第六話 太陽
巨大な掌が降りる。
逃げ場はない。
そう思った瞬間だった。
マルクの体を跡形もなく屠る筈だった手が、静止する。
ヴォルドガーンが止めた訳ではない。
誰かが受け止めた訳でもない。
ただ。
止まっていた。
まるで。
物語の続きを語るために。
それは、おかしなおかしな
“少年の物語”
広間に——本当の夜が訪れる。
広間がひっくり返り、小さな舞台が現れる。
床がパカっと開き、少年の形をしたパペットが顔を出す。
ぱちぱちぱち。
どこからともなく拍手が響いた。
【少年には何もありませんでした。】
【記憶も。】
【居場所も。】
【魂さえも。】
『わぁい!空っぽだぁ!』
【そこに、五人の羊飼いが現れました。】
『ぼうやは、怖いものはあるかな?』
【その中で一番大きな羊飼いが、そう尋ねました。】
『わからないっ!』
歓喜からくすくすと笑い声が漏れる。
【すると、羊飼いは困ってしまいました。】
【だって、その子は狼も知りません。】
【崖も知りません。】
【夜も知りません。】
【何も知らないまま、野原を歩いていたからです。】
『だから囲いを作ってあげよう』
『二度と迷わないように』
【羊飼いが、少年の手を取ろうとしたその時】
——“わるもの”がやってきたのでしタ。
◆
マルクの目の前に、太陽がいた。
いつからそこにいたのかは分からない。
いや。
違う。
最初から、いたのだ。
広間に入った時から。
ヴォルドガーンが現れた時から。
目を覚ました、その瞬間から。
ずっと。
燃え盛る恒星。
表面では灼熱の炎が渦を巻き。
巨大なフレアが、無音のまま宇宙へ噴き上がる。
その周囲を、いくつもの惑星が静かに巡っていた。
昼と夜。
生と死。
創造と滅び。
それら全てを抱え込んだまま回り続ける、小さな世界たち。
マルクは気付かない。
この異形を前にしてなお。
胸の奥に、奇妙な懐かしさが生まれていたことに。
「マルク」
太陽が、呟くように言った。
マルクは、一瞬、自分が呼ばれていることに気付かなかったが、すぐに我に返った。
「は、はい!」
「君、吾輩が見えているネ」
マルクはぽかんと口を開けた。
「……え?」
「見えているネ」
「あ、はい」
「ならいい。……さテ」
太陽が、ヴォルドガーンに向き直る。
その動きに合わせ、黒い外套が揺れる。
その下にあったのは、人間の男と変わらぬ四肢だった。
「この子、面白いネ」
そう言って、太陽はマルクの首根を掴む。
「え、あの」
「……アテン」
ヴォルドガーンの声が響く。
「照らす者よ、貴様はこの夜に相応しくない」
ヴォルドガーンは、獣のように低く構えた。
それだけで地面が軋み、広間の空気が重く沈む。
「昇リ、そして沈ム」
太陽の異形、アテンは歌うように言葉を紡ぐ。
「夜を決定するのは月ではなイ」
「いつだって吾輩ダ」
次の瞬間。
ヴォルドガーンの巨躯が爆ぜた。
巨大な拳が、アテンの眼前に迫る。
轟音。
床が砕ける。
アテンの体が僅かに揺れる。
背後。
蹴り。
そのまま回転。
踵が弧を描き、アテンの側頭部を薙ぎ払う。
肘が抉る。
膝が突き上がる。
拳が砕く。
暴風のような連撃が広間を埋め尽くした。
床が砕ける。
柱が折れる。
衝撃波だけで天井が軋む。
それでも
アテンは動かなかった。
マルクを引きずるように後ろへ下がっただけだった。
「おイ」
アテンは話を続けた。
「君、家族はいるカ?」
「え?」
「質問だヨ」
ヴォルドガーンの拳が頭部を捉える。
轟音。
太陽の表面から火花が散った。
「いや、その……覚えてないです」
「そうカ」
アテンは頷いた。
ヴォルドガーンの猛攻は、アテンの意識にすら届いていなかった。
「では、吾輩の家に来るといイ」
「……はい?」
あまりにも脈絡のない言葉に、マルクの思考が止まる。
「アテン、貴様。勝手をするのも大概にしろ」
ヴォルドガーンの背後に再び、光の手が出現する。
先程の物より遥かに巨大なそれは、まるで天そのものが手を伸ばしたかのようだった。
「ふむ。それは少し厄介だナ」
アテンの顔は、まるで視界が拒絶しているかのように認識できない。
しかし、彼の瞳は確かに自分を捉えている。
マルクはそう思った。
「マルク、君が選ぶのダ」
「囲われるカ」
アテンの声が響く。
「それとも——」
「吾輩と来るカ」
「させん」
ヴォルドガーンの唸りが、確かな質量となって空気を押し潰した。
——ォオオオオオオオオオ……
永遠にも思える引き伸ばされた時間の中、視界の隅で、ヴォルドガーンの巨腕が薙ぎ払われようとしているのが見えた。
しかし、マルクの意識は既に、目の前の異形、ただ一人に向けられていた。
目が、離せない。
「来るカ、マルク」
少年は、ただ微笑んだ。
どこか困ったような、咲いたばかりの花のような笑顔。
この場に余りにも似つかわしくないそれに、アテンは一瞬、目を見開いた。
しかし、すぐにアテンは小さく笑った。
「そうカ」
麗光が、マルクたちを包み込む。
ヴォルドガーンの光の手が、空を切る。
凄まじい衝撃が、風になって広間を駆け抜けた。
「支配者を名乗る愚か者たちヨ」
広間に、アテンのどこか現実感の無い声がこだまする。
『排他するな』
『壊すな』
『縋るな』
『哀れむな』
『——満たすな』
『その子は我輩を見ていル』
——それ以上、何が必要だネ?
光が収まった時。
マルクと太陽は、その場から消えていた。
後に残ったのは、ぐちゃぐちゃになった広間と、五人の羊飼いだけ。
【後書き】
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