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それは現のイストリア  作者: 御乃咲 司
二章 GOD-巡逢のヴェンデッタ
24/55

20.月よ星よと眺むる鏡花水月

 

 ここは外界に於いての中立域であり、法を司る女神の管理する不可侵領域レイオルデン領内――審秤神サラ・テミスの御座す断罪赦免の虹の塔(イリスコート)

 その敷地内に広げられた敷物の上には、これから酒盛りを行うための品々が数多く並んでいる。傍には彼女の力で作り上げた簡易的な調理場があり……


「どうして私がこんな事をしなくちゃいけないんですか!? あと、熱いから気を付けてくださいね」


 そこで腕を振るった、というよりも振るわされたサーベルスことベルが、ちょうど最後の料理を皿に盛りつけて運んできたところだった。

 頬を膨らませながら不満を漏らすベルに対し、さらりと当たり前のように言ってのけるのは……


「あんたたちがこの中じゃ適任だからに決まっているだろう?」

「はぁ!?」

「はいはい、そんなに怒らないの。一緒に作れて私は楽しかったよ?」


 メリュジーナの態度にベルがさらに不満を募らせると、そこに割って入ってきたのはベルと共にこの料理を完成させた星神アストライアだ。

 

「いいから早く座って下さい。はい、溢さないようにして下さいね」

 

 ぶっきらぼうに言葉を吐き出しながら、メリュジーナの隣に座っている月神アルテミスは丁寧に料理を取り分けた皿を差し出した。


 聖域であるはずのこの地が、路地裏にある居酒屋のように見えるのは決して気のせいではないだろう。だが集まった面子を思えば、決してそのような場所いて良いはずもなく、確かにここは聖域なのだ。


「ほなら、そろそろ乾杯しましょか。グラスは皆はん持っとるね?」


 飲み物の入った硝子杯を片手に持ったサラは今回集まった者たちを見渡し、頃合だと感じたのか、注意を引くために普段より少しばかり声を張った。


「それでは……宵闇に輝く月と平穏なる世界に、乾杯!」


「「「乾杯!」」」


 その祝杯の音と共に始まるのは月の宴。

 様々な立場、様々な志を掲げた者たちが、作法やしがらみなどから外れて、夜空の輝きを愉しむための席だ。

 とはいえ、やはり場にそぐわない様に見えてしまう者というのはいるらしい。

 用意された料理の数々に舌鼓を打ち、無邪気な笑みを浮かべたまま次々に箸を伸ばしていく、超長身であり人一倍……ニ倍三倍女性らしい体つきの女性。

 手元にある皿に載せてある料理と、乾杯から一切減っていない飲み物を交互に見てはいるものの、口に入れることのできないジャッカルを模した鉄兜(ヘルム)を被ったままの超長身の人物。


「ペロ! このお肉美味しいよ~! ゆっくりご飯が食べれるっていいね!」

「何度も言っているが、吾輩はガナドルだ。人前ではそう呼べ。しかし……あぁ、吾輩も何か食べたいよ~」


 興奮気味のロコにとりあえず不満をぶつけ、前で後ろで声音をころりと変えながら、ペロが漏らしたのは悲痛の声。すると……

 

「ロコ、口許のソースを拭きなさい。ほら、こっちを向いて」

「ふふっ、リーダー、くすぐったいよ」

「ペ……ガナドル、暫く上を向いてなさい。私がその口から入れてあげますから」

「ありがとぉー、リーダー」


 そんな二人の世話を焼いている黒髪の女性は、両隣に座っている彼女らの所為で小さく見えるが、至って普通の体躯である。

 まさかこの三人が外界に於いての畏怖の象徴でもある執行部隊、エウメニデスだとは俄には信じられないだろう。

 だが、どこか微笑ましいやりとりの中、穏やかな雰囲気のまま宴が続くかのように思えたが、そうは問屋が卸さないらしかった。


「レイラさん、日頃から特定の人物を贔屓するのは、執行部隊として如何なものなんでしょうか。って、個人的に思ってしまいますね」

「ベ、ベルちゃん!?」

「貴女の知り合いなんでしょ? 放っておいていいの?」

「あぁ、問題ないさ。何があっても自己責任ってやつだよ」


 突然のベルの発言にある者は戸惑い、呆れ、顔を顰めたりと様々な反応を見せる中、言葉を向けられたレイラは少し俯いているため、前髪で隠れたその表情を窺うことはできない。

