【第6話:文化の壁を溶かす、よね婆のぬくもり】
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よね婆の熱心な指導により、日本の文化を少しずつ学び始めるお咲ちゃん。
箸の使い方や着付けを教わる中、部屋の温度が急上昇するような色っぽいハプニングも!?
波の音が、床板の隙間を抜けて低く響いている。
外房の夜は深く、そしてうら寂しい。
しかし、太助と次郎のあばら家の床下――あの狭くて暗い『芋つぼ』の中だけは、ここ数日、不思議なほど穏やかで優しい時間が流れていた。
ちろちろと揺れる小さな行燈の灯りの下、二つの影が並んでいる。
「いいかい、お咲ちゃん。日本の箸ってのはね、こうやって持つんだよ。上の棒を動かして、下の棒はどっしり支えるんだ。ほら、やってごらん」
「……ハシ? こう……かしら? 理屈としては、挟むための支点が必要なのね」
耳の遠いよね婆は、お咲の真っ白で柔らかな手を優しく包み込み、二本の竹箸を指の間に滑り込ませた。
お咲は美しい眉を少しひそめ、青い瞳を凝らして箸の先を見つめる。彼女の頭脳は極めて明晰だった。
よね婆の細かな指の動きをじっくりと観察し、それがどのような理合いで物を挟むのかをたちまち得心していく。
「おや、まあ! もう掴めたのかい! 本当に賢い娘御だねぇ」
「できたわ、おばあちゃん! 『おいしい』の『さかな』、これで掴めるわね!」
お咲は、床に転がっていた小さな木切れを器用に箸で持ち上げ、鈴を転がすような声で笑った。
その様子を、居間の床板の僅かな隙間から必死になって覗き見ている男が二人。太助と次郎だ。
「おい次郎、押すなよ! 見えねえだろ!」
「兄ちゃんの頭がデカいんだよ! ……っていうか、お咲ネエちゃん、箸の持ち方まで絵になるな。なんであんなに指先まで綺麗なんだ?」
「静かにしろ、よね婆さんに聞こえたら……って、あの婆さんは耳が遠いから大丈夫か」
床上の兄弟がそんなバカなやり取りを繰り広げているとも知らず、床下の二人の逢瀬は、より生活に根ざした事柄へと移っていく。
「さてさて、お次はこれだ。お咲ちゃん、ちょっとお立ち。着物がすっかり緩んで、胸元が大変なことになっておるよ」
「え? ああ、キモノ……。これ、すぐに前が開いてしまうのよね。私の体には、少し布が足りないのかしら」
お咲が困ったように息を漏らしながら、芋つぼの中でゆっくりと立ち上がった。
よね婆はお咲の着物の着付け直しを買って出た。
ヨーロッパ仕込みの、出るところが出たお咲の豊かなプロポーションに対して、平坦な肉付きを前提とした日本の古い着物は、どうしても胸元がはだけやすかったのだ。
「おやおや、こりゃあ目のやり場に困るねぇ。村の男たちが見たら、みんな海に飛び込んで頭を冷やさなきゃならんよ」
「ふふ、おばあちゃん、大袈裟ね。でも、この帯という紐は、締めると息が苦しくて……」
よね婆が古びた帯を一度解き、お咲の細い腰回りに回していく。
お咲は慣れない着付けの窮屈さに、その肉感的な身体を僅かに、艶っぽくよじらせた。
「んっ……ふぅ……っ」
お咲の唇から、熱を帯びた、絹のように滑らかな吐息が漏れる。
その瞬間、床板の隙間から目を血走らせて覗き込んでいた太助と次郎の喉が、ゴクリと同時に鳴った。
兄弟の座る居間の空気が、一瞬にして熱を帯びたかのような錯覚。
「おい、次郎……今の、聞いたか……」
「兄ちゃん、俺、なんだか鼻の奥が熱い。磔獄門の恐怖より、いまの吐息の方が胸に悪いよ……」
「バカ、声を出すな! ……クソ、行燈の光に濡れたあの首筋、眩しすぎるだろ」
お咲の白く肉感的な首筋からは、芋つぼの熱気のせいで一筋の汗が流れていた。
