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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
32/55

28.思えば呪うバレンタイン

 

 白んでいた空に徐々に広がっていく新しい光は、今日という日に祝福をもたらすために輝いているように見える……者も、中にはいるのかもしれない。

 そんないつもと変わらない夜明けは、いつもとは違う幕開けとなった。

 少なくとも、この月国フェガリアルにある月光殿セレネにおいては。


「まったく、我らが女神様は近しい者に心配をかけさせるのが得意なようだ」

「議会へは私から説明をしておこう」

「えぇ、お願いします。私はここを片付けておきますので」


 無人であるはずの厨房から物音と人の声が聞こえるという報告を、夜警にあたっていた兵士から受けたメリュジーナ、リコス、クローフィの三人。

 どうやら中から厳重に鍵か掛けられており、親鍵(マスターキー)を取りに向かおうとしたところで、たまたま一緒にいた彼女たちと鉢合わせたということらしい。

 何故このような時間に彼女たちが三人一緒いたかといえば、行方知れずの少女を探していたからだ。

 報告を受けた彼女たちが現場へと急行し、内から鍵の掛けられていた扉を蹴破ると、そこには予想通りの人物の寝転がる姿があった。

 安堵感と呆れの入り混じった三つの溜め息が同時に漏れるが、すぐさま表情は真剣なものへと変わり、通路に待機させていた者への指示、現場の処理(片付け)、未だ夢の中にいる少女の搬送を手早く行っていく。


「いつも面子や威厳を気にするのに、どうしてこうも抜けてるんだろうね」


 月国の全てを懸命に背負う少女(アルテミス)を起こす事の無いように、メリュジーナは背中に感じる重みを慈しみながら、静かに少女の自室へと歩きだした。

 朝日の届かない冷たい通路に響く規則的な固い足音。だが、彼女に背負われている少女の表情は、春の日差しを受けているかのように穏やかなものだった。


 一方、甘い香りの充満する厨房に残り、黙々と床や調理台を清掃しているのはクローフィだ。

 いまだ湯気の残る大鍋。そこが発生源である粘性を持つ濃茶色のものは各所に飛沫し、不思議なことにその一部は天井にすら届いている。

 計量器の類もいくつか使用した様子で、調理台の上に乱雑に散らばっていた。

 その中でも、クローフィの目を引いた物の一つが、大量に付箋が貼られている一冊の本だ。

 少女がその本を手に取っている姿を、クローフィは一度も見たことがなかった。

 おそらく、今回の件を誰にも知られることなく完遂させようとしていたのだろう。だが、最後の最後で詰めが甘いというか……なんとも隙が大きすぎた。


「多すぎる材料、散乱した調理器具。はぁ……料理など、一人でしたこともないはずなのですが」


 当初、アルテミスがどれ程の量のものを作ろうとしていたのかは、クローフィにも断定することはできないが、封を切られた袋の中身と丁寧に包装された小箱の存在を確認した彼女の胸中は複雑なものだった。

 ほとんど空に近い袋に対し、片手で数えられる数しかない小箱。


 直轄の部下であり、最も親しいであろうクローフィたちに気取られることも悟られることもなく、今日まで多くの努力をしていたであろうアルテミス。

 日中は終わることなどない国政や、複数の会議、深域(アヴィス)への警戒と月の使徒の戦力把握等々、女神としてやらなければならないことは多岐に渡る。

 分刻みの予定(スケジュール)をこなして一息ついたころには、すでに日付が変わっていることなど決して珍しいものではない。

 そのような生活の中で、時間を作ることなど到底できるはずもなく、アルテミスは自身の休息の時間をこの日のためにすべて使っていたのだろう。


「その努力と熱意はとても尊いものだと思いますが……」


 白い言葉を漏らしながら改めて周囲を見渡し、視界に入る一つ一つのものの状態を確認していく度にクローフィの肩は小さく下がり、表情が暗くなっていく。


「ともかく、この状態を手早く元通りにして、リコスと合流しなければいけませんね」


 それでもクローフィが女神の補佐としての自覚を忘れることはない。

 こういった非常事態(アクシデント)こそが自分たちの活躍どころであり、心根の優しい女神に恥をかかせるわけにはいかないのだ。

 汚れている面積が多くなって来ていた雑巾を新しいものへと変え、ある種の惨劇が起きた現場を何事も無かったかのようするために、クローフィは行動を再開する。

 そうして、そんな夜明けからしばらく経ち、市街地のほうも賑やかさがあふれ始める時間となった頃……


「メリュジーナが行って来いって言うから来てやったし」


 唐突な訪問者による背後から聞こえたそんな声に、クローフィは動じることも手を休めることもなく、言葉だけをその者に向ける。

 