 だが、隠れていた感情はすぐに表へと溢れ、濁流或いは業火の如くベルへと襲いかかった。


「口を慎みなさい。犬風情が何を言い出すかと思えば……貴女のように尻尾を振って待っているだけが忠犬なのですか? 貴女の忠義はその程度ですか」

「へぇ~、言ってくれますね」


 特定の人物の裏に隠れたベルの想いに気付いたレイラが、一見脈絡もないような言葉を返すと、ベルはすっと眼を細めて犬歯を覗かせた。


「道を正すことも信頼であり、共に歩むことだけが忠義ではないと知りなさい」

「そんなこと言って、もっと甘えておけばよかったと後悔しても知りませんよ」

「――なっ、余計なお世話です。貴女こそ、手遅れになっても泣かないことです」

「――っ、そんなこと、この私が絶対に許しません」


 レイラの眼差しは冷淡で、口にした言葉は鋭く、対するベルもまた同様で、このまま互いの得物に手を伸ばすのではないかと思えるほど、この場の空気が戦場のものへと変わっていく。

 そんな中、この状況を収めるべく立ち上がったのは白衣を纏った一人の男。

 今まで多くの命を助け、これから先も多くの命を助けるであろうその存在は、闘争とは対極に在ると言ってもいい。

 だからこそ、啀み合う彼女たちにも、自身の言葉が届くと男は信じていた。

 そう、救医神たる彼だけは信じていたのだ。


「まぁまぁ、お二人さん。折角の宴なんだ。そんなことは置いといて、ここは俺に免じて月を眺め――」

「酔っ払いは引っ込んでてください!」

「不摂生の権化は黙りなさい!」

「……す、すみませんでした」


 その後、星神が無駄な神力と自らの料理の腕を存分に振るうことで作られた大層豪華な甘味を二人の口に入れたことによって、緊迫した空気は一気に消え去り、賑やかな宴が再開された。

 甘味に敗北した一人の男の心に、とても大きな傷を負わせたまま。


「ほんに、いつもいつも哀れな男やねぇ~」



 …………

 ……



 他に誰も居ない砂浜を歩く一人の少女。

 優しく鼓膜を揺らすのは、静かに寄せては返す白波の音。遠くでは時折、魚が新しい世界を求めるかのように飛び跳ねている。

 街からも離れたこの場所は、普段であれば発光石や灯籠などの灯りを手に持っていなければ、暗がりで歩くことがままならないはずだ。

 そんな夜の浜辺を躓くことなく、平然と足を踏み出すことができているのは、空に浮かぶ大きく丸い灯りのおかげだろう。


「髪が痛むから、あまり潮風には当たりたくないんだけど……悪くはないわね」


 そんな中、海国エデルメーアの七深裂の花冠(セブンスクライム)一片(ひとひら)たるメロウは独り言ちた。


「流石に団子やススキは用意できなかったけど、これも立派な観月。そのはずだわ」


 メロウが呟いた通り、観月というものは月を眺めて楽しむということが何よりも大切なのだ。どのような形であれ、月を愛でることができればそれでいい。

 それでも不安な感情で思考が占められてしまうのは、一人でいる所為だろうか。

 思い出すのは、花冠を統べるあの御方と共に皆で見た月華。

 そこに在ってそこに無いあの御方は、まるで朔のように思えてしまう。

 孤高には為れても、孤独には慣れない……そんな寂しさを抱いている彼女の中で、そういった迷いや不安が想像もしたくない未来へと繋がっていく。


「こんなことなら、あの子たちでも誘えばよかったわ」


 早くに母親を亡くし、それぞれに欠点を抱えた三姉妹の事を思い浮かべながら小さく声を零すものの、それが誰に届くわけでもなかった。

 自身の立場上、軍に属している彼女たちに親しく接し過ぎるのは、当人たちの意思に関わらず周囲へと大きな影響や誤解を招く恐れがある。

 故に、言葉を交わす回数は自然と減り、多忙さを極めている最近の世界の動向が重なることで、今では私的な会話も皆無となってしまっていた。


「ここまで自分が弱いとは思わなかったわね」


 終わりの見えない不安と孤独の連鎖は続いて往く。

 返事が無くとも、頷いてくれるだけでもいいのだ。

 傍で共に同じ道を歩んでくれる。それだけでこの連鎖を断ち切ることができる。

 しかし、この場には瑠璃色の少女がただ独り。


「いったい、いつまで待てばいいのかしら…………いつまで……」


 人前では決して見せることのない弱さを、瞳に溜まり出した雫を曝け出しそうになりなりながらも、メロウはあの御方に似た空を見上げた。

 月を愛でる今日だけは、今だけは七深裂の花冠(セブンスクライム)のメロウではなく、一人の少女として感情を露わにしてしまおうかという考えが頭に過ったそのとき、聞き覚えのある声が遠くから聞こえてくる。


