないでしょうね」

「随分と信用を落としてしまったようでありんすね。騙されたと思って、ささっ、ぐいっと」

「い、いただきます」


 半ば強引に湯気の立つ湯呑を口許に当てられたアルテミスが口を開くと、流し込まれるその甘露とやらの正体に驚き、思わず吹き出してしまいそうになりながらもそれを堪えた。


「――ンッ!? けほっ、けほっ……あ、貴女ね、これのどこが甘露なのよ!」

「どこが、と言われても困りんす。わっちからすれば、この梅昆布茶は最上の甘露でありんすから」

「完全に貴女の嗜好の問題じゃない! た、確かに味は悪くなかったけど」

「そうでありんしょう。御館様からもお褒めのお言葉を頂戴した一品でありんす」


 自身の勧めたものを褒めてもらえた事が余程に嬉しかったのか、その後も二杯三杯とアルテミスに梅昆布茶を飲ませるトウカ。

 梅昆布茶というよりも、トウカは梅をこよなく愛している。

 それは代々受け継がれてきた当主の明かしたる桃花の刺繍の施された羽織を大切に仕舞い込み、新たに梅花の刺繍の施された羽織を作らせたほどだ。

 そんな彼女の興奮が一度落ち着いたところで、


「梅干しは三毒を断つ。どうかご自愛を」


 トウカは優しい笑みと共にそんなことを口にした。

 そして、そのまま言葉を重ねていく。


「悩み、迷いがあるのなら、なんでも打ち明けて下さいまし。わっちだけではなく、付き従う他の者たちも同じ気持ちのはずでありんす」

「無いわ。その気遣いには感謝するけど――」

「…………」

「…………」


 トウカの言葉を即座に否定しつつ、アルテミスは思わず先に続く言葉を切った。

 口を挟まれたわけでも、物理的に遮られたわけでもない。

 ただ、誰かによく似たトウカのその瞳が、アルテミスから言葉を奪い去る。

 あの男を深く知る者は皆が皆同じものをその瞳に宿しているが、アルテミスはこの一瞬、本当にあの男に見つめられているようにさえ感じていた。


「三日月も半月も天満月も、見る形は違えど月は月。同じく、(うるし)の月も月でありんす。けれど、皆が貴女様について行くのは、貴女様が月の女神だからではありんせん。人知れず見守る優しき月……貴女様だからこそ、周りの者は付いて行くのでありんす」

「ッ……むかつくくらい……敵わないわね」

「これでも、御館様にこの街を任されている身でありんすゆえ」


 瞳の奥まで覗き込まれているようなトウカの視線と優しい声音に、浮かべたその微笑みに観念したアルテミスは、胸中に渦巻くものを少しずつ吐き出していく。


「……夢を、見るのよ。優しくて、悲しくて、切なくて、温かい……そんな夢」


 その表情はいつもの毅然としたものではなく、力の入っていないような、どこか自嘲気味なものにさえ思えた。そんな彼女から、トウカは視線を逸らすことなく真っ直ぐに見つめたまま耳を傾けている。


「朝起きれば、どんな夢だったのかは何も覚えていないの。ただそういった感情が残るだけ。所詮はただの夢なんだから、そう納得してしまえばいいだけなのにね。でも、どうしても考えてしまうの」


 話しているうちに段々と俯いていくアルテミスは、最後に自身の足元ぼんやり眺めながら、


「――本当に私が見ているのは夢なのかって……本当に、私が居るのは現実なのかって……」


 それを最後にアルテミスは口を閉ざした。

 暫く、互いに無言のまま時間が過ぎたが、それを破ったのはトウカだ。


(うつつ)で見る夢は夢。夢の中で見る夢は現。でありんすが、今こうして話している刻がどちらであっても変わりんせん。現であっても夢であっても、貴女様は全力でご自身の成すべきことを成し、周りの皆々も全力でそれをお支えする。たとえ現であっても夢であっても、後悔を残すことのないように。違いんすか?」


