第七話 ようこそ
ティロリロリリン♪
「いらっしゃいませー」
「ありがとうございましたー」
レジ袋を提げた女性が、自動ドアの向こうへ消えていく。
レジ横の時計は、十九時十二分。
夕方の混雑もようやく一段落し、マルクは小さく息を吐いた。
仕事帰りのサラリーマン、夕飯の支度をする主婦、買い食いの学生。彼らの生活が重なる時間帯は、決まってレジが戦場になる。
「毎日は勘弁してほしいなぁ」
思わず口から漏れる。
呆けている場合ではない。客足が落ち着いた今のうちに、やらなければならないことが山ほど残っている。
マルクは軽く頬を叩いた。
「マルクくーん、ちょっと」
「……はぃ?」
出鼻を挫かれ、間の抜けた声が漏れた。振り返ると、バックヤードの入口から先輩がひらひらと手を振っていた。
マルクはレジを離れ、そのまま裏へ入る。
「おつかれさん」
缶コーヒーを手渡される。
「あっつ!?」
耐えきれず、缶を左右の手で何度も行き来させた。そんな様子を見て、先輩は楽しそうに肩を揺らした。
「勤務中に、いいんですかね」
マルクは缶を持ち直しながら呟く。
「いいのいいの」
カチッ。
先輩は慣れた手つきで缶を開けると、そのまま一口煽った。
「頑張りすぎなんだよ、マルクくんは」
「そうですかね……」
あなたはずっと裏にいましたよねぇ。
出かかった言葉をそのまま飲み込む。
「適当でいいの。適当で」
「適当、ですか……」
「世の中、意外と適当でも回るんだよ?」
先輩が缶を揺らしながら言った。
「あ、あと、マルクくん。あと1時間で退勤でしょ?」
「そうですね」
「気を付けてね。これから“霧”が濃くなるらしいから」
「あー……」
二人でバックヤードから顔を覗かせる。
自動ドアの向こう。
既に道路の先は白く霞んでいる。
一瞬、その先に誰かの姿を見た気がした。
「すみませーん」
若い女性客が声を張り上げる。
「はーい」
先輩は気怠そうに女性の元へ向かった。
この1週間。気付けば流されてばかりだった。
缶コーヒーを一口飲む。
ふと、この街へ来た日のことを思い出す。
◇◇◇
上下の感覚すら曖昧になる白の中。
時間の流れも定かではない。
考えることさえ億劫になる。
突然、投げ出される。
「ぐぇっ」
瞬間、自分を取り戻したような感覚を覚えた。
「……ここは?」
交差点の真ん中に、少年はいた。
夜だった。
しかし、燦然と輝く街明かりと人々の喧騒が、一切の闇を感じさせない。忙しなく点滅するネオンサイン。頻繁に響くクラクション。
ビルの巨大モニターには、招き猫のキャラクターが飛び出すように手招きしている。
街の各所には黒色の柱が立ち並び、その表面に刻まれた文字のような紋様が、街明かりとは別の光を放っていた。
その光を目でなぞっていく。
どこか自分と世界が切り離されていくような気がして、慌てて目を逸らした。
溢れ返る人波は、交差点を絶え間なく行き交っている。
都市そのものに守られるように、“生活”を謳歌する、人、人——人。
誰もが、少年のことなど目に入っていないかのように、先を急ぐ。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
「行くヨ」
いつの間にか隣にいたアテンが、歩き出した。
「は、はい!」
マルクは慌てて駆け出した。
◇
人混みをぐんぐんと進んでいくアテンの背中を、マルクは見失わないように追いかけた。
大小様々な建物が、重なるように密集している。建物の上には別の建物が継ぎ足され、用途の分からない構造物が至る所から突き出していた。
時折、黒色の太いホースや巨大な針金のようなものが、建物の隙間から顔を覗かせていた。
客引きの活気溢れる声が辺りに響き、店先からは陽気な音楽が流れ出す。
目に付くもの全てが珍しく、マルクはきょろきょろと辺りを見回した。
笑いながら肩を組んで歩く若者。人々を魅了するパフォーマー。紙袋を抱え、足早に通り過ぎる老人。
獣耳や尻尾を生やした者。宝石の瞳を持つ小人。頭上に小さな光輪を浮かべた者まで。その雑多さが、却って不思議な統一感を演出していた。
だからこそ、アテンの異様さが目についた。
太陽の頭を持つ異形。
しかし、周囲の人々は誰一人として気に留めていない。
「こっちダ」
アテンが道を曲がった。
マルクが後を追う。
薄暗い路地に入った。ゴミや何かの残骸を避けるようにして歩く。
塀に立つ猫の、金色の瞳がマルクを見つめていた。
自分はどこに連れて行かれるのだろう。
彼は、なぜ僕を助けたのだろう。
答えは分からない。少し怖い。
それでも、後を追う足は止まらない。
「この先ダ」
アテンが少しだけ振り返った。
路地を抜けると。
そこは商店街だった。
肉屋、八百屋、魚屋、文具屋、様々な用途の店が立ち並んでいる。軒先では、店主が客と世間話に花を咲かせ、買い物袋を提げた人々がゆっくりと行き交っていた。
先程の大通りほどではないが、人通りもあるし、街は明るい。
しかし、どこかゆっくりとした時間が流れているような、不思議な場所だった。
再び、アテンが歩き出す。
「マルク」
振り向きもせず、アテンが呟いた。
「は、はい!」
「君、生き物は好きかネ?」
「生き物、ですか?」
マルクは数度瞬きをした。
「ああ、好きカ?」
「たぶん……?好きだと思います。ふわふわとかフサフサだったら、余計……」
頭の中に一瞬、あの人狼の姿が浮かぶが、すぐに首を振った。
「そうカ」
アテンの声は、どこか満足そうだった。
「——着いたヨ」
アテンがようやく足を留めた。
古ぼけた建物だった。
足元には干からびた鉢植えが置かれ、軒先には今にも落ちそうな横長の看板がぶら下がっていた。
「“カットみさお”?」
上に向かってくるくると回転する赤と青の螺旋が、妙な存在感を放っていた。
「……床屋さん?」
記憶を探り当てるように、マルクは呟いた。
「もう潰れているけどネ」
「……え?」
「上だヨ」
螺旋を眺めるマルクを置いて、アテンは外階段を登っていった。
二階に登ると、マルクの目の前には一つの扉があった。
木製の古びた扉だった。
“アテン”
と書かれた白のプレートが、妙に目を引く。
「ここが吾輩の家ダ」
アテンは躊躇いもなくドアノブを握る。
「一応言っておくヨ」
「——ようこそ、マルク」
ゆっくりと、ドアが開かれた。




