11話
森の入り口に立つ。
久々に来た。
まだ半月しか経っていないが、森の雰囲気は変わらない。
南にあった森と違い、この森へ入る足は少し重い。
ごくりと、生唾を飲み込む。
すると後ろから、肩をぽんと叩かれた。
「大丈夫です。私がいますから」
ルミエラの声。
それだけで、胸のざわつきが少しだけ薄れる。
俺は小さく頷き、意を決して森へと足を踏み入れた。
森は変わらなかった。
あの日と同じだ。
静かで、暗く、空気はひんやりと重い。
遠くからは魔物の鳴き声が聞こえてくる。
今回依頼された場所は、比較的街道に近い部分だ。
奥へ入る必要はない。
それでも油断はできない。
魔物の気配を探りながら、一歩一歩、調査を進めていく。
落ち葉を踏む音がやけに大きく感じる。
風で揺れる枝葉に、無意識に視線が跳ねる。
特に変わった様子はない。
だが――
初めての指名依頼。
そして、いつ魔物が襲ってくるか分からないという緊張。
その見えない圧力に、じわじわと神経が削られていく。
命が仕事道具。
そう分かっていても。
心までは、簡単に慣れてはくれなかった。
森の奥へと続く街道沿いを、慎重に進む。
足元の落ち葉は乾いていて、踏むたびに小さな音を立てる。
静かだ。
静かすぎる。
魔物の気配はある。
遠くで枝が折れる音。
低くうなるような声。
だが、こちらに近づいてくる様子はない。
「今のところ、異常な魔力の乱れはありません」
隣を歩くルミエラが、小さく告げる。
その声音は落ち着いている。
だが俺の神経は、落ち着いてなどいなかった。
視界は悪い。
木々の間から差す光は細く、影が濃い。
どこに何が潜んでいてもおかしくない。
「……っ」
わずかな気配。
右。
反射的に短剣を構える。
茂みが揺れた。
飛び出してきたのは、ゴブリン。
一体。
緑色の肌に、歪んだ笑み。
短剣を握り、低い姿勢でこちらを窺っている。
「落ち着いて」
ルミエラの声。
俺は呼吸を整える。
一歩、前に出る。
ゴブリンが飛びかかってくる。
速い。
だが――
半月前ほどではない。
横に流し、剣を振る。
浅い。
手応えはあったが、致命傷にはならない。
ゴブリンが甲高い声を上げ、再び突進する。
「踏み込みが浅いです」
後ろから、冷静な指摘。
分かってる。
もう一歩。
恐怖を押し込め、踏み込む。
今度は深く。
短剣が脇腹に叩き込まれる。
鈍い音。
ゴブリンが倒れ込む。
動かない。
荒い呼吸が、森に溶ける。
「……よし」
震えはある。
だが、立っている。
「安定してきましたね」
ルミエラの評価は淡々としている。
褒めすぎない。
甘やかさない。
それが逆に、信頼の証のように思えた。
その後も、数度の接触があった。
ゴブリン二体。
コボルド一体。
連携は甘く、統率も感じられない。
だが数が増えれば危険は跳ね上がる。
三体目のゴブリンと対峙したときだった。
足元の根に気づくのが遅れた。
躓く。
視界が揺れる。
その隙を、ゴブリンは逃さない。
棍棒が振り下ろされる。
「危ない」
その瞬間、空気が震えた。
見えない衝撃が、ゴブリンを弾き飛ばす。
数メートル先の木に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
俺は地面に手をついたまま、荒く息を吐く。
「無茶はしないことです」
いつの間にか、すぐ傍にルミエラが立っていた。
表情は穏やかだが、目は鋭い。
「……助かった」
「あなたが倒すべきでしたが」
容赦ない。
「ただし、命と引き換えにする必要はありません」
エミルの言葉が頭をよぎる。
――冒険者は命が仕事道具。
俺はゆっくり立ち上がる。
「次は、自分でやる」
「ええ」
短い返事。
それ以上は言わない。
信じているのか。
試しているのか。
森は相変わらず静かだ。
だが、確実に俺は“半月前の自分”ではなかった。
それからも、慎重に進んだ。
無理はしない。
だが、逃げすぎもしない。
ゴブリンの小集団と二度遭遇した。
いずれも三体ほど。
棍棒を振り回しながら、唾を飛ばして威嚇してくる。