それが行燈の淡い光に濡れ、真珠のような輝きを放っている。
うら寂しい外房の漁村の、汚い床下であるはずなのに、そこには息をのむほど官能的で、神秘的な空気が漂っていた。
「はい、これでよし。苦しくはないかい?」
「ええ……ありがとう、おばあちゃん。すこし、しゃきっとしたわ」
よね婆はお咲の帯をきゅっと結び直すと、そのはだけかけた胸元を優しく整えた。
そして、お咲のどこか緊張の抜けない身体を、包み込むようにしてその細い背中をポンポンと手で叩いたのだ。
「大丈夫だよ、お咲ちゃん。何も怖いことはないからね。ワシがちゃーんと, お前さんを見ていてあげるからね」
「おばあちゃん……?」
背中に触れた、よね婆の手の温もり。シワだらけで、温かくて、何の曇りもない無償のぬくもり。
その瞬間、お咲の青い瞳が、大きく揺れた。
彼女の脳裏に、かつて故郷のヨーロッパで味わった、冷酷な記憶が蘇る。
優れた薬学の知識を持つがゆえに、周囲の人間から「魔女」だと罵られ、怯えられ、冷たい目で見捨てられた日々。
教会の冷酷な審問官。
自分を拒絶し、暗い追放船へと無理やり乗せた故郷の権力者たち。
あの世界には、自分の知識を理屈で評価してくれる者はいても、自らの存在を丸ごと受け入れ、温かく抱きしめてくれる者など、ただの一人もいなかった。
(ああ……どうしてかしら。このおばあちゃんの手、とても温かい……)
よね婆には、お咲が異国人であるという偏見も、言葉が通じないという壁も、これっぽっちも関係なかった。
ただ目の前にいる、愛らしくて一生懸命な一人の少女として、お咲のすべてを受け入れてくれている。
その圧倒的な無償の愛が、お咲の凍りついていた心の芯を、音を立てて優しく溶かしていった。
「う……あ、うう……」
お咲の長い睫毛から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ちた。
彼女はたまらなくなって、よね婆の小さくて丸い胸の中に、黄金の髪を振り乱しながら顔を埋めた。
「おや、おや。泣くんじゃないよ、可哀想に。寂しかったんだねぇ。遠いところから、よく頑張って生きて流れてきてくれたねぇ」
よね婆は驚くこともなく、お咲の豊かな背中を、まるで本当の母親のように何度も、何度も優しく撫で続けた。耳の遠いよね婆の口から漏れる、子守唄のような優しい掠れ声が、床下の暗闇を満たしていく。
「おばあちゃん……おばあちゃん……っ!」
お咲はよね婆の衣服をぎゅっと掴み、拙い日本の言葉で、何度も、何度もその名を呼んだ。
言葉は、まだ完璧には通じない。
理屈だけでは説明のつかない、人間の情愛という名のぬくもり。
しかしお咲は、このよね婆という存在を通じて、自分を匿ってくれている太助や次郎、そしてこの外房の村の人々に対する根深い警戒心を、少しずつ、しかし確実に解いていくのだった。
床板の隙間からそれを見つめていた太助と次郎は、いつしか鼻血の心配など忘れ、どこか目頭を熱くしながら、そっと床板の畳を元に戻した。
「……ネエちゃん、泣いてたな」
「ああ。俺たち、絶対にネエちゃんを守ってやんなきゃな、兄ちゃん」
薄暗い芋つぼの中で、文化と肌の色、それから言葉の壁が、確かな愛のぬくもりによって完全に溶かされた。
お咲にとってこの床下は、ただの隠れ家ではなく、世界で一番温かい安住の拠り所へと、静かに変わり始めていたのだった。
よね婆の優しさにお咲ちゃんが涙するシーン、胸が熱くなりますね。
色っぽいハプニングに悶絶する兄弟も微笑ましいです。
次回、そんな平和な村に、裏山の頑固な農村から突然のSOSが飛び込んできます!