「一応言っておきますが、貴女の助力は必要ありませんよ。やっと、ここまで片付いたんですから」

「どういう意味だ! 何気に酷いし! メイだって掃除くらい真面にできるから! っていうか、メイは伝言を頼まれただけ」

「なら、その伝言を早く聞かせてください。私も暇ではないんです」


 急がなければと意気込んでいたクローフィであったが、伝言を頼まれたというムメイの来訪で出鼻を挫かれたような気分となり、僅かな苛立ちを感じていた。

 しかし、その伝言の内容というのがメリュジーナからの激励の言葉であったため、ムメイがそれ以上の皮肉や冷たい態度をとられること無く済んだのだが、本当にそれだけのために来たのかという疑問がクローフィの中に残る中、

 

「ん? ねぇねぇ、ここに置いてるこれ(・・)はどうする感じ?」

「それですか。後でアルテミス様に確認をとるつもりです」

「そんな事をする必要ないと思うし。だってこれ、メイたちの名前が書いてあるから貰ってもいいはずだもん」


 ムメイの目に留まったのは、丁寧に包装された五つの小箱だ。近づいてみるとそれらにはムメイ、メリュジーナ、クローフィ、リコスの名前が書かれた紙札(カード)飾紐(リボン)に挟まれている。そして、何も書かれていない物が一つ。

 厨房に漂う匂い、包装された紙札(カード)付きの小箱、今日の日付。これらを統合して考えた末にムメイが出した結論だが、他に考えようもないだろう。

 その言葉を聞いたクローフィは暫し逡巡をした後、無言のままで小箱のうちの一つを手に取り懐から取り出した収納石に入れると、何事も無かったかのように片づけを再開した。


「…………。じ、じゃあメイは残りの分を二人に届けてくるから」

「えぇ、お願いします。それと、リコスには直に向かうと伝えておいて下さい」


 あまりにも自然なクローフィの所作にそれ以上何も言うことができずに、調理台に並べられていた小箱の内の一つを自身の懐に収めたムメイは、残りの小箱を手に持って厨房から立ち去っていく。

 そんな、甘い優しさに包まれながら歩くムメイの表情は柔らかかった。

 いつもであれば冷たく感じる通路の空気も、何処か温かく感じられるのは、きっとただの錯覚ではないはずだから。



 ………… 

 ……



「アルテミス様が体調を崩されておられるとは……この状況、我々だけで政を進めていくしかありませんな」

「えぇ、ご無理が祟ってはそれこそ事です」

「やはり月国の象徴であるアルテミス様には、ご負担が大きかったのでは?」

「先代のこともありますし、しばらくの間はゆるりと療養していただきたいものです」


 月光殿内にある一室で行われている定例会議。

 しかし、実際のところは会議が始まってからというもの、今日の議題については何も触れられることなく、紫色の衣服を纏った者たちの何人かが普段以上にとある意見を打ち出すばかりであった。


”女神が体調不良のため、大事をとって今日明日は休養に専念する”


 リコスが会議の開始と同時に、どこか威圧感を含んだ声で宣言した後、会議どころではなくなっていたのである。

 ここのところはアルテミスの辣腕、国民の事を思って打ち出した政策などの成功によって、国民からの支持は右肩上がり。それに加えて、月の使徒全体の練度の上昇は目覚ましく、これについてもアルテミスの提案が採用されたからだ。

 もちろん、その裏ではクローフィとリコスの八面六臂の働きがあったに他ならないのだが、彼女たちがそれをわざわざ議会において口にすることはない。

 この場で好き勝手言葉を交わしている彼らの発言は、一見して女神の身を気遣っているようにも思えるが、結局のところはアルテミスを政から遠ざけたいという思惑が透けて見える。そんな中、


