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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
25/55

21.初雪の月は叢雲花に風

 

 日中の陽射しが未だに強く感じることはあるものの、纏わりつくような熱気は無く、時折り心地よい風が吹くこの季節。

 明け方の涼し気な空気や日が落ちてからの虫の音が、時節の移り変わりを感じさせてくれる。

 そんな中、月国フェガリアルの下層区域にあるルーフィリアのお屋敷では……


「モミジ、形が歪すぎるぞ」

「こ、これくらいは許容範囲内です……そのはずっす」


 明確な四季というものが存在する地国テールフォレと違い、月国は一年を通して秋に近い気候ではあるものの、巡る季節を楽しむ行事が幾つか伝わっている。


「シラユキ、その調子だと日が暮れる」

「もうすぐ完成するから、少し黙っててくれるかな?」


 それらの行事や祭事の由来や本来の意味を知る者は多くはないが、それでも廃れることなく今も尚続いているのは、やはり大切なことなのだろう。


「そんなに大きなものを作ってどうする気だ、ツキノ」

「どうするもこうするも、兄さんに食べて貰うに決まってるじゃないですか」


 その内の一つ、仲秋の名月を観賞する――観月を行うため、ユーフィリア家の面々はそれぞれがその準備に尽力していた。

 今日に限り、魔女の聖域(キッチン)へ立ち入ることを許された四人と一匹は、慣れないことに悪戦苦闘しながらも作業に没頭している。一匹に関しては他の四人を監視するために、この場に同席しているわけだが……


「ロザリー、せめて丸めるくらいできないのか?」

「反論。何もしてないフォル君に言われたくない」

「そうっすよ。少しは手を貸して欲しいっす」

「それとも、番犬はただ見てる事しかできないのかな?」

「ですが、猫の手も借りたいほど忙しくても、犬の手じゃちょっと……」


 ブリジットの指導受け、観月に於ける主役とも言える月見団子作りを懸命にしていたツキノ、モミジ、シラユキ、ロザリーの四人ではあったが、事あるごとに口出しをしてくるフォルティスに苛立ちを隠せないでいた。