以前なら、それだけで足がすくんでいた。
今は違う。
呼吸を整え、距離を測る。
一体を引きつける。
横へ流す。
踏み込む。
短剣を振るう。
浅い傷では終わらせない。
確実に、急所を狙う。
倒れる。
だが、背後から風を切る音。
咄嗟に身を捻る。
棍棒が肩をかすめる。
鈍い衝撃。
痛みが走る。
「っ……!」
体勢が崩れる。
二体目が迫る。
間に合わない。
そう思った瞬間、地面が揺れた。
足元から突き上げるような圧力。
ゴブリンたちが弾き飛ばされる。
転がり、立ち上がろうとしたところを、俺は踏み込んだ。
一体。
二体。
呼吸が荒い。
だが、立っているのは俺だ。
「……今のは、助けただけです」
背後からルミエラの声。
振り返ると、彼女は静かに立っていた。
大きな魔術を使った様子はない。
ほんの一瞬、均衡を崩しただけ。
「自分で決めると言ったでしょう」
その声は責める響きではなく、確かめるような柔らかさを含んでいた。
「分かってる」
息を整えながら答える。
「でも、死ぬなとも言われた」
ルミエラは小さく頷く。
「ええ。あなたが倒せる場面でした。ただ、今はそれでいいのです」
それ以上は踏み込まない。
信じているのか。
見守っているのか。
森の中をさらに進む。
街道からそれほど離れてはいない。
依頼の範囲内。
地形を確認し、痕跡を探る。
足跡。
折れた枝。
争った形跡は――特にない。
「魔物の数に偏りは見られません」
ルミエラが周囲を見渡す。
「魔力の流れも安定しています」
俺もしゃがみ込み、地面に触れる。
冷たい土。
湿った匂い。
変わらない。
あの日と同じだ。
それでも、集中力は削られていく。
いつ、どこから来るか分からない。
その緊張が、じわじわと体力よりも先に神経を削る。
さらに一度、コボルドと遭遇した。
犬のような頭部。
素早い動き。
棍棒ではなく、粗末な槍を持っている。
距離が取りづらい。
一歩踏み込めば刺される。
下がれば押される。
汗が流れる。
槍が突き出される。
弾く。
火花のような衝撃。
二度目。
三度目。
腕が痺れる。
「リベル」
ルミエラの声。
冷静だ。
それだけで、思考が戻る。
槍は直線的だ。
軌道を読む。
四度目の突き。
半歩横へ。
懐に潜る。
短剣を押し込む。
コボルドの体が崩れ落ちる。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
「……いける」
思わず漏れる。
強くなっている。
確実に。
「そうですね」
即座に否定はしない。
「ですが、焦らなくていいのですよ」
声色は穏やかだ。
釘を刺すというより、支える響き。
その後も調査を続けた。
倒れた木。
獣道。
魔物の巣らしき窪地。
だが、大規模な移動や異常な痕跡は見当たらない。
日が傾き始める。
木々の隙間から差す光が、さらに弱くなる。
「そろそろ戻りましょう」
ルミエラが言う。
俺は頷く。
十分に確認した。
危険な兆候は見つからない。
街道付近に現れている魔物も、数としては通常範囲内。
「結論としては……」
俺が呟く。
「特に変わった様子はない、ですね」
ルミエラが静かに続ける。
「森の奥で縄張り争いが起きている可能性はあります」
「縄張り争い?」
「強い個体が現れれば、弱い個体は押し出されます」
だから街道側へ流れてきたのかもしれない。
「ですが、確証はありません」
あくまで推測。
俺は森の奥をちらりと見る。
奥へ行けば行くほど、危険生物が多い。
そう言っていた。
そこまでは依頼範囲外だ。
今の俺が踏み込む場所ではない。
「……帰るか」
そう言って、踵を返しかけた――その瞬間だった。
ふわり、と。
空気が変わった。
最初は、森特有の冷たい風が吹き抜けただけだと思った。
だが次の瞬間、視界の端が白く霞む。
「……?」
足を止める。
木々の間を、薄い霧が漂い始めていた。
朝靄のような淡いものではない。
もっと濃い。
地面を這うように広がり、瞬く間に足元を覆っていく。
「霧……?」
この時間に?