「失礼します。お茶をお持ちしました」


 会議室の扉で控えめな音が二度鳴ると、給仕担当の者たちの何名かが湯気の立つ紅茶杯(カップ)を載せた丸盆(トレイ)を持って入室してきた。

 すると、彼女たちは手慣れた様子で紅茶杯(カップ)を配っていく。

 それらを配られた面々が室内とはいえ冷える中、温もりを求めて紅茶に口を付けると、安堵感に満たされていた。


 短い期間ではあるが、元老院として弁えている部分があるとはいえこの協調性に欠ける者たちを、どうして纏めていこうかとリコスが嘆息していると、彼女の元にも温かい紅茶が運ばれてきた。


「リコス、様もこちらをどうぞ」

「あぁ、ありがとう」


 リコスは紅茶杯(カップ)を無意識的に手に取り口元に運ぶと、温かさと香りで内にある気持ちを落ち着かせる。

 そして、紅茶杯(カップ)長机(テーブル)に置こうと視線を降ろせば、そこには先程まではなかった見覚えのない小箱が一つ置かれていた。

 それには二枚の紙札(カード)が添えられており、一つには”リコス”という文字。もう一方には、この小箱を届けてくれた人物からの伝言が書かれていた。


「まったく、能力を使うのであれば、もう少し巧くやれと言っているだろう」


 見たことはないが知っている給仕の少女を窘めるような言葉でありながらも、その声音は優しく、鉄の表情にもどこか柔らかさが感じられた。


 それから少し経っても早すぎる小休止に気が緩んだのか、何人かは一日の仕事が終わったかのように談笑をし、会議室の正面に背を向けている。

 リコスが落ち着いた様子のまま瞳を閉じ、一度静かに呼吸を整えると、次にゆっくりと開かれた眼に宿る瞳は鋭利なものった。

 それに気付いたものは派閥を問わず、すぐさま居住まいを正して自分たちの誠意と謝罪を示す。

 だが、それに気付いていない者もいるようで……一瞥し、気を引き締めた者たちには特段声を掛けることなく、リコスは軽く息を吸い込み、怒気に染められた音を部屋中に響かせた。


「貴様らッ、それでも国を背負う立場の者か!」


 その怒声を背中に受けた者たちの肩が勢いよく跳ね上がり、恐る恐るといった様子で振り返ると、リコスの眼光を彼らを射貫いていた。


「不満ばかりを発し、談笑する口は達者でも、国のために回す頭は未熟のようだ。それほど帰りたいのであれば、今すぐこの月光殿から立ち去れ! そして、その後の厳正なる通達を自室で受け入れろ!」


 体の芯にまで突き刺さったリコスの鋭い言葉は、感情的なものと思えるほどに荒々しいものだった。

 その意味を理解するまでの数秒は誰も言葉を発することができず、物音一つすら立てる者もいなかった。


「リコス様、その辺りでよろしいですかな?」


 ただ一人、この元老院の核たるこの男を除いては。


「女神の不在で皆も少し気が緩んだのでしょう。今となっては、それだけ大きな影響力をもっておられるという裏返し。我々としても嬉しい限りです。幸いにも急く案件はありませんし、此度は解散といたしましょう」

「……はぁ、そうだな」

「では。君たちも退室し、しっかりと反省しておきたまえ。後の些事については、私とリコス様で話をしておきましょう」


 月国フェガリアルに於ける、反アルテミス組織ともとれる元老院の代表にあたるのがこのエパナス・フィロドクトだ。

 その彼が声を上げたことに、叱責を受けた紫の面々は胸を撫でおろした。

 そして、逃げるようにそそくさと会議室を後にし、それに続くように他の者たちもいなくなると、この場に残されたのはエパナスとリコスの二人だけとなった。


「はぁ……それで、私と何を話すつもりだ?」

「そのように睨まなくともよいではありませんか。アルテミス様が養生している間に元老院側(私たち)が勢いずくのを止める口実が必要だったのは、紛れもない事実なのですから」

「だからといって、貴様のような陰湿なやり方は今後とりたくないものだがな」


 先のリコスの発言は、何も感情的になったからではない。

 談笑し続ける彼らをエパナスが咎めることのなかった時点で、エパナスがリコスに求めていた言葉など、容易に想像ができるというものだ。

 

「それは誉め言葉と受け取っておきましょう。さて、これで二、三日は彼らも大人しくなるはず。無駄な会議をして紫の者たちを牽制しつつ、アルテミス様にはゆっくりと休んでいただける訳ですが……」


