【第3話:おすそ分けの『フェボアテン!』、そして最初の治療】
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なんとか庄屋さまを煙に巻いた兄弟。
緊張の糸が切れた次郎が、お咲ちゃんを元気づけようと「あるおもてなし」をしますが、それが火に油を注ぐ結果に……!?
「……行ったか? 本当に庄屋の奴、行ったか?」
「ああ、角を曲がった。おい、早く畳を上げるぞ、次郎!」
木戸が閉まる音が響いてから数秒、張り詰めていた緊張の糸が一気に切れ、太助と次郎は床に這いつくばった。
兄弟は座布団を放り投げ、狂ったように畳をひっぺがす。
暗い穴の底から、泥まみれになった黄金の髪がせり上がってきた。
「む、むぐぐ……っ! アンハイジニック(不衛生)にもほどがあるわ!」
「ごめんネエちゃん! 悪気はなかったんだ、本当に!」
「ほら、手ぬぐいだ! 泥を拭いてくれ!」
太助と次郎が二人がかりで、お咲の柔らかい身体を芋つぼから引っ張り上げる。床の上に膝をついたお咲は、衣服に着いた泥やイモの皮をパッパと払いながら、怒り混じりの鋭い視線を兄弟へと投げかけた。
青い瞳が、不満げに吊り上がっている。そのはだけた胸元が怒りで激しく上下する様は、恐ろしくも息をのむほどに艶やかだった。
「ひぃ、怒ってる、完全に怒ってるぞ兄ちゃん……」
「当たり前だろ、女の子を芋つぼに叩き込んだんだぞ。おい次郎、何かネエちゃんが喜びそうなものを持ってこい。機嫌を直してもらわねえと、また夜に暴れ出すぞ!」
「あ、そうか! 待ってろ、極上のやつがあるんだ!」
次郎はポンと手を叩くと、裸足のまま台所へと一目散に駆けていった。
お咲はツンとそっぽを向き、濡れた手ぬぐいで自分の白い首筋を拭っている。
異国の甘い香りが、泥の臭いをかき消すように居間に広がっていく。
「ほら! ネエちゃん、これ食いなよ! 最高の御馳走だぞ!」
戻ってきた次郎は、満面の笑みを浮かべていた。
その両手には、四角い木箱が握られている。
そこに乗せられていたのは、今朝がた外房の荒波から獲れたばかりの、銀色にギラギラと輝く生のイワシだった。
エラからはまだ新鮮な血が滴り、生臭い潮の匂いが狭い部屋に充満する。
「さあさあ、お近づきの印だ、遠慮しないでさ!」
「……っ!?」
それを見た瞬間、お咲の青い瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
お咲の身体が、恐怖と嫌悪感で目に見えて硬直していく。
ヨーロッパの厳格な薬学の徒として、環境の管理の中で育ってきた彼女にとって、泥だらけの部屋の畳の上で、捌いてもいない生の魚をそのまま素手で差し出されるなど、狂気の沙汰でしかなかった。
「ノー! ウンメーリヒ(あり得ない)! そんなの、絶対にダメ!」
「え? なんでだよネエちゃん、美味いんだぞ?」
「……『フェボアテン(禁止)』よ!!」
お咲は次郎の前にすっくと立ち塞がると、ドスの効いた、しかし鈴を転がすように美しい声で絶叫した。
彼女は両手を胸の前で大きく交差し、力強いバツ印を作って次郎の鼻先へ突きつける。
「アンハイジニック! 完全に『フェボアテン』! 火を通しなさい、火を!」
「ひゃあ! なんか怒鳴られた! バツってことは、駄目ってことか!?」
「次郎、お前がバカだからだろ! 異国のネエちゃんが生の魚をそのまま食うわけねえだろ!」
お咲の激しい拒絶の身振りと、見たこともない構えの美しさに、次郎はすっかり呆気に取られて案山子のように固まってしまった。太助が慌てて割って入ろうとした、まさにその時だった。
――ドサリ。
背後で、嫌に重い肉体の崩れる音が響いた。
「へ……? じ、爺さま!?」
次郎が振り返り、悲鳴を上げる。
