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婚約破棄されたら幸せを拾いました  作者: 夏つばき


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148 ヘンリーの後悔

前話の後書きではタイトルを「誘い」とお知らせしていましたが、「ヘンリーの後悔」に変更しました。

どうかご了承ください。


(・・・・・・今日も疲れた)

重い足をひきずりながら家路を急ぐ。

道から漂う美味しそうな夕食の香りや、家々から聞こえてくる子どもたちの元気な声が、胸の奥に小さな棘のように刺さる。


(今ごろ俺も、あんな家庭を築いていたのだろうか・・・)

重い胸に、後悔の念がひそかによぎる。

どうして、あのとき、あんな選択をしてしまったのだろう。


牢に入れられ、すぐに取り調べが始まるのかと思いきや、そのまま放っておかれた。

だが俺には、その静けさがかえって恐ろしかった。

いつか、かつて俺が痛めつけた奴らが俺に復讐しに来るのではないかと怯え、一晩中眠れなかった。


翌朝、看守が差し入れた朝食には手をつけられず、誰も訪れないまま時間だけが過ぎていった。

昼食も口にせず、孤独と不安だけが胸に重くのしかかった。


夕食の時間になり、牢の扉が開くとカーターが現れた。

あれほど忌み嫌っていた相手なのに、なぜかほっとした。

少なくとも、カーターには俺に対する恨みはない。

そのことだけは、胸の奥で小さな安堵となって広がった。


『少しは落ち着いたか?』


『は、はい。あ、あの、俺の処分は・・・?』

『騎士団は懲戒解雇。妃殿下への暴言やつきまとい行為については、保留だ』


『・・・・・・・・は、はい』


怖くて、もう何でもいいから、この牢から出してほしかった。

震える俺の様子を確認すると、カーターは静かに書類を取り出した。

その手つきは、怒りも軽蔑もなく、ただ淡々と任務を遂行する者の冷静さだけがあった。


『奥さんから、離婚届を預かってきている』


『えっ!?』

『離婚届にサインをすれば、君の減刑嘆願書にもサインすると言っている』


(・・・・・・・ルナの奴め!)

お互いに助け合うのが夫婦だというのに、窮地に立たされた俺を、ルナは平然と見捨てるのか。

必ずルナには、思い知らせてやらねばならない。

ルナへの怒りがふつふつと湧いたが、カーターの目があるため、しおらしく俯くに留めた。


『子どもの親権は奥さん。後見人には、君の兄であるボビー様を立てること。それが離婚の条件だそうだ』

『・・・・・・そうですか』


(・・・別に、それはいい)

ハリソンに対する愛情はあるが、自分では世話をすることはできない。

ルナの元で育つことに、異論はなかった。


そんなことより、ルナだ。

俺を裏切ったルナだけは、許せない。

拳を思いっきり握りしめる。

力いっぱい握りしめても、解けることのない怒りが、ただひたすらにルナに向かって沸き上がってくるだけだった。


(・・・・・・・・・あっ、やべっ)

カーターは、まるで俺の心の内を探るかのように、じっと様子をうかがっていた。

そのことに気付き、俺は必死に神妙な顔つきを作った。

心の中では怒りと焦りが渦巻いているが、カーターの視線に怯え、反省しているふりを装わずにはいられなかった。


『この離婚届にサインすれば、起訴はされないだろうね。君次第だ』

『えっ?じゃ、じゃあ、サインします』


離婚しても、頼れる親戚のいないルナは、俺から離れられないだろう。

この牢から出られさえすれば、後はどうとでもなる。

そう思い、俺はサインをした。


『じゃあ、あとはこれにもサインしたまえ』


『・・・これは、なんですか?』

『これは、養育費に関する契約書だ』

『養育費?』

『ああ。子どもを育てる際に必要なお金の支払いだ。原則、子どもと同居していない親が支払うものだ。でも、契約を交わしても、払わない親が多いんでね。先月、給与から強制的に徴収できる法律ができたんだよ。これにサインしたまえ』


(・・・・・・面倒だな)

給与から強制的に徴収されるのなら、逃れることはできないだろう。

今までは、誤魔化す余地もあった。


だが、この契約はそれを許さない。

それでも、この書類にサインしなければ、ここから出ることさえは叶わないのだ。


俺をこんな立場に追い込んだルナへの怒りを胸に、震える手でサインをした。

カーターは満足そうに頷き、もはや用はないと言わんばかりに席を立った。


『では、確かに預かったよ』

『あ、あの、俺は、これからどうなるんですか?』


『さぁ?でも、これで奥さんは減刑嘆願書にサインするだろうし、話はそれからだな』


(・・・・・・・・・思わせぶりなことばかり言いやがって!)

だが、これで牢から出られそうだ。

ここを出た後に、俺を裏切ったことをルナに思い知らせてやればいい。

そう考えることで、溜飲を下げ、釈放までの日々をなんとか乗り切った。




「ただいま・・・・・・」


迎える者はいないまま、扉を開けた。

誰もいない家の空気は冷たく、灯りのない部屋は、まるで俺の心まで飲み込むかのように暗かった。


(・・・どうして、こんな風になってしまったのだろう)

