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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
31/55

27.深淵成る魔滅と魔芽

 

「今は亡き鬼神の魂は英雄と共にありて、其の姿は無くとも其処に在る。たとえ時代が忘れても、彼らは決しての異形を赦しはしない。故に今日というこの日だけは、彼らは嬉々として外の中界せかいを夜行する。たとえ忌み嫌われようと、鬼にだって護りたいものはあるのだから……」


 ――さぁ、練り歩きましょう



 …………

 ……


 

 雲に覆われている訳でもないのに辺りは暗く、月の光さえも見当たらない冷たい空が何もない地上を見下ろしている。

 その地上も草木は枯れ果てており、どこまで見渡せどただの荒野でしかなく、空に負けない冷たさを孕んで、煌めきのない空を見上げていた。

 満ちた魔素の濃度は内界はもちろん、外界に比べても極めて高く、とてもじゃないが人の住めるような環境ではない。

 そう、ここは中界だ。

 かつて緑豊かで生命に満ちあふれていたガイアのなれの果て……カオス。


「ふぅ……これで一通り回ったかしらね」


 そう言った少女の吐く息は白く、空気の冷たさのせいで頬も少し赤らんでいるようだ。対して、彼女に付き従う者たちは一切そういった冷たさを感じているようには見えず、異質な空気を纏っていた……が、それもそのはず。

 そもそも、少女の付き人たる者たちは、人間ではないのだから。

 

 彼女たちが見渡した、幾つかの天幕(テント)が篝火の明かりに照らされているこの場所は、月の使徒たちの野営地だ。

 外界の各国に開いている深域(アヴィス)の先に存在する失墜した混沌の地。

 なぜこんな降魔の巣窟ともいえる危険な所に、月国の者たちがいるのかといえば、外界すべての国を挙げての一大作戦、漸減作戦の為だった。

 減っているようには見えない、寧ろ勢力を増しているようにさえ感じられる降魔の数を、莫大な戦力を投入することによって大きく削ぐというものだ。

 それには当然、多くの資金や物資が必要であり、すべての国が同時に行える機会はそうそうない。

 故に、中途半端な戦果では意味がなく、各国の深域(アヴィス)から進軍する大規模な部隊と歩調を合わせ、徹底的に降魔を間引かなければならない。


 そんな重要な作戦の最中、皆が寝静まった深夜に音もなく、ただ静かに周囲を歩いていた少女たちが何をしていたのかといえば……

 一般的に広がっている節分の起源……そう、追儺(ついな)だ。

 

「それじゃあ、そろそろ戻りましょうか」


 寒さが身に応えたからなのか、少女は僅かに鼻を啜り、物言わぬ人ではない彼らをを引き連れて、一際大きな天幕(テント)に向かって歩き出した。

 その厳かな足取りに倣い、ゆっくりと後ろをついて行く人外の者たち。

 紅き者は猛々しく、蒼き者は険しい表情を浮かべ、黒き者は静かなる歩みに過去を重ねる。

 彼らはその昔、冥国オスクロイアに住まう貴族悪魔(ゲーティア)の最高位支配者と決死の覚悟を持って戦い抜いた、鬼族悪魔(デモニア)の者たちの誇りであり、英雄として讃えられている伝説の三鬼だ。

 しかし、彼ら三鬼は既に存命しておらず、ここにいる者たちはその姿を精密に取り繕っているだけの存在にすぎない。

 厄を祓う儀式において、彼らほどその役に適している者はいないというのも姿を借りている理由の一つではあるが、何より彼らのことを忘れてはならないということが最も大きな理由だった。

 

 そうしてしばらく歩いていると、艶やかな髪を左右に結った少女とその一行は、目的地である天幕(テント)に辿り着いた。

 暗い荒野から蛍光石の明かりのある天幕の中に入ると、先ほどまで感じていた冷たさは完全ではないが低減している。

 それに加え、ここには気の知れた者だけしかいないということもあって、月国を統べる女神アルテミスは、僅かに疲れた様子を隠すことなく、後ろを付いて回って来ていた彼女たちに声をかけた。