空はまだ暗くなっていない。
湿度もそこまで高くなかったはずだ。
胸の奥のざわつきが、強くなる。
「リベル」
ルミエラの声。
すぐ後ろにいたはずだ。
振り返る。
だが――
白い。
霧が一気に濃くなった。
数歩先すら見えない。
木の幹も、道も、輪郭が曖昧になる。
「ルミエラ?」
姿が、見えない。
さっきまで、腕を伸ばせば触れられる距離にいたのに。
足音が聞こえない。
風も止んでいる。
静かすぎる。
「大丈夫ですか!? 危ないですからこっちに来てください!」
霧の向こうから声が響く。
はっきりと。
焦りを含んだ声。
「そっちか!」
反射的に、声のした方向へ踏み出す。
落ち着け。
慌てるな。
だが視界が白い。
方向感覚が狂う。
足元を確認しながら進む。
枝に肩を擦る。
霧は冷たい。
肌にまとわりつく。
「ルミエラ!」
返事はない。
だが、さっきの位置からそう離れていないはずだ。
もう一歩。
もう一歩。
声の残響を頼りに。
数秒。
いや、もっとか。
時間の感覚が曖昧になる。
そして。
ふっと。
風が抜けた。
霧が薄れる。
視界が開ける。
俺は立ち止まった。
そこには、木々がある。
静かな森。
いつも通りの風景。
だが――
「……ルミエラ?」
誰もいない。
足跡もない。
気配もない。
さっきまで、確かに一緒にいた。
声も聞いた。
「……嘘だろ」
心臓が、嫌な音を立てる。
静かだ。
あまりにも静かだ。
遠くの魔物の声すら聞こえない。
「ルミエラ!」
叫ぶ。
森に吸い込まれる。
返事はない。
逸れた。
そう理解するのに、数秒かかった。
霧はもうない。
だが、方向が分からない。
ここがさっきまでいた場所なのかも、確信が持てない。
喉が渇く。
手のひらが汗ばむ。
命が仕事道具。
その言葉が頭をよぎる。
だが今、頼るべき“守る神”がいない。
ひとり森の中に取り残された。
胸の奥のざわつきが、恐怖へと形を変える。
呼吸が浅くなる。
落ち着け。
まずは状況確認だ。
そう思うのに、足が動かない。
森は静まり返っていた。
さっきまで聞こえていたはずの虫の羽音も、風に揺れる葉擦れもない。
音が、ない。
世界から、音だけが抜き取られたみたいに。
自分の呼吸だけがやけに大きく響く。
胸の鼓動が、耳の奥で鳴る。
こんな森、知らない。
いつもなら、どこかで何かが動いている。
生き物の気配がある。
でも今は――
何もいない。
いや。
“何もいないように見える”だけかもしれない。
白い霧は消えたはずなのに、視界の端が落ち着かない。
木々の影が、わずかに揺れる。
風は吹いていないのに。
喉が鳴る。
ひとりだ。
本当に。
ひとりだ。
「……ルミエラ」
呼んでも、森は何も返さない。
声が吸い込まれて、消える。
世界に、自分だけが取り残されたような感覚。
それがじわりと、背中を冷やしていく。