 確かに、狼であるフォルティスが小麦粉や水などの材料を混ぜ合わせ、捏ねて団子を作ることなど、その前足でできるとは彼自身ですら思っていない。


「…………」


 しかし、フォルティスは彼なりに今回の観月という行事を父親(ロウ)の為にも成功させたいという想いがあり、良かれと思って口を開いていたのだ。

 不満の声を聞き、鋭い視線を向けられた彼はそれを受け止め、それでも臆することなくツキノたちへと言葉を投げかける。


「お前たち、黙っていれば好き勝手な事ばかり!」


 声を荒げ、威嚇するかのように全身の毛を逆立てた彼は、器用にも後ろ脚だけで身体を支えて立ち上がり、前足を調理台に勢いよく叩きつけた。

 そして、突然のフォルティスの行動に狼狽える四人に対し、彼は負けじと彼女らの発言に対する不満をぶつける。


「俺は犬ではない! 狼だ! 猫よりも役に立つし、強い!」


 やはり、蛙の子は蛙であり、あの親にしてこの子あり。

 ただ、譲れない信念や矜持があるのは確かに素晴らしい事ではあるのだが、そのすべてが必ずしも人の心を打つものだという訳ではない。


「フォルっち、そんなこと言っていいんすか? セツ姉ぇが聞いたら……」

「驚愕。さすが勇敢なる灰狼」

「どういうことだ?」

「だね、セツナ姉さんの方が役に立つし強いかな」

「セツ姉さんって、隙がないというか……兄さんと同じでなんでもそつなくこなしますからね」

「…………」

「あれ、どうしたんすか? 顔色悪いっすよ?」


 本当に狼の顔色の悪さがモミジに分かるのかは定かではない。

 しかし、遠くで扉の開く音と誰かの声が聞こえてくるものの、団子作りを再開した四人と、全てを吐き出し灰から白へと変わったフォルティスの耳には入ってこなかった。


 …………

 ……


 少しばかりの肌寒さを感じる風に吹かれて揺れる竹林。

 湖面は僅かに波打ち、胸の騒めきを写しているかのようにも感じられる。

 以前、()の闇が訪れた激戦の地であったことが感じられないほどに美しい景観と、厳かな空気の漂う中に立っているのは、鮮やかな朱色が目を惹く一つの社。

 竹林に囲まれた中で存在するそれは、ここが月国であることを忘れてしまうほどの異国情緒溢れるものだった。

 シンカたちはこの湖畔の社で、今晩行われる催事の準備を進めていたのだが、


「シンカ、こちらの支度は終わりましたけど、他にすることはありますの?」

「ありがとう、クベレ。そうね、私の方も丁度終わったところだし、ブリジットたちが戻ってくるまで一休みしましょ」


 床を掃いたり拭いたり、ちょっとした装飾や敷物の配置、虫除け用の御香に火を付けたりなど、様々な事を各人で分担していたのだが、それも一段落したことで残りの作業に備え、ちょうど小休憩を取ろうとしていたところだった。


「なら、私は向こうが終わってるか確認してくるわね」


 しかし、リンは視界に入った少女の姿に溜息を漏らすと、呆れたようでありながらも優し気な表情を浮かべ、駆け寄ってくる少女と入れ替わるように歩みを進めた。


「わたくしも言われた通りにしました! なので、もう休んでいいですか?」

「こ、こらシエル、片付けを此方(こなた)にだけさせるでない」


 この場の荘厳さなどお構いなしに、今日も今日とて、黒白の翼を広げる天使のシエルは己の感情と本能のままに行動している。

 彼女と同じ作業を任されていた妖精であるロリエは、控えめな言葉を漏らしながら困り顔で歩いてくるが、シエルを疎ましく思っているという訳ではない。

 長い時の中、家族も友人もおらずにたった独りで生きてきたロリエにとっては、他者との関わりがとても楽しく思えるのだ。しかし、初対面の者に対して緊張しすぎるという彼女の抱えた問題は、なかなか直せそうもないのだが。


「休憩するなら、きちんと手を洗ってからね。ロリエもありがとう、大変だったんじゃない?」

「いや、そんなことはなかったのだが………ただ、こんな日が来るとはあの頃は考えもしなかったなと、そう思っての」

「なにを辛気臭い顔をしていますの。そんな日がこれからも続くのですから、素直に笑っておきなさいな」


 二人の会話に割って入ってきたクベレは口調こそ呆れたようなものだったが、その口許はどこか緩んでおり、とても穏やかな表情だった。

 シンカが外界へと渡ってきてから、共に過ごしてきた仲間の中でも特に彼女の事を慕っているシエル、クベレ、ロリエの三人。

 彼女らはそれぞれに背負ったもの、囚われていたものがあった。

 しかし、今ではそんなことも乗り越え、シンカの傍で前を向いて進んでいる。


「そうね。私もそれがいいと思うわ」


 そんな彼女たちとの出会いを思い返しながら、先程向こうの様子を見に行ったもう一人の過去を乗り越えた少女の事を思い出しながら、シンカは温かな微笑みを零した。


「どこにいても相変わらず姦しいでありんすね」

「それは貴女の主様の周りも同じなんじゃない?」


 袖口で口許を隠しながら、社の中から姿を見せたのは天狐の魔獣ルナティアだ。

 黄色を主とした着物を身に纏うその姿は、色香がありながらも僅かに儚さが漂うっているように感じられる。


「なかなか手厳しい……少し、ブリジットに似てきたでありんす」


 そう言って、ルナティアは社の周りを囲っている竹林と、秋風に撫でられている湖面を穏やかな眼差しで眺めた。

 すでに戦禍の後は無く、平穏だけがそこにはある。それは喜ばしいことだ。

 しかし、今だからこそ思えることではあるが、あの悲劇が無かったことになるのではないかという微かな不安が胸の奥に残っているのも確かだった。

 あの日があったからこそ思い出すことのできた思い出が、無かったことになるのではないか……人々の記憶からも、世界の歴史からも砂城のように消え去ってしまい、最後には自らの記憶からも無くなってしまいそうに思ってしまう。

