31.嘘も偽も愛の裏の葉
「すまないが、あたいは明日から下層区に住むことにしたよ」
午後からの会議に備えていくつもの資料にアルテミスが目を通していると、彼女が最も信頼し、腹心とも呼べる存在は、まるで昼食の希望を述べるかのようにさらりとそんなことを宣った。
「え……メリュジーナ。貴女、本気でそんなことを言ってる、の?」
視線と意識を手元に向けていたアルテミスは、両側頭部に結った輪状の髪を静かに揺らしてメリュジーナへと向き直る。
当の本人は自身の発言の重大さを気にした様子は一切なく、優雅に紅茶の香りと味を楽しんでいた。
「メリュジーナ、聞いているの!?」
「そんなに大声を出さなくても聞こえているさ。悩みに悩んだ末の結論だよ」
「――っ!?」
部屋の外にまで届くほどのアルテミスの声に答えるメリュジーナだが、その優しい声音の中に、アルテミスは彼女からの拒絶の意思を感じ取った。
長い、本当に永い時間を共に過ごし、いつも寄り添ってくれていた日々は、いったいなんだったというのか。
しかし、あまりにも突然すぎる決断を受け入れることが出来ないでいるアルテミスに向かって、メリュジーナは追い打ちを掛けるように言葉を続ける。
「クロリコたちには前もって伝えてあるし、住む場所も手配済みさ」
「そん、な。どうしてよ……私……」
「どうしてって、本当に何もわかってないのかい?」
更に突き付けられた事実。悪いところを理解していないというような指摘。
アルテミスの顔からは血の気が引き、身体にも殆ど力が入っておらず、机で体を支えていなければそのまま床に座り込んでいたことだろう。
混乱する中でも懸命に思考するが、アルテミスはメリュジーナの発言の意図をわからないでいる。
ただ、自分の所為で彼女がここを去ることを決めた。
そう考えるのが最も自然であり、十二分に可能性の有り得ることだろう。
我が儘を言って困らせ、それでも愚痴の一つも言わずにいてくれた彼女に甘えていた事。細かいことを挙げればキリが無いほどに積み重なった時間は、取り返しのつかないほどに大きいものだった。
だが、それも今日で終わることとなる。
「わ……わかったわ。今までありがとう、メリュジーナ・イラ」
「……」
「私も、ね……いつまでも貴女に頼りきりという訳にもいかないから、大丈夫。こ、これでも月国の女神だから……だ、だいじょうぶ」
「本当かい?」
アルテミスは納得したわけでも理解したわけでもなく現実を受け入れた。
声を荒げ、喚き、泣いたところで状況が変わることがないのであれば、残された答えには自然と辿り着くだろう。
「……えぇ、当然でしょ」
感情、私情を抑え込み、月国の女神という立場ある者として、努めて冷静に言葉を発してみせる。
そんな女神として一つ成長したようにみえるアルテミスの事を訝しげな表情で見つめ続けるメリュジーナだが、次第にその表情は緩んでいき……
「くっ、ふふっ……あ~ははははっ!」
遂には大声を上げて笑いだすまでとなった。
「なっ!? いきなり笑いだして、どうしたって言うのよ!」
「そ、そりゃあ……くっ……ふふっ」
「メリュジーナ!」
部屋の中に先ほどまであったはずの重苦しい雰囲気は霧散し、外から差し込む陽の温かさが広がっていくように思えた。
笑いを堪えることが出来ずにいるメリュジーナと、状況の目まぐるしい変化にまるで思考の追いつけないアルテミス。
少しして、ひとしきり笑って満足した様子のメリュジーナは静かに呼吸を整えると、誰が見ても明らかに不機嫌な様子のアルテミスに向けて声をかける。
「いやぁ~、まさかここまでとはさすがに想像してなかったよ」
「どういうことか今すぐ説明しなさい。でないと、全魔力を使って撃つわ」
いつもと変わらぬ調子で話を続けようとするメリュジーナに向かって、女神らしからぬ形相をしたアルテミスはすっと腕を伸ばした。
その掌には既に高密度の魔力が集められており、これ以上不要なことを口にすれば本当に撃たれると感じたメリュジーナは、降参した様子で語り始める。
「本当にわかってないみたいだねぇ。今日はエイプリルフールだろ?」
明かされた真実は誰もが知ることであり、寧ろ知らずにこの日を過ごす者を探すことの方が難しいのではないだろうか。
しかしながら、残念なことに月国の女神はその該当者であったらしい。
「エ、エイプリルフール、ですって? ……~っ!?」
メリュジーナの発した言葉を、アルテミスは自身の頭の中で反芻したところで全てを理解し、先程の言動に対しての羞恥心が込み上げてきた。。
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、メリュジーナはさらに言葉を続ける。
「またの名を万愚節。まぁいろんな逸話が残っているみたいだけど、どれも聞いたことくらいはあるだろう?」
「……知ってるわよそれくらい」