「あれは……珍しいこともあるものね」


 声のする方へメロウが視線を向けると、そこには見知った女神の姿と共に歩く二人の人魚(セイレーン)の姿があった。

 困り顔の麗人は極端に背丈の違う二人に両の手をそれぞれから引かれ、躓きそうにながらも歩いている。

 子供のような身丈の人魚(セイレーン)が手にしている提灯の灯り以上に、彼女たちの周囲が輝いて見えるのはメロウの気のせいだろうか。


「あんなにはしゃいでいると……ほら、転んだ。幾つになっても子供のままね」


 暗い世界から光る世界を見守る彼女は優しく微笑み、見えない足跡を頼りに来た道を戻ろうと身を翻し、そのまま足を踏み出した。すると……


「――――! ―――!」

 

 どうやってこちらの存在に気付けたのだろうか。

 視力や魔力探知が特段秀でているという訳でもないというのに。

 傍にいるヴィアベルならメロウの所在に気付いていてもおかしくはないが、その情報をわざわざ人魚の姉妹に教えるとは到底思えない。


「―――! ―――でよ~っ!」


 アトラスほど耳が良ければ聞き取れたのかもしれないが、視力に秀でたメロウにその声がはっきりと聞こえたわけではない。

 だが、メロウを誘いたいという意思の強さが、幼き人魚の次女からは伝わってくる。振りむくことのないメロウに、何度も何度も呼びかけているのだから。

 恐らく少女は諦めることなく、メロウが応えてくれるそのときまで呼びかけ続けるのだろう……いや、間違いなく呼び続ける。そんな子だ。


「あんなに騒がれたら周りに迷惑だから、言って聞かせないといけないかしらね」


 メロウは子供を窘める母親の様な表情を浮かべると、自らの名を呼び続ける者の元へと帰ろうとしていた足を向け、その一歩を踏み出した。

 それを感じ取ったのか、呼び掛けの声は歓喜を含んだものへと変わり、傍にいる彼女の姉と海神は苦笑している。

 暗く冷たい世界だというのに心が温かくなり、何故こうも安らぐのだろうかと逡巡するも、メロウが辿り着いた答えはとても単純なものだった。


「……これがあの御方の求める世界、か」


 砂上と紺碧を優しく照らす白き光は四人を見守り、四人は揃って白き光を見つめ返す。その様子はまるで、互いの事を語らっているかのようだった。



 …………

 ……



 在るがままを見つめ、在るがままを感じ、在るがままを受け入れる。

 移ろいゆく気候と、それに伴って表情を変えてゆく草花や樹木の彩り。

 それらのすべてはこの地に住まう者たちにとって、良い事ばかりではないが、悪い事ばかりでもない。


「しかし、あれだ……こんなに働いてたら夜が明けちまうさね」


 揺らめく蝋燭の灯りを頼りに、様々な書簡などに目を通し続けているのは、地国テールフォレの七深裂の花冠(セブンスクライム)が一片、女神すらも恐れず可愛がるイズナだ。

 飾り気のない低い事務机(デスク)の上には、いまだ幾つもの未開封の書簡の束が積まれている。陽の高い時から作業を続けているにもかかわらず、その数は減ることなくむしろ増えているように感じられるほどだ。


「こんなことなら、安請け合いするんじゃなかったよ。明日会った時は……そうさねぇ、あの子が隠してる茶菓子でも目の前で食べてやるとしようかね」


 窓の無い部屋で愚痴になっていない愚痴を零しながら書簡をまた一つ開くと、そこに書かれていたのは観月行事の優待だった。

 この状況で唯一嘆くことがあるすれば、月の姿を確認することができないということだろう。月の存在を感じることができれば、この程度の仕事など訳もない。

 大切な盟友……彼らと共に月を見上げ、丹精込めて作り上げた団子を口にしていたことが、まるで昨日のことの様に今でも鮮明に思い出すことができる。


「……感傷に浸っても仕方ない、か。このままだと本当に夜が明けるさね」


 その瞳に映ることの無い月を見つめ、イズナは再びその視線を退屈な文章に落とした。供え物や催しとしての準備は良くも悪くもする暇がなったのだが、観月を悠長に楽しんでいられないこの状況では良かったのかもしれない。

