もう一人の彼―3
「……アズフェルト?」
飲み干した直後、寝台の上に仰向けに倒れた青年に、シェイラはおそるおそる呼びかけた。
沈黙を吸うように膨らんだランプの灯が、スウっジジと音を立てた。
閉ざされていた瞼がそっと開かれる。数秒間ぼんやりとした後、覚醒したことを自覚しアズフェルトががばっと身を起こした。
「シェイラッ……!……っ」
「こ、ここにいるわ。落ち着いて!」
立ちくらみを起こしたアズフェルトの体を慌てて支える。ゆっくりと寝台に座らせ、それからその視界に映るよう顔を覗き込んだ。
「ね……。大丈夫よ、私は無事だから」
見開かれていた青い瞳が、安堵を得てふっと和らいだ。
――よかった……アズフェルトだわ。
同じ姿、同じ声。けれどその瞳の表情だけがっさっきまでの<彼>と違うことに、シェイラも安心感を覚えた。
「大丈夫? お水……もらってきましょうか」
いつもより強い薔薇酒だというのに、<彼>が一気に飲み干したせいだろう。胸のあたりを押さえてアズフェルトが荒い呼吸を繰り返す。
だが離れようとしたシェイラの腕をアズフェルトは「いい」と掴んで引き留めた。
「大丈夫だ。いきなり引き戻されて、ちょっと驚いただけだから……。それより君は大丈夫なのか? あいつに……何もされなかったか」
腕を掴んでいるアズフェルトの手にかすかに力がこもるのを感じた。目覚めてすぐに思い出すくらい、ずっと気にかけていてくれたのだろう。不安に揺れる眼差しに、シェイラは頷いて見せた。
「大丈夫。ちゃんと話が出来たわ。案外……悪い人じゃなかったわよ。自分から気付薬を飲んでくれたし」
「自分から? 本当に?」
足もとから拾い上げた空のガラス瓶を「ええ」と差し出すと、アズフェルトが驚いたように目を瞠った。
「信じられない。今まで好き放題やって、誰ともまともに会話出来なかったはずが……。いったい、どんな魔法を使ったんだ?」
「そうなの? まあ……最初は警戒したけど、わりとまともに話してくれたわ。自分はシンクレアの『影』だって。魔女の呪いを完成させるために作られたって言ってた」
「呪いを完成? どういうことなんだ?」
「うん……どうやら魔女は、シンクレア家の当主……オーリオと同じ魂を持つ者を手に入れるために、呪いに仕掛けをしたらしいの」
アズフェルトの隣に腰を下ろし、シェイラは<彼>が語った話を思い起こしていく。
「まずは人格を分裂させて、それから、『表』――本来の人格を少しずつ『影』で覆っていく。『影』が『表』を完全に飲み込んだ時――つまり……<彼>が本来の人格になった時に、呪いは完成して、魔女はあなたの魂を手に入れるって……」
魂を手似れる――それはつまり、アズフェルトが消えると言うことだ。
本人を前にしてそんなこと言いたくはない。でも黙っているわけにもいかない。彼はきっとごまかしや気づかいは望んでいない。真実だけを知りたいはずだ。
「そうか……なるほどな」わずかな沈黙ののち、アズフェルトが静かに肩で息をついた。
「時間をかけてじわじわと、絶望させ、そしてオレを消そうというわけか。我が祖先はずいぶん恨みを買ったものだな」
その口元が、小さな笑みを刻む。彼にしては珍しい皮肉な笑い方だった。
「……シェイラ、あいつははどんなやつだった? 俺とどう違う?」
「え?」
「同じ体にいても、会うことはないからな。知っていることといえば、こっちの迷惑も考えずにご令嬢たちを口説こうとするどうしようもない浮気者ということくらいか。それも俺を貶めるためなんだろう?」
「……<彼>はあなたを魔女に引き渡してあなたの体を手に入れるつもろだって言ってた。それが主である魔女の望みだからって。でもね……不思議なの。呪いの一部だというのに、<彼>は自分の意志をちゃんと持ってたから。あなたのことも色々言ってたけど、よく見てるようだったし、自分との違いもちゃんと理解してたように見えたの。同じ体にいるはずなのに、まるでもう一つ命を持って生きてるみたいだった。だから、もしかしたら話が通じるんじゃないかと思って言ってみたの」
「言ったって、何を?」
「うん。あなたと一つになって、一緒に生きてくれないかって」
「……は!? なんだって? そんな通じるわけが――」
「そしたら、考えてみるって」
「え?」
アズフェルトの表情が、驚いたような、理解が出来ないというような、忙しないものになる。シェイラは「なかなかやるでしょ。私」と笑って見せた。
