5話
冒険者組合の扉は、思っていたよりも重かった。
ぎい、と軋む音を立てて開く。
その瞬間、空気が変わった。
酒の匂い。
鉄の匂い。
乾いた血と汗が混ざったような、生々しい空気。
中は広い。だが整然とはしていない。
丸テーブルがいくつも置かれ、その周囲を屈強な男女が囲んでいる。
鎧姿の男。革装備の女。大剣、槍、弓、斧――武器が無造作に立てかけられている。
笑い声は大きく、言葉遣いは荒い。
椅子を引く音も、酒瓶を置く音も、やけに響く。
……場違いだ。
今の自分は少女の姿。
しかも森での逃走のせいで傷だらけ。服も完全とは言えない。
視線が刺さる。
「なんだあの子供」
「迷い込んだのか?」
小さな囁きが耳に届く。
心臓が強く打つ。
そのとき、後ろから女神の声。
「大丈夫ですよ」
振り返ると、相変わらず穏やかな笑み。
この荒々しい空間の中で、その存在だけがやけに浮いている。
「ほら、あちらです」
促されるまま、カウンターへ向かう。
そこに立っていたのは――
それはそれはもう可愛い受付嬢、という存在ではなかった。
一言で言えば、姐さん。
肩幅が広い。
腕は鍛えられていて、薄い服の上からでも筋肉のラインがわかる。
日焼けした肌。鋭い目。
書類をめくる手も、どこか豪快だ。
「なんだい」
低く、よく通る声。
一瞬だけ喉が詰まるが、なんとか言葉を出す。
「冒険者登録、したい」
姐さんはじっとこちらを見た。
少女の姿。傷だらけの身体。後ろに立つ女神。
数秒の観察のあと、ふっと口角を上げた。
「初めてかい?」
「ああ」
「よし。説明するからよく聞きな」
カウンターの下から資料を取り出す。
「冒険者の階級は上からS、A、B、C、D、E、F級。登録時は全員F級だ」
指で順に示す。
「討伐クエストが受けられるのはE級から。それまでは採取や運搬、雑務。まずは基礎を覚えな」
なるほど。
「あと、クエストを長期間受けないと冒険者証は自動失効する。籍だけ置いておくことはできない。ちゃんと働けってことだよ」
思っていたよりも現実的だ。
冒険者というより、きちんとした職業だ。
説明を聞き終える。
「どうする? 登録するかい?」
迷う理由はない。
「ああ、する」
そう言った瞬間。
「登録料がかかる。銀貨十枚。千ジルだ」
……。
頭が真っ白になる。
登録料。
金。
持ってない。
ポケットを探る癖が出そうになるが、当然何もない。
固まる俺の横で、女神が一歩前に出た。
「私が払いますよ」
さらりと銀貨を並べる。
硬貨がカウンターに当たる乾いた音が響いた。
助かった。
けれど、借りが増えていく感覚が少しだけ重い。
女神は続ける。
「この子、初めて冒険者になるので。私とそのままパーティを組ませてもらってもいいですか?」
姐さんは女神を見る。
「冒険者証見せてみな」
女神が差し出したカードを受け取る。
視線が走る。
そして、眉がわずかに上がった。
「……C級か」
周囲のざわめきが、ほんの少し変わる。
C級。
上から四番目。
つまり、それなりに実力がある。
「問題ないね。C級が責任持つならな」
カードが返される。
そして、登録用紙が差し出された。
「ここに名前を書きな」
羽ペンとインク壺。
紙の中央に、空白。
名前。
手が止まった。
羽ペンを持った手が紙の上で止まったまま動かない。
名前。
頭の中に浮かぶのは、前の世界の名前。
立川リョウヤ。
けれど――それを書くのは、違う気がした。
姿は少女。
世界も違う。
もう元の身体でも、元の人生でもない。
ここでその名前を書くのは、どこか中途半端だ。
じゃあ、何を書く?
この世界で生きるなら。
この世界で戦うなら。
ここで決めるのは、これからの自分の名前だ。
ペン先が紙の上をさまよう。
俺が自分の名前で悩んでいると、横から、すっと手が伸びた。
「悩んでいるなら、これでいいんじゃないですか?」
さらさらと、迷いなく文字が書かれる。
リベル
インクが紙に染み込む。
「おい、勝手に――」
抗議しかけるが、女神はにこりと笑うだけ。
「あなたにぴったりですよ」
リベル。
自由を意味する響き。
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
……悪くない。
むしろ、しっくりくる。
姐さんが書類を覗き込む。
「リベル、か。変わった名前だね」
けれど否定はしない。
「よし、これで登録だ」
書類が回収され、奥へ運ばれる。
数分後、薄い金属製のカードが戻ってきた。
刻まれているのは――
F級
名前:リベル
それを手渡される。
ひやりと冷たい。
一番下の階級。
まだ何者でもない。
けれど。
これは、この世界での最初の肩書きだ。
「今日からあんたはF級冒険者だ」
姐さんの声が響く。
周囲の喧騒は変わらない。
誰も特別に祝ってはくれない。
それでも。
確かに、何かが始まった。
女神が隣で微笑む。
「これで正式に冒険者ですね、リベル」
名前を呼ばれる。
リベル。
もうそれが、俺の名前だ。
カードを握りしめる。
この荒々しい空間の中で、小さく息を吐いた。
ここから俺の物語が始まる、そんな気がした。