 そうして暫くの間、書簡を黙々と読み進め、合間に喉の渇きを潤す事を繰り返し、気が付けばすでに日付も変わっている時刻だった。


「はぁ~、やっと終わったよ。さてさて、お待ちかねのお月見タイムさね」


 すべての作業を終え、事務机の上の整理も程々にして部屋を出ると、視界の端に馴染みの少女の姿が写り込んだ。

 見ると、少女は壁にもたれる形で通路に座り込んだまま寝入っている。


「まったくこの子は……」


 一声掛けてくれればよかったものの、恐らく仕事に没頭しているイズナの邪魔にならないようにと、ミコトは部屋の外で待ち続け、日頃の疲れと夜更けだという事も相まってここで微睡の先に落ちてしまったのだろう。

 しかし、このまま寝かせておくわけにもいかず、イズナはミコトを起こそうと小さな肩に手を伸ばした……が、傍に置いているあるものに気付き、ふとその手を止めた。

 少女の傍にある皿の上には、幾つかの小さな白月が歪な形ながらも乗せられている。


「ありがとね、ミコト」


 よくよく見れば、ミコトの頬や袖口、衣服の所々には白い粉が付着しており、彼女の努力がはっきりと感じ取れる。

 姉として世話を焼くことが多かったはずなのに、いつの間にか自立し巣立ってしまいそうなほどの成長を見せる妹分に、嬉しくもどこか寂しさを覚えるイズナであった。



 …………

 ……



 背中に感じる柔らかくも程良い芝の硬さ。年間を通して寒暖差の小さい快適な気候のこの地では、一人の男が珍しく静かに寝息を立てていた。

 群青に浮かぶ淡月は巡る時節によってその姿を変えるものの、その姿は太古の昔より変わらない。

 芝を揺らす夜風の心地良さに誰もが安寧を感じ、瞬きの平穏を噛みしめている。


「……ふぁ~っ。おっと、いつの間にか暗くなってるじゃないか。戻ってやらないといけない仕事もあるが……まぁ今日くらいはいいだろ」


 数時間振りに瞳を開いたものの起き上がる様子はなく、天国チエロレステの七深裂の花冠(セブンスクライム)であるベンヌは、比較的重要な案件を先送りにすることを決定し、寝ころんだまま大きく伸びをした。

 遠くの方では人々の暮らしを反映するかのように、街の温かな灯りが消えることのなく照らしている。

 それらを映す瞳は優しく、同時にどこか憂いを帯びていた。

 いつも忙しそうに駆け回り、大抵のことを部下ではなく自分一人でやってしまう彼だが、月を愛でる今日くらいは仕事を忘れても罰は当たらないだろう。


「今回の観月も曇ることなく、本当にいい月じゃあないですか」


 空を往く月にでも語りかけているのか、その独り言に応える者などいるわけもなく、ただ静かな風が流れるだけだ。


(ははっ、貴方様は本当にお優しいようで)