「はは……やっぱり君には驚かされてばかりだよ。本当にあいつと話をしてきたんだな。事情を知ってる者たちは、今まで誰もあいつと話をしようなんて考えたことはなかった。俺自身もね。あいつの存在はシンクレアにとっては忌まわしき秘密でしかなかったから。なのに、なぜだ? どうしてそんなことを言おうと思った?」
「え、どうしてって」
そう訊かれる方が不思議に思えて、今度はシェイラが驚きを浮かばせる。
「だって、むこうの人格もあなただし、それにもともと一つだったんだもの。だったら消えるなんて嫌だと思ったの」
最初は出て行ってほしいと言いに行ったつもりだったのだけど。ふざけたことばかり言っていたけれど、<彼>は悪人ではないように思えたのだ。むしろ、アズフェルトのことを、どこか心配しているような気がしたのだ。
「<彼>も言ってたけど、もしかしたらそうなると、今のあなたとはすこーし違う性格になっちゃうのかもしれないけど……でも、あなたはもっと欠点を持ってもいいと思う。まわりはあなたが『立派な貴公子』で居続けることを望んでる。そういうあなたも素敵だと思う。でもそれじゃ……いつか息ができなくなっちゃう。だから少しはあいつのいい加減さを見習ったほうがいいのかも。あ、遊び人になって女の子を泣かせるのは絶対だめだけど! でも、あなたたちはきっと、欠けているところをお互いに持ってるんじゃないかと思うの。だから……手を取り合うことも出来るはず。魔女の言いなりになんかならずに」
もしかしたらそれが、呪いを解く突破口になるのではないかと思う。どちらかが倒れるまで、孤独な戦いと葛藤を続けることではなく。いがみ合い傷つけるのではなく、弱いところも強いところも、お互いに受け止めることが本当の解決策なのではないだろうか。
「だから私、また<彼>に会ってみるわ」
二人は話すことは出来ない。ならば、繋ぐ者が必要だ。
自分がその”架け橋”になれたら。その役目を自分が出来るなら、とシェイラは思う。
「だめだ」即座にアズフェルトがかたい口調で言った。
「また会うだって? 冗談じゃない。今回だって本当は承諾したくはなかったのに」
「でも、もう少し話す必要があるわ。ちゃんと<彼>を知らなきゃいけない気がするの」
「そんな根拠のない理由で君を危険にさらすわけにはいかない! あいつは俺であって俺じゃない――何をするかわからない。制御出来ないんだ。でもあいつがもし君を傷つけるようなことがあれば、俺はそれを他人事には出来ない。絶対にだめだ」
拳を作った手で両膝を打ち、アズフェルトが立ち上がる。上から見下ろされる形になって一瞬ひるんだが、シェイラはもう一度訴える。
「あなたの心配はわかってる。だけど、少しでも状況を変える可能性があるなら、私に委ねてみてほしいの。<彼>も言っていたの、また会いに来いって」
「会いに来い? やつが、君に?」
「そう。それって話をする意志があるってことでしょ、だから―」
「……じゃない」
「え?」
「……だめだ、冗談じゃない!」
――えっ?
突然両肩をおさつけられ、寝台に仰向けに引き倒された。
何が起こったか理解できない。アズフェルトの重みがのしかかってくる。
「あいつがいいのか?」
真上から見下ろされて――呼吸が震えた。
「あいつの方が、俺よりここで生きるのにふさわしいと思った?」
その視線が、声か、両肩から伝わる熱が、蜘蛛の糸のように絡みついてきてシェイラの体の自由を奪う。
「ち、違うわ、そうじゃない……。落ち着いて、どうしちゃったの」
――こわい。
いつものアズフェルトじゃない。でも<彼>でもない。
――これは誰?
「ア、アズフェルト、ねえ――」
「答えろよ。あいつと俺とどっちがこの世界にふさわしいのか」
「何言ってるの……!? そんなの」
「答えろ!!」
「いた……っ!」
痛みに顔をしかめると、アズフェルトがはっと目を見開いた。
飛び退くようにシェイラから離れ、ふらりとよろめく。それから右手で顔を押さえ俯いた。
「……すまない。俺は――」
すまない――。
「アズフェルト。大丈夫……?」
身を起したシェイラを「来るな」とアズフェルトの声が拒む。
「……すまない、一人にしてくれないか」
背をむけたまま、アズフェルトは動かない。
何も言うな。
闇と溶け合う沈黙がそう告げる。
「……わかったわ」
今はそっとしておいた方がいいのだろう。
そう短く告げ、胸のざわめきを抱えたままシェイラは部屋を後にした。




