学院長室
学院祭まであと二週間。
中庭での準備は順調に進んでいた。
噴水の周りには、毎日のように小さな精霊がふわりと現れ、
水辺で跳ねたり、風を撫でてリボンを舞わせる光景が、すっかり日常になっていた。
そんな穏やかな午後、カナは学院長室の前に立っていた。
深呼吸をしてノックする。
「……どうぞ」
カナは重厚な扉をゆっくりと開く。
「……失礼いたします」
「カナさん、お待ちしていました。お入りください」
室内は静かで、高い窓から射し込む光が机上の古書を照らしている。
「どうぞ、おかけください」
カナは緊張しながら椅子に腰掛けた。
セレスタンはゆったりと向かいに座ると、温かな声で口を開いた。
「聖精霊月の祝祷……
カナさんは、もうお聞きになっていますか?」
カナは頷きかけたが、首を傾ける。
「はい。どんなものかは、友人から少しだけ聞いています。
でも、詳しくはまだ知りません」
「……そうですか。わかりました」
セレスタンは深く頷き、窓の外の精霊樹を一瞥する。
「この学院では、聖なる月が満ちる夜、“感謝の祝祷”を行います。
それは、王国の精霊と人との絆を示し、世界の調和を祈る、もっとも神聖な儀式です」
「……はい」
「そして。
今年、その中心に立つのが――あなたです、カナさん」
カナは息を呑み、声を震わせる。
「わ、わたしが……?」
セレスタンは微笑み、静かに頷いた。
「はい。カナさんは精霊から特別に選ばれし存在。
今年の祝祷では、学院の代表として、精霊への祈りを捧げていただきます」
「はい……」
声が震え、思わず俯いた時、扉がノックされ、ゆっくりと開く。
「すまない、遅くなった」
低い声が響き、第一王子レイナルトが部屋に入ってきた。
「殿下、ちょうどよいところです」
セレスタンが微笑む。
「カナさんが学院代表として、祝祷の中心に立つことが決まりました」
レイナルトは頷き、カナを見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「そうか……やはりな。
君にしかできないことだと、精霊庁も判断している」
セレスタンは頷くとカナに向かい、穏やかに続ける。
「もちろん、急にすべてを担わせるわけではありません。
祈りの言葉や儀式の形は、精霊庁と共に私が指導します。
ただ……これは学院にとっても、王国にとっても、たいへん意味のあることなのです」
カナの中で、不安と同時に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
――精霊と人を繋ぐ役目を、自分が果たせるのだろうか。
セレスタンは静かに立ち上がると、白い布包みを差し出した。
「これは、歴代の祝祷者が用いた祈りの書です。
これを読み、この祈りを学び、精霊に寄り添う心を育んでください」
カナが両手でそれを受け取ると、ほんのり温かく、どこか懐かしい香りがした。
「……わたしに、できるでしょうか……」
カナが不安げに呟くと、レイナルトがふと表情を和らげ、静かに言った。
「カナ。君はもう、精霊に選ばれている。
できるかどうかじゃない……
君にしか、できないことなんだ」
セレスタンは、その様子をやわらかな眼差しで見守りながら告げた。
「殿下のおっしゃり通りです。ですが……恐れる必要はありません。
精霊は必ず、あなたを導いてくれます。
心の声を信じて進みなさい。我々も全力で支えますから」
カナは深く息を吸い込み、ぎゅっと祈りの書を抱きしめた。
「……はい、頑張ります」
レイナルトは淡く笑みを浮かべると言った。
「祝祷の当日、君が身につける花冠は、私が準備しよう」
カナが目を瞬かせる。
「え……殿下が……?」
レイナルトは頷くと笑みを深める。
「準備に手を貸すと言っただろう?
花冠を用意するのは私の役目だ。
君に相応しい花を選びたい」
セレスタンが、その様子を慈しむように見つめながら言う。
「王族が祝祷者に花冠を贈るのは、古くからの習わしです。
レイナルト殿下の花冠は、必ずや精霊にも喜ばれるでしょう」
しばしの沈黙の後、レイナルトは学院長に向き直る。
「学院長、ひとつお願いがある。
祝祷でカナが身につける花冠――どうか中庭の花を使わせてほしい」
セレスタンは驚きもせず、柔らかな笑みを浮かべて頷く。
「もちろんです、殿下。
あの庭は精霊たちが愛し育む場所。
きっと、あなたの願いに応えてくれるでしょう」
「……感謝する」
レイナルトはわずかに表情を和らげ、カナの方に視線を向ける。
「行こう、カナ。一緒に花を見に行こう」