「ムメイ、戻ってきたしもういいわよ。クローフィもリコスもお疲れ様」


 その言葉を聞くのと同時に漆黒、紅、蒼の鬼たちの姿が歪み始めると、その輪郭と周囲の空間との境界線が曖昧になっていく。

 そして最後には鬼の姿は消え去り、人間と人狼(リュカリオン)吸血鬼(ヴェリラス)の三人が現れた。


「さ、寒かったし! 前に来た時より、なんか冷たくなった気がするんだけど」

 

 身震いし、開口一番愚痴を零したのはムメイだった。

 すると、戻って来た四人を労うのは留守を任されていたメリュジーナだ。


「はいはい、お疲れさん。ほら、これでも飲んでゆっくり休みな」


 メリュジーナは薄っすらと湯気の立ち上る紅茶杯(カップ)丸机(テーブル)に人数分並べると、少し大きめの蝋燭台に転がっている発火石の火を強めた。

 ムメイ、クローフィ、リコス、月国の要となる女神アルテミスが椅子に座ると、次いでメリュジーナも椅子を引いて腰を下ろす。

 昼夜問わず、光の届かない此の地での宵闇のお茶会の始まりだ。


「ぷはぁ~、温かくて美味しいし」

「ほんと……貴女のそれはいつ見ても不思議ね」

「え?」


 きょとんと首を傾げるムメイの口は薄手の布に覆われたままだ。

 それでいったいどうやって、いつの間に口にしているのか。

 ムメイ曰く、素顔は裸を見られるのと同じくらい恥ずかしいとのことらしいが、彼女の素顔を知っているのは、彼女が御殿様と呼ぶ彼の男だけだろう。


「まぁいいわ。冷めないうちに貴女たちも飲みなさい」


 紅茶杯(カップ)に口を付けると甘い香りが口腔から鼻に抜け、気持ちが安らぎ、食道から胃に降りた熱がゆっくりと確実に冷えた身体へ広がっていくのを感じる。

 しかし、その温かさに浸っているのはアルテミス、ムメイ、紅茶を用意したメリュジーナの三人だけだった。

 残る二人はこの天幕(テント)に着いてからも一言も言葉を発することなく、何かを堪えているかのように無表情のままだ。

 いや、彼女たちの表情が感情の起伏に乏しいのはいつものことだが、とある部位が不機嫌さを象徴するかの如く、僅かに逆立っているのは気のせいではないだろう。

 その理由をアルテミスはある程度察してはいるものの、決して自ら深入りをすることなく、当人たちの問題として静観に徹している。

 だが、その当事者の一人であるムメイは、二人のことを気にした様子も一切なく、むしろ上機嫌で用意されていた紅茶と御菓子を堪能していた。

 彼女たちを知る者が見れば、状況はまさに一触即発。何がきっかけで二つの火山が暴発するともわからない此の場所で、不敵な笑みを浮かべた者が口を開く。


「それじゃあ、そろそろあたいのとっておきを――」


「ムメイ、やはり私はあなたを許せそうもありません」

「ムメイ、貴様の過ちを私が正してやろう」


 メリュジーナが何かを言おうとしていたが、静かなる怒りに震えるクローフィとリコスの声によってそれは遮られ、不敵な笑みは萎んで消えた。

 不意に自らの名前を呼ばれたムメイは、頬張っていた焼き菓子を飲み込むと、僅かに顔を顰めながら二人の方へと視線を向ける。

 すると、彼女たちは椅子から立ち上がり、座っているムメイの両側に立つと、何も言わずに頷き合ってムメイの両脇に腕を通した。

 そして、彼女の腕をしっかりと掴みながら、二人掛かりで持ち上げる。


「あ、え!? ちょ!? どど、どういうことだし! は、離せーっ!」


 両腕を拘束された状態のムメイが必死に抵抗すものの、二人の細腕から発揮される力は強大で、とても緩みそうもない。

 人狼(リュカリオン)吸血鬼(ヴェリラス)膂力(りょりょく)に敵うはずもなく、そのまま半ば引きずられるような形で、ムメイは天幕の外へと連れ出されてしまった。

 そして、暗く寂しい、不気味な荒野を歩くことほんの少し……


「さて、この辺りでいいでしょう。リコス」

「あぁ、こっちは大丈夫だ」


「い、いきなり人を連行して勝手に話を進めるなし! って、いつの間にかメイの腕にロープがっ!?」


 暖かい天幕から再び冷たい中界の空気晒される中で、洗練された華麗なる手際によって、クローフィとリコスは自分たちの腕よりも太い綱をムメイの腕に外れることのないように括り付けた。