 反アルテミスを掲げながらも、月の女神に忠誠を誓うエパナス。

 彼はこの国にとっての必要悪であり、神として未だ未熟さの残るアルテミスを良く思っていない者たちの監視を含め、その手綱を握っているのだ。

 その徹底した腐敗議員としての立回りに、リコスたちですら敵意を向けてしまうほどであり、時に本当にこちら側の人間か疑ってしまうこともある。

 それはそんな役を担う彼にとっては喜ばしいことであり、他の者がいないところで小言を聞くこうした時間もまた、彼にとっては安息の時間でもあった。


 その後、合流したクローフィを加えた三人が、アルテミスが養生を終えるまでのことについての打ち合わせを続けること数時間。

 話に一区切りが付いたところで、クローフィが思い出したようにエパナスへと言葉を発する。


「そういえば、エパナス卿。貴方はまた何かやらかしたのですか?」

「ふむ、抽象的ですな。どいうことでしょう?」

「先ほど貴方の奥方から連絡がありまして……今日は帰ってこなくてよい、とのことです」

「…………おぉぅ」


 本来、今日という日は誰もがその想いを伝える日ではあるが、それが必ずしも幸せに繋がるというわけではないようだ。

 哀れな壮年の男の慟哭が響き渡る昼下がりであった。



 …………

 ……



 硝子越しに届く日差しは、次第にその熱量を失いつつあった。

 そんな中、メリュジーナは未だ目覚めぬ女神の傍で椅子に腰かけ、一冊の本に目を通しながら目覚めの時を待っている。


「……互いを思うあまり、互いに死を選ぶ。誰かがその全てを知らなけりゃ、本当に只の悲劇じゃないか。しかしだ、巷で人気の恋愛小説とやらもなかなか悪くないもんだね」


 今しがた彼女が読み終えたその本は、ここ数年の間で男女問わず人気のある作家が執筆したものの内の一つだった。

 富豪の家で育った青年と、天涯孤独の庶民の少女が出会い、惹かれ合って幾多の困難を乗り越えて添い遂げようとする、という有り触れた物語だ。

 当然、周囲はそんな身分違いの二人を認めようとせず、青年と外交官の令嬢との結婚を本人の意思とは関係なく進めていく。

 そんな中で彼の家に仕える家令は、孫のように成長を見守ってきた青年と少女が添えるようにと、思いもよらぬ策を青年に授けた。

 その策とは仮死の毒を青年に飲ませ、その日の内に葬儀を行い、その後に親族たちに見つからないように青年を起こし、少女の元に向かわせるというものだった。

 しかし家令の策は、葬儀に現れた少女によって破綻してしまうこととなる。

 参列者と同じく青年の死を悲しみ泣き崩れた少女は、青年と共に棺桶に入れられていた儀礼用の短剣を手に取ると、躊躇うことなく自身の喉元に勢いよく引き寄せたのだ。

 広がる葡萄酒色の池、広がる幾つかの悲鳴、中には気を失う者まであった。

 そして、毒の効力が切れて目覚める青年。

 彼が周囲を見渡せば、喪服の親族や友人たちの姿と……

 誰よりも自分の近くて――深紅を着て倒れている最愛の少女の姿。


 青年は少女の名を叫んだ。叫んで叫んで叫んで叫んで、叫び続けた。

 棺桶から起き上がり、動かぬ少女を抱き寄せて尚も叫んだ。

 そうして、ふと視界に入った宝石のあしらわれた儀礼用の短剣に誘われるが如く握り締めると――


 少女が最後に触れた物。少女の最期を示した物。

 愛を捧げる者を失った青年に未練は無かった。

 愛してくれる者を喪った青年に悲願は有った。


”――生まれ変わったら、彼女と共に”

 

 そうして、生者のいない死者の葬儀は終わりを告げたのだった。



「なに? Re Gret(後悔)? メイもその本は読んだけど、あんまり面白くなかったし」


 扉の開閉音に気をつけながら部屋に入ってきたムメイは、メリュジーナの持つ本の作品名(タイトル)を見てそう零した。


「そうかい? まぁ、好みは人それぞれって言うしね」

「そもそも! なんだし、そり遊びしてたら転んで雪だるまになったところとか、大きく成長しすぎた竹を抜くとか! 雲まで届いてるなら切れっての! なにより、作者の名前も”ポッチー”とかふざけるなし!」


