【第15話:喘息の老人と、消えた金粉】
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深夜、呼吸困難で苦しむ一人暮らしの老漁師の家に忍び込むお咲ちゃん。的確な薬草調合で命を救いますが、去り際に見せるお咲ちゃんの小悪魔的なしぐさに注目です!
「ヒュー……ッ、ケホッ、ゴホッ! う、うう……だ、誰か……」
深夜、引き潮の不気味な香りが重く立ち込める外房の漁村の片隅。
容赦ない海の強風に晒されて今にも崩れそうな、小さな板壁のあばら小屋から、胸を掻きむしるような、激しく苦しげな咳き込みが絶え間なく漏れ聞こえていた。
「ハァ、ハァ……息が、できねえ……喉が、潰れる……おっ死んじまう、誰か助けてけろ……」
一人暮らしの老漁師、茂作は、湿気た暗い襤褸布団の上で、声をあげることもできずに激しく身悶えしていた。
長年患ってきた喘息の凄まじい発作が、この冷え込む夜に突如として彼を襲ったのだ。
まるで喉の奥を太い縄でギチギチに完全に塞がれたかのように、吸う息も吐く息も通らない。
どす黒く顔を強張らせ、ただ生命の灯火が消えかける圧倒的な恐怖に、老人は涙と鼻水にまみれて虚空を必死に掻いていた。
一人の寂しい夜の闇の中、このまま誰にも気づかれずに惨めに死んでいくのだと、底知れない絶望が胸を支配していた。
その時だった。ガタ、と格子の古い引き窓が微かに揺れた。
冷たい月光を遮るようにして、細くしなやかな影が、音もなく室内の暗がりへと滑り込んでくる。
「ハァ、ハァ……だ、誰だ……お、お迎え、か……それとも、お化け、か……」
「お化けじゃないわ。ずいぶんと苦しそうね、じいさん。暴れると余計に喉が締まるから、大人しくして、動いちゃダメよ」
お咲は老人のただならぬ様子を青い瞳に映すと、すぐさま布団の傍らにしなやかに腰を落とした。
昼間の不格好な手ぬぐいのほっかむりを外すと、肩から背中にかけて溢れ出た見事な黄金の髪が、灯火ひとつない暗がりの部屋で、満月の光を浴びて淡く、美しく、神秘的に輝いた。
彼女は着物の懐から、太助たちの家の裏手にある秘密の薬草仕込み園から、夕べのうちに摘んできたばかりの薬草を取り出した。
気の上逆を鎮め、縮んだ喉を広げて痰を引かせる効能を持つ、厳選された和漢の特製調合だ。
「少し、いえ、とびきり苦いけれど、我慢しなさい。今、喉を広げてあげるわよ」
お咲は手際よく薬草を白く細い手のひらで揉み潰し、青汁のような濃密な成分を凝縮させると、苦しむ老人の顎を優しく上に向かせた。
精度高く調合されたその汁を、今にも引き裂かれそうな唇から喉の奥へと、一滴一滴、滑り込ませるようにして手際よく注ぎ込んでいく。
「う、うぐ……ゲホッ……! に、にげぇ……っ! 喉が焼けるべ!」
「焦らないで。ゆっくり、私の手の温もりを感じて、落ち着いて息を吐き出しなさい」
お咲はさらに、子供の衣服をはだけさせるようにして老人の汚れた胸元を優しく押し広げると、自らの真っ白で温かい手のひらを、茂作の頑健な胸板へとそっと当てた。
彼女の繊細な指先が、呼吸を助ける胸の経穴を的確に捉え、円を描くように優しく、けれど芯のある力強さで丁寧なマッサージを施していく。
「あ、あぁ……っ、なんだか、胸が温かくなっていくべ……」
お咲の着物が擦れるたび、はだけかけた襟元から豊かな胸の谷間が無防備に覗き、そこから潮の香りを一瞬でかき消すような、薫り高い芳草の香りがふわりと狭い部屋に漂った。
老人はその心地よい手の温もりと、甘く清涼な香りに包まれ、まるで生きながらにして極楽浄土へ導かれるような強烈な錯覚に陥る。