 そして、その綱の先にはどこに用意していたのか、人の頭よりも大きな石のようなものが繋がれている。


「お、重っ、これ絶対に普通の石じゃないし! そもそもこんなものいつから用意して……あぁっ! いつの間にか足にまで繋がれてる!?」


「偶然にも、収納石の中に入っていただけです。明日の出発時間までの辛抱ですよ」

「あぁ、偶然にも入っていたから使ってみた、それだけことだ。それと、魔弾や魔砲を使うのは止めておけ。ここは中界なんだからな」


 力を振り絞ってその場から動こうとするも、繋がれた先にある物体は微動だにせず、両腕に括り付けられた綱も片手づつでは解けそうもない。

 それどころか、足にまで繋がれた綱の結び方は非情に強固で、たとえ両手が使えたとしても、ムメイの力では解くこともできないだろう。

 加えて、リコスが忠告したように、降魔の跋扈(ばっこ)する中界で魔弾や魔砲を使用すれば、その音や光、魔力反応を感知した降魔が枚挙してきてもおかしくはない。


「ふざけんなし! メイにこんなことしていいのは御殿様だけなんだぞ! ここまでするなんて大人げないと思わないのかー! 絶対に御殿様に言いつけてやるし!」

 

 今にも泣き出しそうな表情で、憚ることなく声を上げる哀れなムメイ。

 だが、クローフィとリコスは彼女の慟哭を背に、温かい紅茶の香りのする天幕へと振り返ることなく戻っていった。


「ただいま戻りました。淹れなおしてくれたんですね、ありがとうございます」

「すまないな」


 二人が天幕に入ると、新しく淹れ直した紅茶が丸机(テーブル)には並べられており、その香りは先ほどよりも爽やかなものに感じられた。

 先程は気付かなかったが、普段の月光殿でよく漂っている香りでないそれは、メリュジーナのとっておきなのだろうか。

 心なしか彼女の機嫌がいいように見えるのも、決して気のせいではないだろう。


「あ、そういえばメリー。貴女、さっき何か言いかけてたみたいだけど?」


 熱の残る紅茶杯(カップ)を静かに丸机(テーブル)に置きながら、アルテミスがメリュジーナに声をかける。

 すると、メリュジーナはその言葉を待ってましたと言わんばかりに、悪戯な笑みを浮かべながら、収納石から幾つかの紙袋を取り出した。


「……!? こ、これは」

「おや、やっぱり人狼(リコス)にはわかっちまうか。なら、勿体ぶらずに開けるとしようかね」


 そう言って、メリュジーナは訝し気な表情を浮かべるアルテミスとクローフィへの説明を後回しにして、丸机(テーブル)に置かれた紙袋のうちの一つの封を開けると、その中身を取り出した。

 そこから出てきたものを端的に言うなら、木の器。

 四つの側面と底面に使われている歪みや反りの無い丁寧に加工された木材は、そのすべてが釘を一切使うことなく接合されている。まさに職人技というものだ。


「……(ます)、ですか。よく出来たものですが」

「まさか、お茶会にそれなの?」


 アルテミスの呆れた声にも動じることなく、メリュジーナは升の入っていた紙袋を持ち、その中身を注ぐように紙袋をゆっくりと傾けていく。

 すると、小気味よい連続する音と共に、小さな球体が幾つも升の中へと雪崩れ込み、瞬く間に升から溢れそうになるものの、


「っとと、これで良し。さぁ、思う存分食べておくれよ」


 メリュジーナは紙袋の中身を器用にも升から溢すことなく、文字通り山盛りにした。

 それを差し出されたアルテミスは小さく溜息を吐き、頭を抱えるのを堪えながら口を開く。


「念のため聞いておくけど、これは全員で分けるために入れただけで、残りの紙袋の中身も豆だなんてことはないわよね?」

「ん? あぁ、もちろん中身は全部豆さ」


「「「…………」」」


 漸減作戦中だというのにも関わらず、まるで日輪のような笑みを浮かべ宣うメリュジーナ。

 かたや、唖然、呆然、愕然とし、思考が凍てついた月国の要人たち。

 訪れた僅かな沈黙は永く感じられたが、三人は自力だけで平常心を取り戻すことに成功した。それは数ある面倒に対する経験が活きた瞬間でもあった。


「今日はもう休むわ」

「明日も早い。私も休ませてもらおう」

「それでは、おやすみなさい」


 そして、その状況を乗り越えるための最適解を彼女たちは行動に移した。

 だが、三者三様に言葉を残して素早く立ち上がり、丸机(テーブル)から離れようと身体の向きを変えたところで、不意に溢したメリュジーナの言葉が三人の足をその場に留まらせる。