 アルテミスが俯けていた顔を上げると、美しく咲き乱れる彼岸桜に寄り添うように、淡く光り輝く月が見えた。

 果てしなく遠い場所にあるはずの月が、なぜかとても近く感じられる。

 

「…………」


 そうだ。先代はまるで天満月のように、優しき光で皆を見守り続けてきた。

 敵わない……敵うわけがない。

 自分は光を闇に蝕された月……天満月に似ても似つかぬ朔の月。

 それでも同じ月に変わりはなく、成さねばならぬことはある。

 それが現であっても夢であっても、もう二度(・・・・)と、後悔しないように。 


「それじゃ、そろそろ私も眠くなってきたことだし、客室まで案内してくれるかしら」

「月は姿形を変えるもの。いつか必ず、光放つときが来んす。心まで蝕されてはいけんせんよ?」


 常に彼女の側にいる者たちから聞かされた想い、自身の想いは届かなかったのかと、トウカは背を向けて歩き出そうとするアルテミスに最後の言葉を掛けた。

 すると、その言葉を受けたアルテミスは立ち止まって溜息を一つ吐くと、半身で振り返りつつ自身の想いを返した。


「大丈夫よ。私の周りには、頼り甲斐のある者たちがいることを再確認できた。貴方のおかげでね」


 そこで一度言葉を切ると小さく呼吸を整えて、更に芯のこもった声を響かせる。


「故に、どれだけの悩みがあっても私は強くいられるのです。私一人の力ではなく、皆の思いを力に変えて。月は太陽のように、独りで輝くことはできません。それでも皆がいる限り、貴女がいる限り、私は膝を折らぬ(地に落ちぬ)と誓いましょう」


 言うべきことは言ったとばかりに、トウカにもう一度背を向けて満足げに歩き始めるアルテミス。


「……ありがとう」


 そんな彼女の宣言と、聞き逃してしまいそうな感謝の言葉を受け止め、トウカは自身を必要としてくれたアルテミスの背に小さく頭を下げた。

 そして、さっそくお役目が回ってきたと言わんばかりに、袖で艶やな口許を隠しながら、


「いきなり道を見誤るとは、ほんに困ったお人でありんす」


 そう言って、逆方向に歩き始めたアルテミスに微笑みかけるのであった。




 …………

 ……




 白く黒い世界。

 真っ白い雪が深深(しんしん)と降り続ける夜に広がる雪景色。

 薄い雲の掛かった朧月の淡い光をその身に纏い、ゆっくりと落ちる柔らかな雪。

 桜色の蕾をつけた木々に囲われた小さな泉。そこに在る細い灯籠台。


 真っ黒い雪が沈沈(しんしん)と降り続ける闇に広がる雪景色。

 薄い雲の掛かった朧月の淡い光も届かぬそこで、ゆっくりと落ちる不気味な雪。

 黒を頭に乗せた花々に囲われた小さな場所。そこに在る一つの(ほこら)


 そんな世界の中、祠の前で黒と白の境界の向こうにある桜を眺めながら、


「散るは宿命(さだめ)の……朧桜。終わりのない理想が残酷な痛みへと誘い、壊れてしまった尊き感情(おもい)……それでも貴方は、かつての記憶を失ってなお、何度でも絶望の地で咲き誇ろうとするのね」


 ぽつりと、黒き人影が呟いた。

 

「正解のない選択肢しか残されていない現実の中、誰も責められず、悪いのはすべて自分だと思い込み、悔しさの果てで自身を呪い続けた」


 どれだけ温もりを求めても、どれだけ永遠を求めても、繰り返される呪いが彼に安らぎを与えることはない。

 それは、(あの子)を守ることでしか、その想いを示せないが故に。

 耳元で囁く(あの子)の声でさえ、彼を苦しめる要因でしかない。

 真実に近づけば近づくほど、彼の壊れた感情はより強く私を求め、(あの子)の秘めた感情はより強く彼を拒絶してしまう。

 