 この作者(ボッチー)が書く物語の大筋は恋愛小説であるのだが、敢えて言葉を選ぶなら非現実で無駄な(ユーモアのある)章が何気に多いのだ。

 そういったものも含めて、賛否両論ありながらも多くの支持を得ている。

 そんな、多くの人の思いを代弁するかのようなムメイの言葉に声を殺して笑いながら、メリュジーナはその本を副机(サイドテーブル)に置いた。

 その反応が不本意だったのか、ムメイは頬を盛大に膨らませて反論の意思を示すが、落ち着きを取り戻したメリュジーナが彼女を宥めるように口を開く。


「ふふっ、あんたのそういった真っ直ぐなところが美点だと思ってるんだよ、あたいは。……くっ、ふふ」

「そんなに笑うならもういいし。メイにはまだ行くところがあるから。これは置いていくし」

「はいはい、ありがとね」


 そうして、来た時と同じように静かに去っていくムメイ。

 再び静寂を取り戻した室内では、先ほどまでの表情とは異なる寂し気な笑みを浮かべるメリュジーナが、副机(サイドテーブル)に手を伸ばしていた。

 その先にあるのは丁寧な包装のされた小箱。それはアルテミスが日々の疲労と心労に負けることなく作り上げた、渾身の品の内の一つだ。

 しかし、彼女は箱を開けることなく掌で包み込んだまま、優し気な瞳を規則的な呼吸を続けるアルテミスに向けるだけだった。


「もう少し……もう少しくらいは、さ。素直になっていいんだよ、あんたはね」


 届くことのない言葉だが、きっと届くと願いながら、メリュジーナは暫くすれば起きるであろうアルテミスのために、飲み物を取りに厨房へと足を向けた。

 辛さや苦しみを少しでも和らげれるように、温かく甘いものを求めて。

 甘さに溶かされたくはないと口にする、孤独を抱える(苦味を求める)少女のために。




 …………

 ……




 かの男は珈琲を嗜む者だった。

 砂糖も飲乳も入れず、ただ苦いだけの黒い液体を。

 それを教えてくれたのは、男の親のような人だった。

 その人は今日という日をとても大切にしている人だった。

 チョコレートと珈琲のように、甘味と苦味を教えてくれた人だった。

 その人は確かな愛を与えてくれた人だった。


 命短し恋せよ乙女……外界では戦う者とそうでない者との間で、恋愛的感覚が大きく違っている。何故なら外界の者は内界の者よりも、若く長寿であるからだ。

 だが、戦う者たちにとって長い寿命というのはあまり意味を成さない。

 たとえ女としての美貌いのちが長く続いても、命そのものがそうではないからだ。


 人はいつか死ぬ……いや、いつ死ぬかわからない、というのはどの世界でも共通して言えることだろう。

 ただ、この世界においての死が、より身近にあるというだけの話だ。


 故に、命短し恋せよ乙女……その意味の捉え方が異なるのも無理は無い。

 戦いに身を置く者たちほど、添い遂げる相手を強く求めている。

 女としての灯火が消え去る前に、人としての灯火が消え去る前に、愛という名の灯火を燃やしたいと……そう願わずにはいられないからだ。


 だから、男はこの日が苦手だった。

 それはきっと、この日が少女たちにとって無益な日になると知っていたから。

 

 故に、男は珈琲が好きだった。

 甘い幻日(現実)から引き戻してくれる、黒くて苦い珈琲が。


 そうすれば、内に浮かんだほろ苦い感情を溶かしてくれるような、そんな少女たちの甘い笑顔に包まれていても、己の役目を見失わずに済むから。




 …………

 ……




「手作り。想いの込められた、一品……」


 呟いている本人ですら何を言っているのか聞き取れない程の小さな声。

 人通りの少ない道で、僅かに左右に揺れながら目的の地に向かって進む。

 そんな、どこか虚ろに歩を進める彼女の姿は、見る者によっては闇夜を彷徨う亡霊……命無き者にも見えるだろうか。

 その足取りはおぼつかず、それでもその足に迷いだけはないように思える。


「この想いは……誰の、もの? 誰に……向けられた、もの?」


 疑問が浮かぶ度に別の疑問に塗り替えられ、独り問答は続いていく。

 揺蕩うように往く先にあるものは、果たしてその者自身が望むものなのか。


「知ら、ない……しらな、い……シラナイ……」


 無知であることと、未知であること。

 その二つが重なったときに生まれるものは全知か、それとも――


『アイ……シテ、ル』

 

 それは深淵成る混沌の存在証明(イグジステンス)

 

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