 それ以降もベンヌは、姉の為に夜の散歩にでも付き添っていたのであろう彼の存在を気付かなかったことにし、動くことなく月を見上げている。

 刻々と時間が過ぎ往く中で、自由を愛する男の胸中はこの月夜のように穏やかなるものなのか、はたまた颶風(ぐふう)を閉じ込め、晴天を装っているのか。

 不意に強い風が吹き、芝の擦れる音が耳へと届くが、夜空を遮るものは何一つなく、彼の観月を妨げるものは周囲にはない。

 とはいっても、彼の性格上やはり残した仕事のことが気になるのか……


「たまにはゆっくりのんびりしても、罰は当たらない……はずだ。たまにだから大丈夫、きっと……たぶん」


 自己弁明をするかのように呟いたその声は段々と小さくなり、何時しか重い瞼を開ける事は叶わず、再び静かな寝息と共にベンヌは意識は縁から深く深く吸い込まれていった。

 街の灯りが一つ、また一つと消えてゆくが、それでも世界が闇に飲まれることはなく、天壌の灯りが優しく皆を見守っている。

 余すことなく、洩れることなく……それはまるで――



 …………

 ……



 身体の芯まで凍てつきそうなほど、外気と視界を白く覆いつくす猛吹雪。

 冥国において、このような気候は常でありこの国の特徴ともいえるものだ。


「吹雪に、寒波に、曇り空……ここがそういうところだっていうのは理解してるはずだったんだけどねぇ……はぁ~、鬱だわぁ」


 煉瓦造りの暖炉では今も薪が燃え盛り、火花を散らす音を鳴らしながら室内の温度を快適に保ってくれている。

 それを感じながら、硝子窓から外の景色を眺めている一人の女性。

 艶やかな髪は羨望の眼差しを向けられ、均整の取れた蠱惑的な体型は見る者の釘付けにしてしまう。それに加えて洗練された立ち居振る舞いは淑女のそれであり、そんな彼女の名はリリス。冥国オスクロイアの七深裂の花冠(セブンスクライム)の一片だ。

 しかし、一歩外に出れば雪道に埋まったり、雪道で転んだり、雪塗れになることが度々起きてしまうという、少しばかり不運な人物でもある。


「仕方ないわねぇ、今日はここで愉しみましょうか」


 何かを諦めたように硝子窓から離れると、暖炉と少し距離をおいた所にある簡素でありながらも味のある木製の丸机(テーブル)に近づいて行く。

 そしてそのまま、側にある安楽椅子へと深く腰を降し、すでに葡萄酒(ワイン)の注がれている硝子杯(グラス)へと細い手を伸ばした。


「腹黒糸目の秘蔵だけあってイイ香りねぇ~。これは味も期待出来そうねぇ~」


 冥神秘蔵である葡萄酒(ワイン)の香りを堪能した後に、薄く繊細に生成された硝子杯に口を付け、熟成された味と再度香りを楽しむ。

 勝手に秘蔵っ子(ワイン)を頂戴したことがバレると、後でぐちぐちと小言を言われるのだろうが、このときに飲まずしていつ飲むというのか。

 そう開き直り、空になった硝子杯(グラス)丸机(テーブル)に置いたリリスの顔は、暖炉の火が強いのか心なしか薄く紅らんでいるようにも見える。


「月見には清酒(・・)が理想だけど……うふ、やっぱり素敵……」


 甘い吐息を漏らし、恍惚とした表情の向けられた先にあるのは、窓硝子に映ったリリス自身の美貌ではなく――漆黒の夜空に輝く白き光。

 視界を覆う吹雪でなく、世界に被さる厚い雲でもなく、世界を照らす一つの、たった一つだけの拠り所。

 それの代わりに為り得るものは存在するのだろうかなどと、いくら考えても答えが出ることはない。人の手によってそれと同じものを創る事は叶わず、突如として顕現することなど有り得ないのだから。

 だからこそ、今存在する世界を照らす美しき輝きを、とても尊く想うのだ。


「まぁ、これでみんながいたら最高だったのにねぇ。はぁ……早くそのときが来ないかしらぁ……会いたいわぁ」


 愚痴のように言葉を零したリリスは硝子杯(グラス)葡萄酒(ワイン)を注ぎ、それを香りを楽しむことなく一気に煽った。まるで淑女らしからぬ作法である。

 そのまま彼女は一本、二本と葡萄酒瓶(ボトル)を空にしていくが、酔い潰れることはなく、月がその姿を再び隠すまで空を眺め続けた。

 其処に居るのに此処には居ない、そんな人の姿を思い浮かべながら。


 