「なぜならきっと、墜ちていったあの子()の瞳があの人の全てを見透かしてしまうから。辿り着いてはいけない其処へ……誘ってしまうから」


 あの人やあの子が忘れても、私は覚えている。

 楽しすぎて、幸せすぎて、泣いていたあの日々のことを。

 辛すぎて、苦しすぎて、笑っていたあの日々のことを。

 どんなに困難な道でも、貴方がいたから歩き続けた。

 貴方の為ならどこまでも、黄泉の先にさえ行ける気がした。

 何が相手でも、負けられないと思えた。

 不幸な運命だと人は言うかもしれないけれど、貴方がいてくれるのなら、貴方が私に微笑みかけてくれるのなら、その日々はとても輝いたものに見えたのだ。


 だが、今の自分には彼の元まで歩く足も、伸ばせる手もありはしない。

 いや、違う……歩いてはいけない。伸ばしてはいけないのだ。

 

「だから、二人が始まりの記憶を取り戻しても……優しいその両眼(ひとみ)()を見つけ出さないで」


 そこにある結末を、誰も望んでなんていないのだから。

 

「この存在は呪いでしかない。曖昧な(私は私の)ままでいい。だから……」


 そこで言葉を切ると、人型の影は踵を返す。

 そして、その姿を黒き世界に溶け込むように滲ませながら、祠に吸い込まれるように溶けて消えた。最後に――


「どうか、お願い……私に貴方を殺させないで……」


 矛盾した、矛盾無き確かな想いを残しながら。

 



 …………

 ……




 荘厳に咲く八重桜を見上げながら、少女は彼との日々を振り返っていた。


 今でも鮮明に思い返すことができる。

 誰も頼れる者がいなかった頃、少女の瞳に映る世界は色を無くしていた。

 季節は暗くて冷たく、熱を失った心は温もり求めていた。


 そんなとき、貴方は突然現れた。

 時間は止まり、少女の瞳に映る世界がその色を取り戻した。

 季節は明るく暖かく、冷え切った心はその先をも求め続けるようになった。


 そうして、少女の物語が始まったのだ。


「でも本当は、もっと前に出会っていたのよね」


 小さな町ペルセから港町ミステルまでの道中での出来事を思い返しながら、シンカはぽつりとそんな呟いた。

 あの頃は使命感のようなものに雁字搦めに囚われ、何も見えていなかった。

 今にして思えば恥ずかしさでいっぱいだが、こうして当時のことを笑って思い返すことができるのも、すべては支え続けてくれた彼のおかげだろう。


 今日は星歴七七七年、逢刻節(あこくせつ)四十八日。内界の暦で四月八日だ。

 予言された終焉の刻まで、後僅か二節と少ししか残されていない。

 だが、シンカの中に恐怖という感情はなかった。

 なぜなら今頃、世界中で桜の花が咲き乱れているはずなのだから。

 七宝に咲く桜花は皆の心が一つになった確かな証。

 故に、怯えることはなにもない。


「ねぇ、知ってる?」


 そう言って、シンカは少し離れた場所でコルと話し込んでいるロウを見つめた。


「どんなに困難な道だって、貴方がいたからここまで歩き続けることができたのよ」


 楽しすぎて、幸せすぎて、泣いていた日々もあった。

 辛すぎて、苦しすぎて、笑っていた日々もあった。

 どんなに困難な道でも、ロウがいたから歩き続けることができた。

 ロウの為ならどこまでも、絶望の果てさえも行ける気がした。

 何が相手でも戦えると、そう思えた。

 不幸な運命だと人は言うかもしれないけれど、ロウがいてくれるのなら、ロウが微笑みかけてくれたから、これまでの日々はとても輝いたものに見えたのだ。


「貴方の優しいその瞳が、私を見つけ出してくれた。自分という存在意義がわからなくなっていた曖昧な私を……貴方がすくい上げてくれたの」 


 だから、必ず彼の元まで辿り着いてみせる。

 伸ばしたこの手で、必ず彼を掴んでみせる。

 