「残念だねぇ。とある屋敷の主からって、灰色の番狼が持って来てくれた物なんだけど……勿体ないし、あたい一人で食べようか」


 アルテミスたちにとってその言葉は効果覿面であり、彼女たちは瞬時に椅子へと着席し直すと、両掌を合わせながら揃って口を開いた。


「「「いただきます」」」


「ふふっ。直ぐに新しいお茶を淹れるよ(ほんとわかりやすい子たちだね)」


 その後暫くの間、彼女たちは特に会話をすることもなく、ただ黙々と升に盛られた豆を口の中へと放り込んでいく。

 みるみるうちに豆はその量を減らしていき、升の半分まで体内へ収められたところで、アルテミスの口腔内から固い音が発せられた。

 あまり上品ではないが、彼女が自身の口腔内からその原因と思われるモノを出してみると、それは他の豆とは異なり焦げたように黒く変色している。


「食べ物は粗末にしたくないけど、これは流石に食べられないわね」


 そう言って、アルテミスは黒くなっている豆を塵紙に包んで屑籠へと捨てた。

 家事全般隙の無い屋敷の魔女とはいえ、大量の豆を煎ったのであれば、一部の豆が焦げてしまうのも無理もない話だ。

 だが、らしくないと言えばらしくない。彼女の性格を考えれば、きちんと選別していそうなものなのだが。


「さて、と」


 すると、頃合いと思ったのか、メリュジーナは一人立ち上がりると、天幕(テント)の外へ向けて足を進めた。


「どこへ行くのですか? 貴女は見張りに含まれていないはずですが」


 口に運ぼうとしていた豆を指で挟んだまま、首を傾げるクローフィの言葉を背中に受けたメリュジーナは、半身になって振り返りながら、いつもの悪戯な笑みを浮かべて言葉を返す。


「そろそろ、ムメイをなんとかしてやらないといけないだろう?」


 屋敷から届いた豆に夢中になっていた三人は、外にいる哀れな少女を本気で忘れていたことを思い出すと同時に、この豆には何か力(魔性)があるのではないかと思ってしまった。

