【第11話:夜の脱走、お咲の徘徊スローライフ】
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第2章スタート。
昼間ずっと床下に隠れていることに退屈したお咲ちゃんが、兄弟の目を盗んで深夜の「夜間徘徊」をスタート。
妖しくも美しい外房の夜が幕を開けます。
「かぁーっ……ぷすー……」
「んにゃ……大根……イワシの、煮付け……美味い、なぁ……」
薄暗いあばら家の居間に、地響きのような鼾が重なり合っていた。
強欲な悪徳魚問屋・金兵衛を破天荒な団結で芋つぼへ叩き落とし、村から永久追放することに成功した前夜。
太助と次郎の悪童兄弟は、大漁の疲れと火事場の馬鹿力のせいで完全に爆睡していた。
そのふたつの寝床から少し離れた暗がりの布団の中で、すっと、青い瞳が開かれた。
(……やっと寝たわね、このお馬鹿兄弟)
お咲はそっと上体を起こした。
村に平穏が戻ったものの、彼女の胸の内には煮えくり羽るような不満が溜まっていたのだ。
「――退屈。退屈で死んじまいそうだわ!」
声を押し殺してゲルマンの言葉で毒づく。お上の目を盗むためとはいえ、昼間はずっと暗くて狭い芋つぼに隠され、外に出る時は不格好な藍染めの手ぬぐいを頭に巻かなければならない。
優れた知性を持つ彼女にとって、それは籠の鳥そのものだった。
「タスケもジローも、私の気持ちなんてちっとも分かってないんだから。少しは外の空気を吸わないと頭がおかしくなっちゃうわ」
お咲は静かに布団を抜け出した。
昼間のほっかむりを脱ぎ捨てると、黄金の髪が滝のように背中に溢れ出す。
「んん――っ……!」
両腕を天に突き上げ、豊かな胸元を反らせて背中を大きく伸ばした。
はだけかけた着物の隙間から、月光を浴びて吸い付くような白肌が妖しく浮かび上がる。
その無防備なしぐさは、夜の静寂の中で息をのむほど官能的だった。お咲は寝ている兄弟の顔を覗き込んだ。
「タスケ? ジロー? ……ふふ、本当に起きないわね。よし、決めたわ」
不敵に微笑むと、猫のような足取りで窓の障子を引いた。
隙間からひんやりとした夜風が流れ込んでくる。
お咲はその細い身体をしならせ、窓から外の冷たい踏み石へと静かに這い出した。
一歩、冷たい土を踏みしめる。満月の柔らかな光が漁村を照らしていた。
「自由よ……! なんて素晴らしいのかしら」
黄金の髪を夜風となびかせ、お咲は夜のそぞろ歩きへと踏み出した。
夜の漁村は、昼間の喧騒とは打って変わり、どこか濃密な空気が漂っている。
引き潮の香りと太陽に温められた砂の熱が混ざり合い、どこか妖しく、熱を帯びた匂いが鼻腔をくすぐる。
「これが、日本の夜の姿なのね……」
青い瞳が爛々と輝いた。
板壁の家屋、月光を浴びて不気味に垂れ下がる大きな漁網や漁具、ひっそりと静まり返る木製の井戸。
見るものすべてが目新しい異国の風情を、彼女は全身で楽しみながら歩いていく。
(故郷である遥か西の紅毛の国々では、厳しい戒律のもとで、夜に出歩くことすら罪とされていたのに……)
暗い追放船に乗せられる前の監視の日々に比べれば、床下に隠されるこの夜の静けさは最高の贅沢だった。
「喜び。誰も私を縛らない。夜の空気って、こんなに優しかったのね」
無邪気な少女のように笑みを浮かべながら村の奥へと進む。
しかし、気ままな夜歩きもただの散歩では終わらなかった。
「……うう、嫌だよぉ……神様、仏様、どうか、どうか……」
「……え?」
暗闇の向こうから切羽詰まった女の泣き声が届いた。
数軒先にある古びた長屋の戸の向こうからだ。
「ううっ、この子の身体が火のように熱い……! 誰か、助けてくだせえ……!」
狂おしいほどの母親の悲鳴。言葉の意味は分からずとも、お咲の肉体は瞬時に異変を察知した。
(病人の声ね。子供の泣き声が聞こえない……意識を失いかけているの?)