 いや……事実として、今あるこのひとときの記憶など、いずれ――


「ん? どうしたでありんすか?」

 

 そんな暗く冷たい想いを巡らせていた彼女の思考を遮ったのは、視界の端に映ったシエルの姿だった。


「そ、それは困ります。ブリジットが二人になると、わたくしの安らげる時間が少なくなるではありませんか」


 身を震わせるシエルの零した言葉は、悲痛でありながらも実に気の抜けるような言葉だった。見るからに挙動不審な様子でクベレやロリエに交互にしがみ付きながら、縋るように彼女らの体を揺らしている。

 しかし、そんな忙しなく動くシエルの行動に慣れているのか、クベレとロリエ呆れた様子で冷たくあしらい、互いに押し付け合っていた。


「別に良い子にしてたら怒らないわよ」


 苦笑しながらシンカが言葉を掛けるものの、この場において彼女よりも物理的に怖ろしい存在が、重ねるようにシエルへと言葉を掛け問い掛ける。


「ねぇ、シエル。向こうがまだ片付いてないみたいだけど、いったいどういうことなのかしら?」

「リ、リンっ!? それはこれからするつもりだったので、決してサボっていたわけではありません! サボっていたわけではないのです!」


 いつの間にか戻ってきたリンの言葉に動揺し、必死の弁明を試みるシエルではあったが、とても綺麗な笑顔を前に場の空気が凍てついた様に感じられた。


「なら、早く済ませてきなさい」

「ははは、はいーっ!」


 あまりにもこの世界とかけ離れたやり取りに、ルナティアの口許が思わず緩む。

 戦場に於いて命賭けで剣や武を奮う者たちの、見た目相応の他愛のない日常に懐かしさを感じたからだ。

 それは戦禍の果てに見る事のできた、今回限りの泡沫の夢(・・・・・・・・・)


「ほんに姦しいでありんす。ここでの想いは……いつか届くのでありんしょうか」


 惨劇も悲劇は確かにあった。そして、これからも起こり続けるのだろう。

 だが、それを乗り越えたが故に今が在るのだと、シンカたちの戯れを目にしながら改めて思い、これから行われる催しに花魁の天狐は想いを馳せるのであった。



 …………

 ……



 肌寒さの中でも心地良い陽射しを届けていた存在はその身を隠し、静かな空に点在する灰色の浮島のせいで、今夜の主賓とも呼べる()の存在をいまだ確認することができないでいるものの、観月をするには心地よい気温だ。

 

 社の前に広げられた幾つかの茣蓙(ござ)と、それらを囲うように設置されている淡く光る灯籠台。

 陽が落ちた後に屋外での催し事を行う際には、よくこの形式が取られている。

 ブリジット、ロザリー、フォルティスのいる所には飲み物や食べ物が茣蓙(ござ)を埋め尽くすほどに置かれており、それらは皆に振舞うため用意したものだ。

 リン、スキア、オトネ、アフティの四人は催しの始まりを今か今かと楽しみにしているようだが、いつも台風の如く騒がしいオトネは、月が顔を覗かせるまでの余興として美しい横笛の音色を奏でている。

 そんな心落ち着く和みの音を聞きながらもツキノ、シラユキ、モミジの三人は、とても真剣な表情で互いに何かを相談し合っていた。

 日中に掃除や準備に奔走していた亜人の三人は、ブリジットの指示の下で祭事の裏方の如く動いており、中でも目尻に涙を浮かべたシエルは、時折頭頂部を痛そうに抑えながらも懸命に働いている。


 社の廊下には三方とその上に供えられた白い団子。隣には添えるように風に揺れる一本のススキが、白い陶器の瓶に活けられている。

 白い団子は米粉とぬるま湯を混ぜ合わせて作られており、材料となる米は月国内で収穫されたものだ。そして、ススキはこの時節を象徴する植物であり、稲穂と形態が似通っている事から添えられている。

