フェイル村
馬車は、山道を抜けながら揺れるように進んでいた。
窓の外では、短い夏の終わりを告げる風が、木々の葉を舞わせている。
カナは、小さく息を吐きながら、隣に座るエリアスに視線を向けた。
「……あの、あの詩のことなのですが……」
エリアスは少しだけ目を伏せ、頷いた。
「かの黒き夢、魂を深く呑みしもの、白き息絶ゆとも魂は還らず。
彼のものら、深淵にて見果てぬ願いに縛られつつ、夢とて夢ならず……か」
その声には、淡い憂いがあった。
「この詩は、かなり古い記録にある“魂蝕の予兆”を語ったものだ。
正式な文献ではなく、語り部や夢見と呼ばれる者が口伝で残してきたらしい。
もともとは迷信の一つとされていたが……今となっては、無視できない」
カナはその詩の意味を、ゆっくりと反芻した。
「魂が……呑まれる?」
「そうだ。身体は生きているように見えても、魂が帰ってこない。
深い眠りのまま、二度と目を覚まさないかのように」
*
馬車はやがて、フェイル村の近くへ差しかかった。
山に囲まれたこの村は、外見こそのどかな山村だったが、どこか空気が張り詰めているようだった。
風が吹き抜けるたびに、木々の間に隠された何かが息を潜めているような気配がする。
村の入り口には、木彫りの風変わりな飾りが吊るされていた。
小さな木の札に、枝を束ねて編んだような装飾が取りつけられている。
「……あれは?」
カナが目を凝らすと、エリアスが答えた。
「夢よけだろう。悪夢や邪霊を避けるために吊るす護符だ。
こうした村では、昔から信仰に近い形で使われてきた」
その言葉を聞いた瞬間、やはりただならぬ異変が起きているのだと、
カナの胸に重くのしかかる。
馬車を村の入り口に停め、村長の屋敷に向かうと、
一人の初老の男性が、慌てて玄関から飛び出してきた。
「おおっ……カナか!」
エダンだった。懐かしさと安堵が混ざった表情で、彼はカナに駆け寄る。
続いて、中から小柄な女性が飛び出してきて――カナにしがみついた。
「カナっ……! 会いたかったわ!!
どうして……こんな時に……」
「マリナさん……っ!」
そのまま二人は抱き合い、短い再会の喜びを交わした。
マリナの腕は細くて震えていて、それがこの村の置かれた状況の深刻さを物語っていた。
エダンの目がエリアスに向く。
その眉が上がった。
「あなたは……あの時の……」
エリアスは一礼する。
「精霊庁より参りました、エリアス・グランです。
カナさんの護衛、及び精霊の森の異変について、調査に参りました」
「そうでしたか……長旅、ありがとうございます」
エダンは深く頭を下げた。
やがて二人は室内へと案内され、カナとエリアスはソファーに腰を下ろす。
エダンが、静かに語り始めた。
「……十日前の夕方だった。空が、一瞬、青黒く染まったんじゃ。
雲でも月でもなく……何か、重たいものが、空全体を押し潰すような感覚だった」
彼はそう言って、カップを持つ手を震わせた。
「その後しばらくして、“あれ”が出た。
黒く、澱んだ……まるで、靄のようなものが、森の奥から這い出すのを、村の者が見た」
マリナが隣で、小さく震える。
「……初めは、ただの濃い霧だと思った。
でも、次の日から……一人、また一人と、目を覚まさない者が現れたんだ」
カナが頷く。
「途中の村で、聞きました。目を覚まさない人がいると」
「ああ。眠ったまま、微動だにせず。
けれど……呼吸はしている。心臓も動いている。命はある。だが……魂が、帰ってこない。
そして……黒い靄に触れたり、近寄ったりした者は、人が変わったようになる」
その言葉が、室内の空気が凍るような静けさを帯びた。
「……わしらは、それを“夢に呑まれた”と呼んでおる。
あれは……不帰じゃ」
エダンの声には、諦めと祈りが入り混じっていた。
カナはゆっくりと、唇を噛み締めた。
――夢に囚われて、魂が戻らない。
それは、死よりも遠い場所に、意識だけが閉じ込められるということだ。
何がそこにいるのか。なぜ魂が還れないのか。
そして――自分がその“夢”に足を踏み入れたら、果たして無事でいられるのか。
不安と決意がないまぜになった視線を、カナはエリアスへ向けた。
彼もまた、じっとカナを見つめ返していた。