「そんなに睨まないでおくれよ。悪かった、悪かったからさ」
子供のように不貞腐れながら顔を背けるアルテミスと、懸命に謝り機嫌をとろうするメリュジーナ。
先程までと一転したこの光景は、アルテミスが失う事を一度は受け入れた日常の一つだ。
「それで、本当にここからは出て行かないのね?」
「いかないよ。ただ、エイプリルフールらしい事をしたかっただけさ」
それから何度同じやり取りをしても尚、アルテミスは疑いの眼差しをメリュジーナに向けたままだった。
するとそこに、万愚節とは縁遠い勤勉な二人が訪れる。
「失礼します。ご報告したいことがあるのですが、少しよろしいでしょうか」
「えぇ、問題ないわ。それで、次の議題のこと? それとも、内界の人たちとの食事会のことかしら?」
メリュジーナへの疑いを一旦忘れ、月国の代表者としての思考に切り替えたアルテミスは、訪れたクローフィに話の先を促した。
だが、クローフィの口から出てきたのは予想外過ぎるもので……
「私たちは今後、下層区に住むことにしました」
「…………え?」
本来であればこの衝撃発言に酷く動揺していたのだろうが、今のアルテミスは動揺するというよりも、両眼を点にしながら間抜けな声を漏らしている。。
「エパナス卿にはすでに話を通している。当面は問題ないはずだ」
「…………は?」
クローフィの話を補足するように口を開いたリコスの言葉を聞いたメリュジーナは、口許に手を当てながら二人に背を向け僅かに肩を揺らし始めた。
「住む場所も手配済ですので、今日中にそちらに向かおうと思います」
「…………」
ここまでさっきと同じような台詞が続いてしまうと、一度は抑え込んでいた感情がアルテミスの中に再度沸き上がってくる。
動揺が呆れに変わった彼女は俯いたまま、今日が万愚節であることを自分にきちんと言い聞かせた。そして一応は念のため、万が一を考慮してクローフィとリコスに今の言葉の真偽を問おうと顔を上げた瞬間――
「メイは今日から下層区で住むことに決めたからよろしくだし!」
二度あることは三度ある。
唐突に扉を開けて入ってきた闖入者は、なぜか自信に溢れるような表情、所謂ドヤ顔でそんなことを宣言した。
「はぁ……ここまでくると、本当に茶番だわ」
月国の中核を担う者たちが、揃いも揃って同じ発言をしたことにアルテミスは頭を抱えつつ、今後の体制に不安を感じ始めた。
しかし、当の悩みの種である四人は、互いに同じ嘘を用意していたことに関して”誰が一番早く思いついたか”等の不毛な口論を行っている。
そして無駄な言い争いが次第に白熱していくと、すぐに収まると思っていたアルテミスを苛立たせる結果となり、間を置かずして容易く限界点を突破。
「そんな下らない事をしてる暇は無いはずよ! さっさと仕事に戻りなさい!」
「「「「――はっ!」」」」
アルテミスによる激昂の一喝と、彼女の纏う膨大な魔力を感じた四人は即座に口論を止め、大慌てで部屋から出て行った。
「はぁ……まったく。たまに子供じみたことをするんだから」
騒がしさが一気に消え去ると、一人きりの部屋は何故か広く、陽は高く上がっているというのに空気の温度も低いように感じられる。
それは今やここ数日に限った話ではないのだが、いつからか不意に、一人の時はそう感じることが多くなっていた。
「少し前までは、人との関わりを避けていたくらいなのにね」
自虐めいた言葉が小さな口許から零れると、彼女は警戒するように部屋の中を見渡して、本当に誰もいなくなったことを確認した。
この場にメリュジーナたちが居たのならば、間違いなく当時の事について、一言二言は言われていただろう。
「ほんと、誰に似たのかしら」
強く気高く、仕事も出来て、気遣いも忘れることはないのだが、それと同じほどにこちらの不備などを容赦なく指摘してくる月の女神に仕えし者たち。
しかし、それを含めて優秀であることを重々理解しているからこそ信頼できる。
たとえその彼女たちの根底に、あの男の存在があったとしてもだ。
「それにしても……エイプリルフール、か」
普段なら気にならない時を刻む音が耳に届くのを感じながら、アルテミスは今日という日について思案する。
明文化され、法としての効力は一切ないただの慣習。
しかし、形骸化している法に比べて認知度は高い。
その起源や発祥については多くの説があらゆる地域で語られているが、いずれも確証のないもので仮説の域を出ず、それらについての一切が不明な日。
幼き頃、それを教えてくれたのは誰だったか……忘れるはずもない。
今にして思えば、内界ではなく外界にある仮説はまるで――
「死んだはずの少女の生死は嘘か真か……ふふっ、皮肉なものね」
自虐的に微笑みながら歩を進め、細い指先で窓硝子をそっと撫でる。
「嘘を吐いても許されるこの日でも、きっと貴方は嘘を吐かない。嘘を吐けるようになった私は……嘘ばかりなのにね」