 これらを天空への供え物として揃えて今後の豊穣を願い、名月愉しむの催しだ。

 

 たが、朧雲に隠れた月がいまだ顔を見せることはなく、ちょうど和みの音色を奏で終えたオトネが、いつものように元気な声を響かせる。


「もぉ待ってらんないよ! さぁ、みんなグラスを持って!」

「は? え、ちょっ」

「それでは~! 第何回目かは忘れたけど、楽しい観月会の始まりだよ~! かんぱ~い!」

「「「か、かんぱーい」」」


 締まらない音頭と共に、撫子台風の勢いに負けた各人は手にした硝子杯(グラス)を掲げ、互いに軽く当てて小気味良い音を鳴らした。

 誰かに頼まれた訳でも無いのに、場の空気を読み皆の注目集めて事を成し遂げるのは、彼女の持つ秀でた才能と言っても過言でもないのかもしれない。

 しかしその事に異を唱え、窘める者というのは必ず存在している。


「……オトネ。確かに皆さんも待ちきれない様子でしたし、貴女の機転の利くところは認めますが、こういった場では他に見合った人物が行うということを理解していますか?」

「そ、それくらい私だってわかってるよ! でも、隊長とシンカちゃんは向こうで何かしてるし……スキアちゃんがやれって言うから……」

「おまっ! ま、待てアフティ! 話せばわかるはずだ、平和的にいこうぜ! と、とりあえずその鏡を置こうじゃねぇか」

「これが月国の精鋭だと思うと……はぁ……」


 時と場所が変わっても、人の役回りというものは変わらないものらしい。

 失態というほどの事ではないが、オトネの事を注意するアフティと、矛先を他方に向けて退路を確保するオトネ。多少の原因はありながらも、全責任を負わされるスキアと、それらのやり取りを前にして頭を抱え、溜め息をつくリン。

