12話
さっきまでいた場所とは、明らかに空気が違う。
木々は高く、幹は太く、光が地面まで届いていない。
湿った土の匂いが濃い。
森の“奥”だと、理屈ではなく本能が告げていた。
ここで魔物に出会ったら――
あるのは、死だけ。
ルミエラの声が脳裏に蘇る。
『森の奥に行けば行くほど、危険な生物は増えます』
あの時は、どこか他人事だった。
守られている前提があった。
でも今は違う。
ひとりだ。
喉が鳴る。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
震えを押さえ込むように、何度も呼吸を繰り返す。
覚悟を決めろ。
そう自分に言い聞かせ、一歩踏み出した。
落ち葉を踏む音がやけに大きい。
少し歩いただけで、森の音が変わる。
入り口付近では聞こえなかった、低く濁った鳴き声。
遠くから響く、重い唸り。
声だけで分かる。
大型種だ。
もし遭遇したら、今の自分では終わりだ。
息を潜める。
足の裏全体で地面を捉え、音を殺すように進む。
この世界に来て、一番緊張している。
心臓の音がうるさい。
本当にうるさい。
敵に聞こえるんじゃないかと思うほどに。
その時だった。
背後で――
ガサッ。
乾いた枝を踏む音。
反射的に振り返る。
そこにいたのは、小さな灰色の狼。
赤い目。
鋭い牙。
低く構えた姿勢。
間違いない。
あの日。
この世界に来た初日に出会った、あの魔物だ。
喉の奥がひりつく。
足が、動かない。
あの時の光景が蘇る。
何もできなかった。
ただ、逃げるしかなかった。
力の差を突きつけられた。
あの恐怖。
あの無力感。
狼が唸る。
低く、地面を震わせるような音。
そして――跳んだ。
速い。
視界がぶれる。
震える足では、完全には避けきれない。
鋭い牙が脇腹を掠める。
「っ――!」
熱い。
次の瞬間、血がビシュッと飛び散る。
地面に赤が落ちる。
痛みが遅れて襲ってくる。
怖い。
逃げたい。
本能が叫ぶ。
でも狼は止まらない。
追撃のため、再び距離を取って構える。
赤い目が、こちらを射抜く。
ああ。
ここで、死ぬのかな。
一瞬、思考が静まる。
その時。
ルミエラの顔が浮かぶ。
真っ直ぐな目。
少し困ったように笑う表情。
『危険だと思ったらすぐに戻りな。冒険者は命が仕事道具。無茶して評価をあげるなんて馬鹿なことするんじゃないよ』
声が、はっきりと蘇る。
今も、森の中で俺を探しているかもしれない。
それなのに。
俺が、ここで終わる?
そんなわけ、あるか。
震える手で、短剣を握る。
血で滑りそうになる柄を、強く握り直す。
立て。
足に力を込める。
逃げるためじゃない。
前に出るために。
俺は――
ここで、冒険者になる。
狼が再び地面を蹴る。
リベルは、正面から踏み込んだ。
狼の牙が迫る。
リベルは横へ転がるように躱す。
遅い。
自分でも分かる。
だが、初日のように何もできないわけじゃない。
狼が着地した瞬間、踏み込む。
低く。
短剣を逆手に構え、腹を狙う。
刃が毛皮を裂く。
浅い。
だが確実に届いた。
狼が吠える。
鋭い爪が振り下ろされる。
受ける。
金属と爪がぶつかる衝撃が腕を痺れさせる。
重い。
想像以上に重い。
押し負ける。
だが、足を引かない。
ルミエラとの訓練が脳裏をよぎる。
『下がらないことと、無理に前に出ることは違います』
踏ん張れ。
力で勝てないなら、角度をずらせ。
刃を滑らせるように軌道を逸らす。
爪が地面を抉る。
土が舞う。
今だ。
踏み込み、喉元へ。
しかし――
狼の頭突き。
視界が揺れる。
次の瞬間、衝撃。
ガンッという鈍い音。
短剣が弾き飛ばされる。
乾いた音を立てて、数メートル先に落ちた。
狼が低く構える。
赤い目が、こちらを捉える。
まずい。
取りに行けば間に合わない。
狼が地面を蹴る。
終わる――
視界の端に、落ちた短剣。
考えるより先に、言葉が出た。
「スティール」
空気が、ひずむ。
一瞬、世界が引き剥がされるような感覚。
次の瞬間。
――手の中に、重み。
短剣が、握られていた。
自分でも驚く暇はない。
迫る牙。
踏み込む。
ほぼ同時。
すれ違いざま、全体重を乗せて振り抜く。
刃が、喉を深く裂いた。
熱い血が腕にかかる。
狼がもがく。
爪が肩を掠める。
痛みが走る。
それでも離さない。
押し込む。
地面に倒れ込む。
数秒。
重い体が震え――やがて、力を失った。
森に静寂が戻る。
荒い呼吸だけが響く。
短剣を握ったまま、数歩後ずさる。
足に力が入らない。
膝が折れる。
ぽてん、と尻餅をついた。
しばらく、動けない。
鼓動がうるさい。
手が震えている。
目の前には、動かない狼。
ゆっくりと実感が追いつく。
「……勝った」
ぽつりと漏れる。
誇らしさよりも、安堵。
生きている。
ただ、それだけで胸がいっぱいになる。
空を見上げる。
木々の隙間から、わずかな光が差し込んでいた。