 …………

 ……



 入浴とは心の洗濯である……と、名も出自も判らぬ誰かが言ったこの言葉は、国や世代を越えて多くの人が一度は耳にしたことがあるだろう。

 それは陽国ソールアウラの神ですら漏れることなく、その言葉を大切にしている。


「今宵は雲が無いのだな。此度ばかりは好転した、か」


 国を背負うものとしての今日一日の務めを全うした陽神イグニスは、疲労を癒し明日へ備えるため、宮殿の敷地内にある湯殿へと訪れていた。

 温度変化に強く、硬度も申し分ない希少な石材が用いられた職人謹製の湯船だ。

 外気と張られた湯の温度差が大きいのか、立ち上る湯気は収まることなく溢れ続けている。

 そして、見上げれば濃紺の天井に輝く満月。

 湯浴みを終えた後に、見晴らしの良い所で静かに観月を愉しむ予定を立てていた彼からすると、これは実に喜ばしい誤算だった。


「これで酒と綺麗所が揃ってたら、ほんま言う事ないんやけどなぁ~」

「貴殿も来ていたのか」

「こういうイベントは昔から楽しむようにしとるんや」


 いつもと変わらない調子で、湯殿に明るい声を響かせながら歩いて来た男の名はアトラス。神と双璧を成す、七深裂の花冠(セブンスクライム)の一片だ。

 彼は湯船の傍に置かれている片手桶で湯を掬い、二度三度体にかけた後湯船に足を入れ、顔を顰めながらもゆっくりと身体を浸からせていく。

 その湯の熱さに耐え、体の芯から温まっていくのを感じながら空を見上げれば、遮るものが何一つない美しい光景が広がっていた。


「えぇお月さんやなぁ」

「まったくだ」

「…………」

「…………」


 それから暫くの間、二人は何も語ることなく月を眺め続けた。

 時折吹く肌寒さを感じさせる程の夜風も、火照った顔には丁度良い。


「儂は先に上がらせてもらうとするが、貴公はまだいるのだろう? のぼせないよう、ほどほどにするのだぞ」

「個人的には朝まで入っときたい気分やけど、迷惑かけるわけにもいけへんしな。でも今日だけは、もうしばらくお月さん見とくわ」


 互いに視線を合わせることなく交わされた言葉は、気の置けない仲間に向けられたもののようであり、社交辞令のようにも聞こえた。

 イグニスが去った後、一人で利用するには贅沢な湯殿を独占しているアトラスは、鼻歌を歌い出すほどに上機嫌に見えるものの……


「う~さぎ、うさぎ、なに見てはねる。十五夜お月さん、見ては~ね~る~」


 この世界には無い音を口ずさむその声は、僅かな湿り気を帯びていた。

 


 …………

 ……



 料理の数々と集った各人が持ち寄った飲み物は、そのほとんどが皆の体の中に収まり、そろそろこの地での月の宴もお開きになろうとしていた。

 白衣を纏った無精髭の男は硝子杯(グラス)に残っていた酒を一気に飲み干すと、大きく息を吐きながら空へと視線を向ける。


「はぁ……嬢ちゃんたちはこれからどうするんだ?」


 少し硬い声音聞かれた二人はその意図を測り兼ね、暫し逡巡したあと、迷いの無い眼差しで自らの想いを答えた。


「私は少し前まで皆さんに心配をかけてしまいましたから、これからをみんなと元気に過ごしていきたいですね。……その、ロ、ロウくんとも」

「決まっています。月国フェガリアルの女神アルテミスとして進むだけよ」


 星神アストライアと月神アルテミスの未来への抱負は前向きで、同じものを見ているように思える。

 しかし、彼女たちの言葉に、コルは何とも言えない歯痒さを感じていた。

 自分よりも年若い者が戦場を駆け、武勲を挙げ、傷つき、場合によっては帰ってくることがない場所にいる。

 なにより国を、その場所に住まう人々、戦場に向かう戦士たち、それらすべてを背負わねばならないのだから、その負担はコルの想像を越えることだろう。


「そうか……まぁ、気張りすぎないようにな」


 吐きだしそうになった言葉を新しく注いだ酒と一緒に飲みこんだコルは、ゆっくりと立ち上がり、そのまま自身の屋敷の方へと歩いていった。

 そんな彼の背中を見つめながら、星神は小さな声で言葉を零す。


「そういうわけにもいきませんよ。この世界に、この夜天に……月と共に皆の道を照らす煌めきを取り戻さなければなりませんから」


 だが、その呟きも隣にいた少女には聞こえていたようで……


「そうですね。闇を払う光が多いに越したことはありませんし」

「……ふふっ、ありがとうね」

「…………別に」


 漆黒の空は群青に、そして、白く蒼くその表情を変えてきていた。

 日の出の時は間もなく、今日も再び世界は日常を迎えて動き出すのだろう。


 そんな中、月と星の象徴たる彼女たちは思う。

 たとえこの刹那の平穏が水鏡に映る虚像だとしても、それでも――


 優しき欺瞞を、いつか暴くその為に。

 

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