 そして、顔を見合わせた三人は、互いが互いに同じことを考えていたと察したのだろう。


「ま、まさかね」

「えぇ、そうですね。まさか……」

「あの御方が、豆にまで魅了の術を施すことができたとはな」

「み、魅了!? って、あの男にそんな力ないから!」


 自分の嫌う男に入れ込む二人に反論しつつ、少女は手に持っていた豆を、どこか遠い情景を重ねるように哀愁漂う瞳で見つめていた。



 …………

 ……



「や、やっと助けが来た! 早くこの綱を何とかして欲しいんだけど! この寒さで朝になったら、メイは絶対氷漬けになってるし!」

「ははっ、そうなったら砕いて、蜜柑シロップでもかけてあげるさ」


 涙を浮かべて助けを求めるムメイに冗談で返すメリュジーナは、そのままムメイに近づきしゃがみ込むと、足に繋がれた綱を両の手で掴んだ。

 人の腕よりも太く、鋼鉄の様に硬い綱。

 それを見たムメイは、今にも引き千切ろうという体勢のメリュジーナへと、その行動が無為に終わるであろうことを告げようと口を開く。


「え、ちょっ! いくらメリュジーナでも、この綱は無理な気が、ああああぁぁっ!?」

「明日に備えて休んでいる奴らもいるんだ。静かにしてやりなよ」


 規格外とは、正にこの事ではないだろうか。

 ムメイの忠告は無為に終わり、メリュジーナは全ての綱をいとも容易く引き千切ったのだ。


「久しぶりの自由だぁ! おかげで助かったし」

「これくらいお安い御用さ。それにしても、どうして屋外追放(こんなこと)になったんだい?」

「そんなのメイが知りたいぐらいだし。メイは正々堂々と、ジャンケンで勝ったから漆鬼の役をやっただけだもん」

「あぁ……なるほどねぇ、やっぱりそうかい」


 つい先刻行っていた練り歩きの配役に、不満があっての行動なのだろうとメリュジーナは確信に近い推測をしていたが、やはり間違いではなかったようだ。

 正確なところを知る者は少ないが、漆鬼、蒼鬼、紅鬼は三鬼刃と呼ばれていたと同時に、現在まで受け継がれている三英雄の原点でもある。

 そして、ムメイが役を担った漆鬼は、三英雄の一人であるとある屋敷の主が受け継いでいるとされている位なのだ。


「ま、あの二人の入れ込み具合は今に始まったことじゃないんだから、あんまり責めてやらないでおくれよ? ほら、これあげるからさ」

「いくらメリュジーナの頼みでも無理な相談だし。そんなものでつられると思われてるなんて、ちょっと心外なんですけど」


 メリュジーナが取り出した小袋を一瞥し、ムメイは拗ねたように頬を膨らませて見せた。


「ん~、そうかい。それじゃ、あんたの御殿様からのこれは、クローフィとリコスにでもあげようかね、あっ」

「メリュジーナの頼みだし、仕方ないから聞いてあげるし。その変わり、これは全部メイのだから」

 

 素早くメリュジーナの手元から小袋を奪い取ると、中を開いたムメイはその表情を輝かせた。

 そんな彼女の横顔を見ながらメリュジーナは微笑むと、背中を軽く叩きながら歩き出す。


「そろそろ戻ろうか」

「ま、待つし。あの二人の罰として、空になったこの袋を叩き付けてやるんだから」


 そう言って、メリュジーナの背を追いながら、ムメイは慌てた様子で小袋の中に入った豆を口に含んでいく。

 すでにクローフィとリコスの二人はその豆を食しているのだから、空になった袋を叩き付けたところで悔しがることもないのだが。

 そうして、そんなに量も多くなかった豆が、後少しで袋の中からすべて消え失せようとしていたとき、ムメイの表情が渋いものへと変わっていく。

 その原因を取り出してみると、掌の上には変色している黒い豆。

 

「っ、うぅ……食べ物を粗末にすると御殿様に叱られるけど、これはさすがに食べられないし」

 

 ムメイは黒い豆に小さくごめんなさいをすると、荒野に軽く投げ捨てた。

 すると、地面に転がった黒い豆は……


「…………」


 彼女の吸い込まれそうなほどに深い瞳の中で、淡い紫黒の粒子となって溶けて消えた。


「なにやってんだい?」

「……え、あ。なんでもないし」


 そのまま二人は、寒い中界の夜から温かい天幕(テント)へと戻っていく。

 距離にすれば目と鼻の先ではあるが、その二つは全く異なる空間でありながら、同じ世界であることを忘れそうになるように感じられた。


 ここは深域(アヴィス)の先に存在する失墜した混沌の地。

 ここは数多の生命の灯火が消えた浮上の世界。

 そして、それはいつか、必ず取り戻さなければならないものだ。

 故に朝になれば戦士として、この悪意の跋扈する大地を進み剣を振りかざす。


 すべては各々の胸にある、大切な何かのために。





 …………

 ……

 




「ほぉら、だから言ったのに……」


 凍てつく漆黒の世界の中で、ぽつりと呟く者がいた。


「豆を煎って、魔滅にしたつもりが……魔芽になっているのだもの」


 そこには何もなく、総てが在ったはずの世界。


「あはッ、あははははははっ!」


 声の主は歪んだ微笑みを浮かべながら、可笑しそうに嗤っていた。

 独りの嗤い声だけが、この世界に響き渡る。


「アナタが抵抗すればするほど、其の世界の抵抗も激しくなる。だから、ね。アナタのことを救ってあげる。アナタの宿業を断ち切って、その運命を変えてあげる」


 止まった水面は独白を始める者を静かに映す。


「あぁ……ようやくね。ふふっ、長かったわ」


 紅潮する両頬に手を添え、水面に映る恍惚(こうこつ)としたその表情は、とても甘く艶美なものだった。


「アナタだけのワタシの想いが、ワタシだけのアナタのセカイに……」


 その者の視る物語は誰もが見入る喜劇でも、誰もが惹かれる悲劇でもなく――


「……届いた! あはッ!」


 ――ただの惨劇。

 


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