不思議なことに、喉の奥を支配していたあの猛烈な痛みがすうっと引き、縮み上がっていた気道が劇的に広がっていくのを、肌で実感していた。
「ヒュー……あ、あ、吸える……息が、吸えるべ……! お天道様の空気が胸に入ってくる!」
「そう、上手よ。その調子でゆっくりと、深く空気を出し入れしなさい。もう大丈夫だから、安心していいわ」
お咲は老人の呼吸が穏やかになり、強張っていた顔色に赤みが戻っていくのを見届け、ふっと安堵の優しい笑みを漏らした。
老人は夢うつつの中で、自らの命を窮地から救ってくれた奇跡の存在を凝視した。
月光を背に受け、まばゆい黄金の髪を夜風になびかせるその姿は、あまりにも神聖で、人間のものとは思えなかった。
「おぉ……黄金の……菩薩様じゃ……。長屋の若え衆が言っていた噂は、本物だっただ。信心の薄いこの俺を、わざわざお救いくださった……」
老人は溢れ出る感謝の涙もそのままに、震える両手を合わせて地面に何度も拝み始めた。
ありがたすぎる、そしてあまりにも滑稽な民の勘違いに、お咲は思わずクスッと小さく笑ってしまった。
彼女は首を少し傾げると、白く細い指を自らの美しい唇へと当ててみせた。
「私は魔女でも神様でもないわよ。ボサツなんて、本当に『ウンメーリヒ(あり得ない)』」
鈴を転がすような優しい声でゲルマンの言葉を囁くと、お咲は床に置いてあった愛用のすり鉢を大切そうに抱え直した。
そして、老人の強張った額に「お大事にね」と優しい吐息を吹きかける。
「ひっ……!? ありがたや……!」
お咲は驚く老人に茶目っ気たっぷりに片目をきゅっと瞑ってみせると、東の空が僅かに白み始める前に、開いた引き窓から外の暗がりへと、風のように鮮やかに駆け去っていった。
翌朝、外房の漁村は昨日以上の大騒動に包まれていた。
「おい! 茂作の爺さんのあのひどい喘息が、一晩で綺麗さっぱり治っちまったんだってよ!」
「やっぱり菩薩様だ! 今度は茂作の薄汚い小屋に、御姿を現してくださったんだべ! お供え物をもっと持ってこねえと罰が当たるぞ!」
太助と次郎の兄弟が、顔を引きつらせながら慌てて茂作の小屋へと駆けつけると、老人はまだ筵の上にひざまずき、お咲が去っていった窓に向かって一心不乱に手を合わせ続けていた。
「本当んだ、太助、次郎! 菩薩様は確かにここにいらした! ほれ、これを見てくだせえ! 御後光の証拠だべ!」
老人が涙ながらに震える指で指差した、古い床板の上を見つめ、兄弟は思わず息をのんだ。
そこには、月光の悪戯か、あるいは夜の奇跡の名残か、まるでお咲の黄金の髪が薄暗い板壁に激しく擦れてハラハラと落ちたかのような、美しい「金粉」がキラキラと朝日に反射して眩しく輝いていたのだ。
「……おい兄ちゃん、これって……どう見ても……」
「ああ、間違いない。ネエちゃんの髪の毛が、夜の作業中か何かに壁に擦れて千切れて落ちたのを、この爺さんが本物の金粉だと思い込んで拝んでやがんだ……。とんでもねえ勘違いだべ」
次郎が顔をひきつらせてボソッと呟く。
村の男たちの「黄金の菩薩伝説」は、お咲のあずかり知らぬところで、もはや誰にも否定できない確固たる神話へと、さらにエスカレートしながら進化を遂げようとしていた。
兄弟の冷や汗は止まらなかった。
老漁師を救い、ウィンクして去っていくお咲ちゃん、格好良くて最高にチャーミングですね!
金粉の演出も憎いです。
次回、この噂が隣の村や宿場町にまで拡大し、庄屋さままでがお祈りを始めてしまいます!




