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03_難攻不落の文官と、実戦開始(のつもりの妄想)メイド


 大人っぽい香水――それは、下町の香料店でアンナが給金一ヶ月分をはたいて購入した、ほんのり甘く妖艶な『夜の薔薇のしずく』。

 これを手首と耳裏に一滴ずつ忍ばせ、アンナは今日、満を持してロッシの執務室のドアを叩いた。


「失礼いたします、ロッシ様。本日の分の書類整理をお手伝いに参りました」

「おや、アンナさん。いつも助かるよ。そこにある財務部の領収書を、月ごとに仕分けてもらえるかい?」


「はい、お任せください!」

 アンナは返事をしながら、わざとロッシの斜め後ろ、彼の鼻先に香水がふわりと届く絶妙なポジションに陣取った。


(さあ、どうかしらロッシ様? いつもと違う私の『女の魅力』に、鉄壁の理性が揺らいじゃうんじゃないですか――!?)


 書類をめくるフリをしながら、アンナの脳内ではすでに本日一発目の妄想が、薔薇の香りとともに狂い咲いていた。


【妄想その⑤:香りの罠に囚われた、昼下がり】

 書類をチェックしていたロッシ様が、突然ペンを止めて激しく身震いするの。

 『……アンナ。君、その香りは何だ……。私を狂わせるつもりか?』

 いつも冷静な彼の瞳が、獣のようにギラついてるの。彼は椅子から立ち上がると、私をデスクと彼の身体の間に閉じ込めるのよ。

 『私はもう、誰も愛さないと誓ったはずだ。なのに君は、その甘い香りで私の心をかき乱す。……責任を取ってもらおう。今日から君は、私の執務室から一歩も出られない籠の鳥だ』

 そう言って激しく求められ、私はただ『はい、ロッシ様……』と涙ぐんで頷くしかなくて――!


「うふふふふ……」

「……アンナさん。あの、さっきから同じ領収書を裏表ひっくり返してニヤニヤしているけれど、何か面白い偽造の痕跡でも見つかったかい?」


「ひゃあうっっ!?」


 現実のロッシの、あまりにもお役人的つっこみに、アンナは飛び上がった。

 見れば、自分の手にあるのは「十か月前の、王宮の馬用干し草代の領収書」である。偽造も何もあったものではない。


 しかも、ロッシは鼻を小さくスンスンと動かしながら、不思議そうにアンナを見た。


「それにしても……なんだか、執務室が急に高級娼館のような、あるいはマダムの社交場のような匂いがするね? どこかの大臣が香水でもぶちまけていったのかな。すまないが、少し窓を全開にして換気してくれるかい? 私はどうも、こういう強い香りは鼻がムズムズしてしまって」

「は、はーい……」(全窓即座に全開)


 アンナの給金一ヶ月分の『夜の薔薇』は、五月の爽やかな夜風にあっさりと吹き流されていった。

 大人の色気作戦は完全に大失敗だった。



 ――香水がダメなら、胃袋を掴むまで。

 翌日、アンナは早起きして、家庭的な魅力をアピールするための特製弁当サンドイッチを作ってきた。


「ロッシ様! 今日は厨房の残り物で、ちょっとお弁当を作ってみたんです。もしよろしければ、お昼にどうぞ!」

「おや、これは美味そうだ。ちょうど昼の休憩をどうしようか悩んでいたんだよ。ありがとう、アンナさん」


 ロッシは嬉しそうに、アンナが作ったベーコンレタスのサンドイッチを口に運んだ。

「うん、美味しい。君の母上の味によく似ているね。懐かしいな、君が産まれる前はよく君の家に押し掛けては、母上の手料理をご馳走になったものだ」


(お母さんの味じゃなくて、未来の奥さんの味です――!!)


 叫びたい衝動を抑えながら、アンナはもぐもぐと不器用そうに食べる彼の口元を見つめる。

 ちょっとマヨネーズが口の横についている。なんて可愛いんだろう。

 すかさずアンナの脳内フィルターが起動し、その光景を「極上のロマンス」へと変換し始めた。


【妄想その⑥:お弁当から始まる、秘密のオフィス・ラブ】

 『美味しいよ、アンナ。……おや、口元にマヨネーズがついてしまったな』

 『あ、お拭きします!』と私がハンカチを出した瞬間、彼は私の手首を掴んで引き寄せるの。

 『ハンカチはいらない。君が直接、拭ってくれないか?』

 そう言って、彼は私の唇に、自分の口元を優しく重ねるのよ。ベーコンの塩気がちょっとするの。

 『これからは毎日、君の手料理が食べたい。……朝も、夜も。私の妻になってくれるね?』

 執務室のデスクの上で、食べかけのサンドイッチを置き去りにしたまま、私たちは――。


「アンナさん、ハンカチを貸してもらえるかい? 派手にマヨネーズをこぼしてしまって」

「あ、はい! どうぞっ!」(秒で差し出し)


 現実のロッシは、アンナの差し出したハンカチで丁寧に口を拭き、「ふぅ、危うく大事な書類を汚すところだった。ありがとう」と、おじさん全開の笑顔を浮かべたのだった。



 今日も今日とて、妄想と現実のギャップに打ちのめされたアンナ。

 しかし、弁当包みを片付けているとき、ロッシがふと、優しい目でアンナを見て言った。


「本当に、君は良いお嫁さんになるよ。アンナさんを射止める男がうらやましいね。私にあと十年……いや、二十年若さがあれば、君のお父上に殴られるのを覚悟で、立候補したいくらいだよ」


「え……?」


 ロッシは冗談めかして笑い、また書類に目を戻してしまった。

 当の本人は、ただの「若い娘へのリップサービス」のつもりだろう。

 だけど、アンナの胸は、これまでのどんな激しい妄想よりも大きく、ドクン、と跳ね上がった。


(いま、立候補したいって……言った? 言ったよね!?)


 廊下に出たアンナは、真っ赤になった顔を両手で覆った。

 妄想の中の彼はあんなに情熱的で強引なのに、現実の彼は、こんなに優しくて、臆病で、切ない。


「……やっぱり、諦められるわけないじゃない」


 いつかその「二十年の壁」も、「独り身の誓い」も、全部私の愛でぶち壊してあげるんだから。


 アンナは新婚生活の妄想(本日第三弾・一戸建ての庭で子供と犬とロッシ様と過ごす休日)を脳内で上演しながら、意気揚々とメイド控室へと戻っていくのだった。


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