居間の隅で、隠居爺さまが白髪を畳に擦りつけるようにして倒れ込んでいた。
その顔は土気色を通り越し、不気味な紫色に変色している。
庄屋の突撃、そして「村ごと磔獄門」という極限のストレスが、老いた心臓の持病を限界まで痛めつけてしまったのだ。
「う、うぐ、あ……む、胸が……っ!」
「大変だ! 爺さまが死んじまう! 心臓の病が出たんだ!」
「どうすりゃいいんだよ兄ちゃん! 医者なんて隣の村まで行かねえといねえぞ!」
「あわ、あわわ、誰か、誰か六神丸を持ってねえか!?」
兄弟は完全にパニックに陥り、爺さまの身体を揺さぶるばかりで何もできない。
しかし。
「――どきなさい! 男たちのくせに狼狽えるんじゃないわよ!」
お咲の目の色が一瞬で変わった。
さっきまでの怒り顔は消え去り、そこにあるのは冷徹なまでの薬師の瞳だった。
彼女は優れた薬学のロジックを持つ、本物の薬師なのだ。
お咲は泥を弾くような素早い動きで爺さまの元へ駆け寄ると、着物の袖を豪快に引きちぎるようにしてまくり上げた。
「ネ、ネエちゃん!? 何するんだよ!」
「静かにして!」
お咲は太助の手を払いのけ、爺さまの胸元に耳を当てた。細い指先が、爺さまの首筋の脈を正確に捉える。
(脈の乱れ……心臓の衰弱ね。猶予はないわ)
お咲は自身の濡れた衣服の懐から、大切に保管されていた小さな革の袋を取り出した。
中から現れたのは、乾燥させた奇妙な形の葉――彼女が本国から命懸けで持ち出した、強心作用を持つ西洋の薬草だった。
「太助! すり鉢! 湯を持ってきて! 急ぎなさい!」
「す、すり鉢!? ああ、これか!」
「次郎、爺さまの頭を少し高くして! 喉を詰まらせたら『フェボアテン』よ!」
言葉は通じなくとも、お咲の放つ圧倒的な威厳と的確な指示に、兄弟は操られるように動いた。
太助が台所からすり鉢をひったくって戻ると、お咲は手際よく薬草の葉を投げ入れ、もの凄い速さで叩き潰し始めた。
コンコンコン、と小気味よい音が響く。お咲の額から一筋の汗が流れ、その汗ばんだ首筋が篝火に妖しく光る。
彼女は挽き潰した粉末を、次郎が差し出した白湯の器へと入れ、指で素早くかき混ぜた。
「爺さま、お薬よ。苦いけれど、飲みなさい」
お咲は爺さまの頭を自身の豊かな太ももの上に乗せ、口元を優しく開いた。そして、濁った緑色の湯を、ゆっくりと、しかし確実に爺さまの喉へと流し込んでいく。
「ごふっ……う、く……」
「大丈夫、ゆっくり息をして。ロジックの通りに効くわ。大丈夫よ……」
お咲は爺さまの胸を、円を描くように優しく、しかし力強く擦り続けた。
一分、二分。張り詰めた静寂が部屋を支配する。太助と次郎は息をすることすら忘れ、その光景を見つめていた。
「……はぁ、……あ、う……」
やがて、爺さまの喉から、深く大きな息が漏れた。
紫色のようだった顔色に、みるみるうちに赤みが差し、荒かった呼吸が劇的に静まっていく。
爺さまの目が、ゆっくりと開かれた。
「……ワシは、生きておるのか……?」
「爺さま!!」
「よかった……! 本当によかったぁ!」
兄弟が爺さまにしがみついて号泣する。
お咲はふぅ、と豊かな胸をなでおろし、額の汗を手の甲で拭った。
そして、涙を流す兄弟に向けて、少しだけ誇らしげに、小悪魔的なウィンクをしてみせた。
「言ったでしょう? 医療はロジックよ。はい、これにて最初の治療は完了ね」
うら寂しい漁村の床下の上で、異国の少女の知識が、確かに一つの命を繋ぎ止めた。
お咲の的確な救命処置が、村の最高長老の命を救った、歴史的な瞬間であった。
お咲ちゃんの激しい『フェボアテン!』からの、見事なプロの医術のギャップ、最高に格好良かったですね。
爺さまの命を救ったお咲ちゃん。
次回、命を救われた爺さまがまたもや手のひらを返します!