窓硝子に映る黒き瞳に黒き髪……金色の月とはほど遠い、蝕まれた月。
「ねぇ……貴方は昔のように、嘘を吐かないようにしているの? それとも……吐けなくなってしまったの?」
もしも、その行為がたとえ女神であっても本当に許されるというのであれば、彼女はいったいどんな言葉を誰に伝えるのだろうか。
「本当に、大嫌いだわ」
小さくそう呟くと、鳴り響く時計の音。
二本の針が寄り添いながら同じ場所に留まり、秒針だけが忙しなく動いている。
聞き慣れた低い音が今の時刻を知らせる中、別段耳障りではないそれを気にすることなく、アルテミスは淀みない言葉を紡いだ。
「でも本当に、大好きなのよ」
仮に他の誰かがいても、耳を澄ませていないと聞き漏らしてしまいそうな声ではあったが、彼女はどこか満足気な表情を浮かべていた。
拒絶と愛情。そのどれが嘘で真なのかは、彼女だけが知る真実。
ただ、そのどれもが嘘であっても真であっても、今日だけはその事を糾す者は何処にもいない。そして……
時を知らせる音とその余韻が過ぎ去り、部屋に再びの静寂が広がっていく。
微笑む彼女の視線の先には、窓硝子越しに二匹の蝶が未だ僅かに肌寒さの残る中、寄り添うように飛びまわっていた。
そんな蝶に過去の情景を重ねながら、アルテミスは背の低い針を置いて一歩進んだ長針の音を聞くのであった。
万愚節……嘘を吐いても良いとされる、一風変わった日。
だが、嘘というものはできれば吐かない方が良いのだろう。
優しい嘘、温かな嘘、思い遣りの嘘、守る為の嘘、楽しい嘘……
そういった嘘があるのも確かな事実だ。
そんな嘘が誰かの心を救うこともある。
嘘も相手に気付かれることなく貫き通せば、相手にとっては真実だ。
墓場までもっていく覚悟があれば、優しい嘘は薬にも魔法にもなる。
だが貫く事ができないのなら、やはり嘘は吐かない方が良いのだろう。
何故なら、そう……この世には……
――悲しい嘘や残酷な嘘も、確かに存在しているのだから。
そして貫く覚悟があったとしても、いつかそれを知られる日が来るかもしれないのだから。
たとえばそう……欺瞞の仮面を被り続ける人のように。
…………
……
嘘は嫌いだ。
あの日の嘘が、私を醜き姿に変えてしまったから。
人も何かひとつくらい、蛇蝎の如く嫌うものがあるでしょう?
私にとってそれが嘘だ。
たとえそれが気遣う嘘や、優しさからの方便、善意の嘘であったとしても。
「でも今日この日、嘘と真実の狭間という重なり合う刻だけは、貴方の嘘には目を瞑ってあげる。だって、貴方はあの日の嘘になってしまったことを、必ず無かったことにしてくれるから」
蛇は好きだ。
古来より死と再生、不老不死などの象徴とされているから。
人もそういったものを、ずっと求めて来たのでしょう?
私もそれを求め続けた。
無限の愛、永遠の愛、どこまでも続く永劫の愛。
「たとえ前世が何であれ、あの惑星やこの惑星の物語の中でどんな役割を与えられていても。今の世で、その惑星の物語の中でのどのような役を担っていても」
互いの尾を噛む二蛇のように……
「妾は愛しているのよ。それは嘘偽り無き真実」
果てなく続くそれを欲したのだ。
「だから、わたしが世界を救ってあげる。だって、世界が救われれば貴方はワタシに会いに来てくれるでしょう? だから、もう少し我慢していて下さいね」
宿業の縛鎖が彼を留まらせているのなら、それは簡単なこと。
彼の負った宿命を終わらせてあげればそれでいい。
彼の願いそのすべてを叶えてあげればいいだけだ。
負の連鎖を断ち切ればいい。その根源を無くせばいい。
「もうすぐ……もうすぐ、人の争いはなくなるの」
宿命からの解放という定立に対する反定立があるのなら、これこそが夢幻が形を成した無限を終わらせる為の統合定立。
「わたしが争いをなくしてあげる。ワタシがすべてを燃やしてあげる。何度も何度も貴方を縛りつける救世という役割を、私が代わりに担ってあげる。救うものが無くなれば、貴方はきっと迎えに来てくれるから。だから――」
英雄の如く、人類を数多の艱難辛苦から解放してあげる。
救世主の如く、世界を愚者の魔の手から解放してあげる。
その先に在るのは、嘘偽りのない世界――永劫回帰の理想郷。
「愛しています。心の底から、愛しているの。この想いが偽りなら、この世に真実などありません。私の愛が、妾の愛だけが……貴方の中に在ればいい」
嘘と真は表裏一体……万愚節はまだ終わっていない。
その先にあるのは、欺瞞すらない世界――混沌の夢想暗黒郷
「貴方が愛し、救済するそのすべてを……必ず救ってみせましょう。だって私は……妾は……こんなにも、貴方と愛死逢いたいのだから」
闇に向かって静かに吼えるその想いは、とても純粋なものだった。
彼女の零したその言葉が……たとえ、両価感情なものだとしても。