牢を出て真っ先に会いに行った親父は、捕まった俺を見限ったのか、敷居さえ跨がせてくれなかった。

怒りをぶつけるはずだったルナは、ハリソンを長兄ボビーに預け、どこかに行方をくらませていた。

探し出そうと必死になったが、伝手もなく、すぐに諦めざるを得なかった。

ルナの行方はまったく掴めず、虚しさだけが胸に残った。


ルナも見つからず、親父にも会ってもらえないのなら、王都にいても意味はない。

行き場のない思いを抱え、俺は家を後にした。

世間の目を避け、知り合いのいない港町で、新たな人生を始めることに決めた。


だが、どこで働いても人との摩擦が絶えず、結局、日雇い人夫として働いた。


不安定な生活が続く中、体力自慢だった俺にも、ついに疲れが溜まり始めた。

日々の仕事は決して楽ではなかったし、早朝から夜遅くまで働いても給料が安定しない。

仕事をしてもしても給料から養育費が差し引かれるせいで、収入は足りなかった。

これまでの借金の返済も、重く肩にのしかかっていた。


そのせいか、気付けば身体のあちこちに痛みが出ていた。

最初は少し休めば治るだろうと思っていたが、次第に痛みが取れなくなってきた。

こんなことを続けていたら、いつか身体が限界を迎えるのではないかと、ふと不安が頭をよぎる。


「何をやっているんだろうな、俺は」


上着も脱がずに、そのままベッドに倒れこむ。

安らぎを得られる気がしたが、視線の先には埃だらけの部屋と、ずっと洗濯していないシーツが広がっている。

部屋も、片付けてくれる者がいないせいで、散らかり放題だった。

せめてなにか美味いものでも食べて元気を出したかったが、サイドテーブルには一昨日買った、固くなったパンしか置かれていなかった。

その横には、何日も放置されたままの、兄貴からの手紙が置かれていた。


「きっと、ハリソンのことだよな・・・」


最後にハリソンに会ったのは、王都を発つ日のことだった。

もう、顔もおぼろげだ。

思い出そうとしても、記憶の端にぼんやりと浮かぶだけで、はっきりとは見えない。


重い身体を起こし、手紙に手を伸ばす。

腹が痛み、手紙を手に取ると、再び横になった。


(・・・なんて書いてあるんだ?)

どうやらハリソンが特待生として選ばれ、学院に入学することになったようだ。

入学式に会いに来ないかとの誘いだった。


(・・・・・・・・・行かねぇよ)

最初のうちは、義姉が書かせたのか、何度かハリソンから手紙が届いた。

しかし、生活に追われ、子どもに何を書けばいいのかも思い浮かばなかった。

ハリソンの毎日に特別な関心があるわけでもなく、結局、俺から手紙を送ることは一度もなかった。


今では、新年の挨拶とともに、養育費のお礼の手紙が儀礼的に届く程度だ。


(・・・ハリソンに会いに行くのにも、金がかかるしな)

深い深いため息をつく。

ルナとダリアを見ながら、笑い合ったあの時が、俺の人生の絶頂期だったに違いない。


あれから俺の人生は、坂を転がり落ちるように転落していく一方だ。

何かをする気力も湧かず、ぼんやりと天井を見つめる。


(もし、アンナと結婚していたらどうなっていただろう・・・)

サウスビー家は今や事業に成功し、繁栄している。

もしあのままアンナと結婚していたら、きっと左うちわの暮らしを送っていただろう。


それに、ルナとは違って、アンナはいつも俺のことを気遣ってくれた。

今更ながら、アンナの優しさが胸に沁みる。

俺が当然のように受け取ってきたものは、決して当然ではなかったのだ。


もし婚約を破棄していなければ、アンナと子どもたちが笑顔で迎えてくれる、温かい家庭を築けたかもしれない。

少なくとも、こんなにも惨めな生活を送らずに済んだはずだ。

どうして俺は、親父の忠告を聞かずに、ルナを選んでしまったんだろう。


寝返りを打とうとしたとき、また腹に痛みが走ったことに気づいた。


(・・・・・・もしかしたら、悪い病気にかかっているかもしれない)

騎士団にいた頃は、毎年健康診断を受け、何かあれば無料で医師に診てもらえた。

でも、騎士団を解雇された今、病院に行くだけでも金がかかる。

仕事を休めば、その分給料も減ってしまう。


(別に、今すぐ死んでも構わないしな・・・)

この世に、もう未練はないように思えた。

楽しみもなければ、果たすべきこともない。

この孤独な暮らしから抜け出せるのなら、たとえそれがどんな形でも、構わないような気がした。


(・・・・・・・・・・・・ハリソンだ!)

俺には、ハリソンがいた。

息子なら、たとえ今は離れていても、俺を必要としてくれているのではないだろうか。


仕事も家庭も、何一つうまくいかなかった。

それでも、唯一ハリソンだけには養育費を払い続けた。

強制的に徴収されたからできたことかもしれない。

それでも、払ったという事実には変わりないだろう。


ハリソンだって、俺に会いたいはずだ。

なんといっても、俺はハリソンの血を分けた実の父親なのだから。


よろよろとベッドから起き上がり、もう一度、震える手で兄貴の手紙を読み返した。

特待生というからには、やはり優秀なのだろう。


しかも、新入生代表挨拶に選ばれたと書いてあった。

親父は、手のひらを返すように「ホランド家の血筋だ」と自慢しているに違いない。


(見てみたい・・・!)

成長したハリソンは、どんな立派な青年になっているのだろうか。


俺に似ているかもしれない。

涙を浮かべて、俺に縋りついてくるかもしれない。

そう思うだけで、胸が期待でいっぱいになった。


(・・・・・・返事を早く書かないと!)

痛む腹を必死に押さえ、震える手で返事を書き上げた。

心臓の鼓動が、耳にまで響くようだった。



お読みいただき、ありがとうございました。

ブクマや評価、誤字の指摘をしていただき、ありがとうございました。


作中の、養育費を給与から強制的に徴収する制度は、2026年1月現在の日本には存在しません。

物語上の演出としてご理解ください。

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