 これから先も彼らの関係性というものは変わることなく、気の置けない仲間同士で歩み続けて行くのだろう。今までがそうであった様に……何度廻り巡ろうと。


 一方、社の軒先からその光景を眺めているのは……


「……よいのですか? ……ワタクシと主君との大切な観月会で、あの者たちの莫迦騒ぎを放っておいても」

「あぁ、折角の観月会なんだし、賑やかな方がいいだろう。それにオトネたちは静かな方が違和感がある」


 元来、月見とは花見と同じく自然の在るがままを詩歌や管絃を楽しみつつ酒を酌む、といった雅味な催しであり、庶民とは縁のないものだった。

 だが、どのような祭事も時代と共に移り変わる。

 今ではただ月を見て楽しむといった側面しか残ってはいないが、それでいい。


「ほんと……ブレないわよね、ハクレンって」

「淑やかな女狐など偽物でありんすよ、シンカ」

「……女狐はオマエでしょう」

「わっちは淑やかな狐でありんす」

「……いらっ」


 この夜は日中からロウの外に出ていたルナティアに加え、ハクレンまでもがその身を外気に晒していた。

 色味や模様がまったくの同じではないものの、酷似している着物を纏った二人はロウの左右に控えている。

 しかし、そのしな垂れかかる(さま)とその距離感は、従者のそれよりも遙かに近く見え、それが当たり前のようにも思えた。

 ロウの膝の上では一匹の黒猫が、尻尾をゆったりと動かしながら心地良さげに寛いでいる。


「花見も月見も楽しめるなんて、貴方も贅沢ね」

「これを花見と言っていいのかはわからないが、月はまだ楽しめそうにないな」


 ロウが宵闇に似た瞳を空に向けると、シンカもそれに倣い視線を上げる。

 いまだ夜の光が地上を照らすことは無く、雲塊の向こうで輝いているのだろう。

 小さき黒の獣は興味がないのか瞳を開くことなく、動く様子もないようだ。


「それにしても、じっとしてると少し寒いわね」


 時折吹く夜風は肌に当たると冷たく、長時間当たり過ぎると風邪でもひいてしまうかもしれないと思いながら、シンカは僅かに身を震わせた。

 それを見越してか、ブリジットは観月用の料理以外にも体が温まるようなものを準備してくれていたようで、竹林の揺れる音と共に甘い匂いが届けられる。


「兄さん、どうぞ。ツキノ謹製のぜんざいです」

「一応、ボクも一緒に作ったんだけど……どうかな?」

「こ、焦げてはないはずっす」


 ツキノ、シラユキ、モミジの三人はロウの前までやってくると、緊張した面持ちで声をかけ、手にしたそれを差し出した。

 手にあるお椀には、小豆を煮詰めた黒い汁に白く丸いものが浮かんでいる。

 甘い匂いの発生源であり、多くの人が寒い時期になると口にしたくなる食べ物、ぜんざいだ。

 このぜんざいが発祥の地と言われているのは月国ではないのだが、そこで行われていた祭事で振る舞われていたものだ。それを食べた名のある人物が素晴らしく良いものだと感動し、名付けたのが”善哉(ぜんざい)”の始まりだと言われている。


「一生懸命作ってくれたんだな。ありがたく頂くよ」


 穏やかな微笑みを返したロウはお椀を受け取り、一旦隣に座るルナティアに預けると、懐から取り出した手拭布(ハンカチ)でツキノの頬についていた白い粉を拭い取った。


「これでよし。一生懸命に作ってくれてありがとう」

「――っ!? こここ、こちらこそありがとうございます! しばらくは顔を洗わずに過ごします! それでは!」

「ま、待つかな! どこに向かってるのかな!?」

「そっちは湖に一直線っすよ!?」


 あまりに自然な(ロウ)の動作と気遣いに感極まり過ぎたツキノは、顔を真っ赤にしながら脱兎の如くその場から走りだした。そんな彼女の突然の行動に慌てて追いかけるシラユキとモミジ。その後ろ姿は戦場を駆ける戦士と思えないほどに普通の少女で、賑やかな声が空へと響き渡る。