無邪気な笑顔が一瞬で消え去る。
瞳に宿ったのは、確かな条理を持つ本物の薬師としての冷徹で熱い本能だった。
「待っていなさい。今、行くわ」
お咲は着物の裾を掴んで翻すと、黄金の髪を夜の闇にきらめかせながら長屋へと走り出した。
「おい、そこな娘! こんな夜更けに何をしておる!」
闇の向こうから鋭い声が響いた。夜回りの拍子木を手にした若い漁師、作蔵だった。
彼は月光に浮かび上がる黄金の髪と白肌を目撃し、完全に硬直した。
「あ、あわ……天女様か!? いや、異国の化け物――」
「邪魔よ、どきなさい!」
お咲はゲルマンの怒声で一蹴すると、驚く彼の肩を突き飛ばし、長屋の粗末な木戸へと体当たりするように飛び込んだ。
ガタァン! と音を立てて木戸が開く。
中は薄暗く湿った空間だった。襤褸布団の横で、若い母親が小さな子供を抱きしめて泣き崩れていた。
子供は五歳に満たない男児で、呼吸はひどく荒く、喉の奥から苦しげな喘鳴が漏れている。
「な、誰だいあんたは……! ひっ、お咲さんかい!?」
「お咲様、頼みます、この子を助けてくだせえ! 夕方から急に熱が上がって、今はもう呼びかけにも答えねえんだ!」
言葉は通じないが、お咲の薬師の本能は、子供の身体の異常を瞬時に見抜いていた。
泥だらけの床に膝をつくと、白い腕を伸ばして子供の額にそっと触れた。
(火傷のような熱さ。これは、ただの風邪じゃないわ)
子供の着物の襟元をはだけさせ、胸や腹の皮膚を月光の入る窓際へと向けた。
ランプの微かな光を頼りに白肌を凝視する。
青い瞳が鋭く細められた。
(これは……発疹? 皮膚の裏で何かが燻っている。まさか、お江戸で大流行しているというあの疫病――麻疹の初期症状なの!?)
お咲の背中に冷や汗が流れた。麻疹。ひとたび集落に忍び込めば、免疫を持たない子供たちを次々と死に至らしめる悪魔の感染症だ。
お江戸の過密な都市部から、この孤立した漁村へと不穏な影がすでに上陸していた。
「お、おい! 太助、次郎! 大変だ、お咲さんが大変なことになってるぞ!」
外から作蔵が、慌てて太助たちを連れてきた。土間に飛び込んできた太助と次郎は、手ぬぐいを外し、黄金の髪を振り乱して子供の看病をしているお咲の姿を見て目を剥いた。
「ネエちゃん!? 何やってんだよ、こんなところで!」
「だから夜に出歩くなって言っただろ! 作蔵に見られちまったじゃねえか!」
兄弟がパニックになりながら叫ぶ。
しかし、お咲は二人を射抜くような鋭い眼差しで睨みつけた。
その凛とした威圧感に、兄弟は思わず声を失う。
「静かにしなさい、タスケ、ジロー! 今すぐ、よね婆の家に行って私の薬袋を持ってきて!」
「え? く、薬袋?」
「急ぎなさい! この子の命がかかっているのよ。……それから、村のすべての子供を持つ親に伝えなさい。誰もこの長屋に近づけてはダメ。病が――伝染るわ!」
お咲は胸の前で力強いバツ印を作ってみせた。
お江戸から忍び寄る謎の疫病。その圧倒的な脅威を前にして、床下の女神は、自らの正体が暴かれるリスクなど微塵も気に留めず、深夜の長屋を戦場へと変えていく。
彼女の放つ気高き医療の光が、小さな漁村の運命を再び大きく揺らし始めていた。
黄金の髪をなびかせて夜の漁村を歩くお咲ちゃん、妖艶で美しすぎますね。
これぞ深夜の眼福スローライフ。
次回、徘徊中のお咲ちゃんが、ひどい夜泣きに苦しむ赤ん坊のいる長屋へ忍び込みます!