「ねぇ、ロウ……私ね、貴方のこと――」


「こら、クレア! さっきはよくもやってくれたな!」


 割って入った声にシンカが視線を向けると、いつの間にか目を覚ましたジェーノが自棄酒組みの中に紛れ込んでいるのが見えた。

 サラの思いつきで開かれた、句を披露する場で羞恥を曝した面々は、後先考えることなく次々に酒瓶を空にしようと自暴自棄になっているようだ。

 このままでは冷静になったときに、より一層恥ずかしい思いをすることは目に見えている。

 シンカはロウに頼まれた任務を遂行するため、呆れつつも嬉しそうに頬を緩めながら、


「まったく、本当にロウの周りは賑やかなんだから」


 世話の焼ける大人たちのいる場所へと向かって行くのだった。





 …………

 ……




 

 どこまでも続く何もない夜の空。

 どこまでも続く何もない凍てついた大地。

 ありとあらゆる命が潰えた終焉の世界。

 何も生まれず、何も育まれず、何も始まらず、故に終わりもない。

 そんな虚無の中、唯一難を逃れた領域の中に彼女はいた。

 小さな波紋すら浮かぶことのない水鏡には、美しい彩が映し出されている。

 それは此処には無く、何度も夢に見るほどに焦がれたもの。

 郷愁に駆られ、今は無き故郷に帰りたいと思わせるほどの――満開の桜。


 この世界に思い入れなどありはしない。

 この世界が滅んだところで痛む心もありはしない。

 それと同様、あの世界にも思い入れはなく、滅んだところで構わない。

 だが、滅んでしまった世界に思いを馳せるのは、きっとそれが原点だから。

 あの人との出会いの地に……いずれ共に帰りたいと願い乞う。


「でも……アレはいらない」


 幾星霜と積み重なった負の世界から生まれ落ちたからだろうか。

 自身が経験してないことでさえ、記憶として呼び起こすことができるのは。

 こんなこと、知りたくなんてなかった。

 こんな事実なんて、突き付けられたくなかった。

 そんなことを、生まれながらに知ってしまった。


 死ぬはずだった女を男が救い、そのせいで寿命を削られた男を女が救い、女はその命を散らしてしまう。だが二人は再び出会い、そして別たれた。

 それでも引き寄せ合う魂を、人は残酷な運命と言うのだろうか。否――


「……羨ましい。妬ましい、呪わしい。あの人を縛りつける存在が」


 少なくとも、彼女にとってその運命は残酷ではなく救済だ。

 気の遠くなるような永き時を、何も無い世界で独り生きることよりは。

 殺しても、殺されても、巡り廻る先で愛おしき人と再び出会える運命ならば、それだけで十分だろう。


「けれど、もうすぐあの人を解放してあげられる。花開くまで、後少し」 


 芽吹きの時を待つ蕾は、凍え、朽ちることは無かった。

 劣悪な環境であっても耐え続けた。

 すべてはたった一つの大願成就の為故に。


「喜んでくれるかしら……妾を、抱きしめてくれるかしら」


 まだ誰も見たことのない花に期待は高まる。

 しかし、それが素晴らしいものであることを彼女はすでに知っている。


「あはっ」


 美しき者は無邪気に笑い、妖艶な唇を小さく舐めた。

 混ざり合った感情を、違和感無く其の身に抱えている深淵なる闇。


「アナタの世界の言い方に倣うなら……目標達成(サクラサク)、だったかしら?」


 悲願の成就を目前に昂る想いを抑えることは難しい。

 忍耐などという安易な言葉では片付けられない。


「本当に……春の訪れ(・・・・)が待ち遠しい」


 安寧を求める世界に根付くのは凶乱の徒花――残骸のヘレティクス。

 あの世界に於いてその名は誰も知らず、その存在を誰も知らず、誰にも気付かれず、誰にも邪魔されず、混沌の姫は桜の君に思いを馳せる。


 凍てついた世界の中で、熱く滾る想いを内に秘め……

 最後の錠が落ちる刻を待っている。

 

 音も亡く舞い堕ちるのは果たして、花弁か、それとも――――

 

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