3話
川面に映った自分の顔を、俺はまじまじと見つめた。
透き通るような白い肌。
大きな瞳。
長い睫毛。
整いすぎている輪郭。
そして何より――
「……は?」
声が、やけに高い。
川面の中の少女も、同じように口を開いた。
数秒、思考が止まる。
「……いやいやいやいや」
思わず水面に向かって身を乗り出す。
「変わるって言ってたけどさ、変わりすぎだろ!」
森に声が響いた。
どう見ても、美少女だ。
しかも年齢も明らかに若い。十三歳くらいか?
手足も細いし、背も低い。
声も高い。
自分の頬を引っ張る。
柔らかい。痛い。現実だ。
「……俺、立川リョウヤだよな?」
川は答えない。
ただ、やたらと可愛い顔が映っているだけだ。
女神は「少し変わる」と言った。
少しとは何だ。
これはもう別人レベルだろ。
額に手を当て、深く息を吐く。
落ち着け。
外見が変わっただけだ。
中身は俺だ。
……たぶん。
改めて自分の体を見る。
服は簡素なシャツとズボン。動きやすそうな軽装。
靴もちゃんと履いている。
ポケットを探ると、小さな革袋が入っていた。
中を見る。
硬貨が数枚。
銀色と銅色のものが混じっている。
「……初期資金ってやつか」
完全な丸腰ではないらしい。
他には何もない。
武器も、防具も、地図も。
「スティールしかないのかよ……」
胸の奥が少し重くなる。
森の匂いがする。
湿った土の匂い。
葉が擦れる音。
遠くで鳥の鳴き声。
ここは確実に異世界だ。
女神の説明を思い出す。
――森の中に転生する。
――少し歩けば街道。
――半日ほどで街。
少し歩けば、とはどっちだ。
俺は立ち上がり、周囲を見回す。
背の高い木々が視界を遮っている。
太陽は見えるが、方向までははっきりしない。
「……とりあえず、動くしかないか」
立ち止まっていても始まらない。
一歩踏み出す。
足は軽い。
体も妙に軽い。
以前の自分より、明らかに身体能力が上がっている感覚がある。
これが“世界に適応した体”か。
でも――
「これで魔物に勝てるとは思えないんだよな……」
スティール。
対象の手元にあるものを一つ奪う能力。
つまり、近づかないと使えない可能性が高い。
「……接近戦前提か?」
想像しただけで胃が痛い。
森の中を慎重に歩く。
枝を踏まないように。
音を立てないように。
しばらく進んだが、それらしき街道は見えない。
「……おかしくないか?」
“少し歩けば”と言っていた。
少しってどれくらいだ。五分か?十分か?
もう体感で二十分は歩いている。
同じような木。
同じような景色。
方向を間違えたか?
足を止める。
心臓の鼓動が、さっきより早い。
迷った?
いや、落ち着け。
まずは太陽の位置を確認する。
さっき川があった。
川の流れの方向は?
振り返る。
「あ」
川が見えない。
「……嘘だろ」
ほんの少し離れただけのつもりだった。
焦りが喉を締める。
森は、静かだ。
静かすぎる。
その静けさが、逆に怖い。
俺は深呼吸する。
パニックになるな。
街がある。
人がいる。
そこまで辿り着けば、ひとまず死なない。
「……大丈夫だ」
誰に言うでもなく呟く。
と、そのとき。
がさり。
背後の茂みが揺れた。
全身が硬直する。
ゆっくりと振り返る。
小さな影。
赤い目。
牙。
犬ほどの大きさの、灰色の魔物がこちらを見ていた。
「……は?」
喉がひゅっと鳴る。
早い。
早すぎる。
街道に出る前に、エンカウントかよ。
魔物が低く唸る。
逃げるか。
戦うか。
いや、戦えるのか?
俺の手には武器がない。
あるのは――
「スティール……」
ごくりと喉を鳴らす。
これ、どうやって使うんだ?
頭の中で必死に考える。
対象の手元にあるものを一つ奪う。
手元。
あの魔物の“手元”って何だ?
牙か?
爪か?
それとも――
魔物が地面を蹴った。
距離が一気に詰まる。
「うわっ!」
反射的に横へ飛ぶ。
体が軽い。
思った以上に動ける。
地面を転がり、すぐに立ち上がる。
心臓が暴れ狂っている。
「冗談だろ……」
転生して、まだ十分も経っていない。
これが異世界の洗礼か。
魔物が再び低く唸る。
逃げ切れるか?
森の地形は不利だ。
なら――
「やるしかない……のか?」
震える手を前に出す。
意識を集中させる。
スティール。
発動条件も、射程もわからない。
それでも――
「頼むから、役に立てよ……!」
魔物が飛びかかる。
その瞬間、俺は叫んだ。
「スティール!」
「何も起きない。
光も。
手応えも。
変化も。
次の瞬間――
空気が潰れた。
見えない塊に叩きつけられたような衝撃。
体が浮く。
地面が横に流れ、背中から強く打ちつけられる。
「っ……!」
息が強制的に抜ける。
腕に熱が走る。
シャツが裂け、皮膚に細い傷が滲む。
魔物は着地し、低く唸った。
何も変わっていない。
「……やっぱ、ダメだよな……」
かすれた声が漏れる。
武器も持ってない。
道具もない。
牙と爪は、あいつの体の一部だ。
奪えるわけがない。
地面を蹴る音。
来る。
今度は考える前に動いた。
横へ飛び、転がり、立ち上がる。
背を向けて走る。
枝が顔を打つ。
足元が不安定に揺れる。
止まったら死ぬ。
背後から迫る重い足音。
速い。
「くそ……!」
スティールは、少なくとも今の相手には通じない。
なら、逃げるしかない。
木々の間を縫うように走る。
低い枝の下を無理やり潜る。
背後で何かが大きく揺れる音。
一瞬、距離が開いた気がした。
肺が焼ける。
脚が重い。
それでも止まらない。
前方に傾斜が見える。
下り坂。
その先、木々の密度がわずかに薄い。
「頼む……!」
坂を駆け下りる。
足を滑らせる。
転ぶ。
そのまま斜面を転がる。
衝撃。
視界が回る。
最後に硬い地面に叩きつけられ、止まった。
しばらく動けない。
恐る恐る、背後を振り返る。
……いない。
赤い目も、灰色の影も見えない。
揺れる枝も、足音もない。
撒いたのか。
それとも、ただ見失っただけか。
分からない。
でも、追ってくる気配はない。
ゆっくりと周囲を見る。
踏み固められた土の道。
森とは明らかに違う。
街道。
「……魔物相手に使える能力じゃ、ないってことか」
小さく呟く。
スティール。
万能じゃない。
少なくとも、森の中では頼れない。
俺は丸腰だ。
でも――
生きてる。
荒い呼吸を整えながら、空を見上げる。
異世界一日目。
難易度、想像よりずっと高かった。