 だが、夜の光は湖面に映ることなく、ただただ空のどこかを漂うばかり。


「ロウ……少しは自重しないと痛い目をみるわよ」

「まったくでありんす。それは主様の良き所でありんすが、わっちとしては複雑でありんす」

「……珍しくワタクシも女狐と同じ意見です……不本意ですが」

「いったい何を怒っているんだ?」


 鋭い視線を四方向(・・・)から向けられたロウは、その意をまったく理解することができず、首を傾げることしかできなかった。

 それでも三人としては、この男に伝わらないとわかってはいても、どうしても言わずにはいれなかったのである。

 今までがそうであったように、これからもおそらく繰り返されることだろう。

 何故ならシンカとは違い、魔獣である彼女らは知っている。

 鈍いと思われがちなロウという男の心からは、すでに大切な花が摘み取られているということを。故にそう……絶対にその感情を理解し得ないのだから。


「……それでは主君。客人(もど)きがいらしたようなので、一応出迎えに行って参ります。……行きますよ」

「粗相の無きよう、こちらへ案内して来んす。シンカ、ここは大丈夫かと思いんすが、暫しの間主様をお願いするでありんす」

「えぇ、わかったわ。お守りはシエルたちで慣れてるから」

「お、お守りって……シンカ」


 夜に溶けそうな装いをした男の抗議の声は誰にも届くことはなく、艶やかな着物の二人は社から静かな足取りで離れて行った。

 そして、あの二人が出迎えるほどの客人というのは、恐らく月の女神に仕えるリコスとクローフィなのだろうと、シンカは手にした硝子杯(グラス)を傾けながら思う。

 すると、黒猫はシンカを一瞥すると気怠げにロウの元から離れ、軽い身のこなしで社の屋根へと移った。


「……私ってやっぱり嫌われてるのね」

「そんなことはないさ」

「そうかしら」

「きっと、特等席で見たかったんじゃないか? ほら」


 ロウの言葉と共に、不意に一帯の明るさが増したように感じられた。

 つられてシンカが天を仰ぐと、黒天に在る大きな輝き。

 それは皆が待ち望んでいたものだった。


「……綺麗」


 宵闇を照らす夜の光は穏やかで、何故か懐かしくもあった。

 いつでもその場所に居ながらも、姿、形を刻々と変えていく月。

 誰の眼に映ることがなくとも、それが消失することはない。

 闇を払うその光は迷花を静かに照らし、まるで世界を見守っているようだ。


「シンカ」

「……えぇ」


 彼らにそれ以上の言葉は必要なく、向かい合っていた距離がゆっくりと近づいていく。そう広くない観月会の会場の賑やかな声も、今は遠くの出来事のように二人には感じられた。

 他に誰の介入もないまま互いの距離は縮まっていき、やがて零に至る。


 ――カランッ


 割れないように互いの硝子杯(グラス)を合わせると、小気味良い小さな音が響いた。

 そのまま硝子杯(グラス)に口を付け、胃の中を馴染みの液体で満たす。


「素敵な夜ね。なんだかとても懐かしくて、特別な日に思えるわ」

「俺も同じことを考えていた」

「貴方を小突いた(・・・・)日から、ずっと一緒に戦って来たのよ? 貴方が何を考えているのか、もう大体のことならわかるわ」


 内界アイリスオウスでの始まりの夜の事をそれぞれに思い出しながら、顔を見合わせ、ロウは苦笑いを浮かべていた。

 ロウの表情に納得がいかない様子のシンカではあったが、そのことを追及したとしても、彼がいつものように微笑みだけで返す事が容易に想像できる。

 だが、今日くらいは言及することを避けてもいいだろう。

 今は折角の観月だ。純粋に愉しみたいという気持ちの方が強い。


 この世界では日々、降魔との戦いが世界のいたるところで行われており、少なからず犠牲となっている者もいる。

 シンカたちも鍛錬に励み、多くの戦果を挙げてはいるが、この先も続いていく戦禍を常に無事切り抜けれるという保証はどこにもないのだ。

 無論、死ぬことは……終わってしまうことは怖い。

 だからこそ、この生が続く限りは後悔の無いような選択していきたいと思い、今とこれからを歩んでいる。


「日溜まりの君がいると安心できるな」

「何よ急に。なら私は、月明かりと同じ貴方がいると落ち着くわ……とでも言っておきましょうか」


 それは二人だけが知る二人だけの言葉の伝え合い。

 それは一方的な想いの吐露ではあったが、誰もそれに気づけない、気づかない。

 並び座る二人の会話は穏やかで、それはルナティアたちが戻ってくるまで静かに続いていた。

 そんな彼と彼女を見つめているのは――


「……待ち望んでいたはずなのですが、どうにも認めたくないものですね」


 眼下では歴戦の戦士たちが、訪れた僅かな休息と安寧を過ごしていた。

 社の屋根という高い位置にいるせいか、宴の場よりも吹く風は強く、長い黒髪をなびかせている。

 しかしそんなことを気にした様子も無く、着物姿の女性の視線は、己が主とその傍に座る少女の姿に釘付けになっていた。


「随分と変わられました。……そして、お変わりないようですね」


 風に流された言葉は遥か遠くへと向かい、戻ってくることはない。

 今この瞬間だけは、続く終焉への旅路を忘れたかのように温かく穏やかな微笑みを浮かべ、セツナは自らも天を仰ぐ。

 そうして、すでに誰もが忘れてしまった郷愁に誘われながらも、天満月(あまみつつき)の放つ優しい光に目を細めるのであった。


 …………

 ……


 世の中の好事には障害が多く、始まりがあれば終わりもある。

 雪がいつか溶けるように、月が叢雲に隠れるように、花がいつか散るように。

 

 音も無く湖面で歪む淡月が、何を映していたのかを知る者がいたのなら、この冷たい月灯りの理由にも……少しは近づけたのだろうか。

 

 何もかもが手遅れになるその前に……

 大切なものが欠け落ちるその前に……

 

 ――それは十六夜に見た十五夜の夢。

 

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