8話
部屋の扉が、静かにノックされた。
「……入りますよ」
返事をする前に、扉がゆっくり開く。
ルミエラが部屋の中に入ってきた。
ベッドに腰掛けたままの俺を見ると、少しだけ表情を和らげる。
「やはり、食事はほとんど手をつけていませんでしたね」
怒っている声ではない。
責める響きもない。
ただ、確認するような声音。
俺は視線を落としたまま言う。
「……怖かった」
言葉にすると、思っていたよりもあっさり出てきた。
「ゴブリンがどうこうじゃなくてさ」
喉がひりつく。
「死ぬとか、壊れるとか……ああいうのが」
拳を握る。
「俺、ゲームみたいなもんだと思ってたかもしれない」
HPがあって、ダメージがあって。
でも実際は違った。
「本当に死ぬんだな」
声が少し震える。
「自分がああなるかもしれないって思ったら、頭が真っ白になった」
沈黙が落ちる。
ルミエラはすぐに答えなかった。
ゆっくりと俺の前まで歩み寄り、視線の高さを合わせるようにしゃがむ。
その目は、昼間の氷のような冷たさではない。
どこまでも静かで、やわらかい。
「……ごめんなさい」
その一言は、想像していなかった。
思わず顔を上げる。
ルミエラは、ほんのわずかに眉を下げていた。
「配慮が足りませんでした」
静かに続ける。
「あなたが生きていた世界では、目の前で命が散るなんてことほとんどなかったはずです」
確かに。
ニュースの向こう側の出来事でしかなかった。
「私は、それを理解していたつもりでした」
けれど、と。
「実感していなかった」
その声には、わずかな悔恨が滲んでいる。
氷でゴブリンを砕いたときの迷いのなさとは違う。
「あなたにとっては、初めての“本物”だったのですね」
俺は何も言えない。
ルミエラは続ける。
私は長い時間を生きています。命のやり取りも、数えきれないほど見てきました」
その瞳の奥に、一瞬だけ深い影が落ちる。
「だから、慣れてしまっている」
それは事実を述べる声だった。
感情を削ぎ落とした、長命の存在の声音。
「ですが、あなたは違う」
そっと、俺の手に触れる。
冷たいと思っていた手は、今は温かい。
一瞬、言葉を探すように視線を伏せる。
「私が連れてきておいて、何を言っているのだと思われるかもしれませんが」
小さく、わずかに苦笑する。
「無理して戦う必要はありません」
静かだが、はっきりと。
「あなたには、この世界を好きでいてほしいのです」
その言葉は押し付けではない。
願いだった。
「やりたくないことを、無理してやらないでください」
指先に、ほんの少し力がこもる。
「逃げられる時は、逃げていいのです」
そこで一度、息を置く。
「もし今後、逃げられない場面が来てしまった時は――」
視線がまっすぐにこちらを射抜く。
昼間、氷を放ったときと同じ強さ。
「私がやります」
短く、揺るがない。
それは慰めではなく、決意だった。
自分が壊す側に立つという宣言。
「あなたが、この世界を嫌いにならないように」
ぽつりと続ける。
「それが、今の私の願いです」
部屋に、静かな余韻が落ちる。
俺はしばらく何も言えなかった。
胸の奥が、じわりと温かい。
怖さは消えていない。
でも、それとは別の感情が、確かにそこにあった。
「……いや」
小さく声を出す。
ルミエラがわずかに首を傾げる。
「大丈夫」
言いながら、自分でも少し可笑しくなる。
全然大丈夫じゃないのに。
それでも、言わなきゃいけない気がした。
「まだ怖いけどさ」
正直に言う。
「転生するって決めたのは、俺だ」
森で目覚めたとき。
選んだのは自分だ。
誰かに強制されたわけじゃない。
「だから、いざって時はやる覚悟くらいは決めとく」
拳を軽く握る。
震えは、もうさっきほどじゃない。
「……まあ、最初は慣れないかもしれないけど」
視線を逸らす。
急に気恥ずかしくなる。
「迷惑かけるかもだけど」
言いながら、頬が少し熱い。
「だから、その……謝んないでほしい」
言ってしまってから、顔がさらに熱くなる。
こんな真面目なことを言うつもりじゃなかったのに。
部屋が妙に静かだ。
恐る恐る視線を戻す。
ルミエラは、ほんの少しだけ目を見開いていた。
それから、ゆっくりと、柔らかく笑う。
昼間の氷でも、神の静謐さでもない。
ただ、安堵の混じった笑み。
「……分かりました」
小さく頷く。
「では、謝りません」
その代わり、と続ける。
「あなたが迷った時は、隣にいます」
押し付けるでもなく、誓うでもなく。
ただ、当たり前のように。
俺は小さく笑う。
「それなら、まあ……悪くない」
怖さは消えていない。
この世界は、きっとこれからも残酷だ。
でも。
ひとりじゃない。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
ルミエラは立ち上がり、扉へ向かう。
「おやすみなさい、リベル」
「……おやすみ」
扉が閉まる。
静かな部屋の中で、俺は天井を見上げた。
逃げてもいい。
でも、やる時はやる。
そう決めた。
それは強さじゃない。
ただの覚悟だ。
目を閉じる。
今度は、氷の白よりも、柔らかな笑みの方が先に浮かんだ。




