初恋
「ごめんなさい、私は存じ上げない方に名を名乗ることは母から禁じられているのです……! ……うぅん、なんだか違うような……気弱な令嬢を演じるのって、難しいわね……」
放課後、誰もいない教室で一人残ってセリフの練習をしていると、突如ガラリと教室の扉が開いた。
私はてっきりシルヴァンかマリベルだと思って扉の方を見たけれど、そこにいたのはどちらでもない意外な人物だった。
「あれ、アイレスさん? 一人で教室にいるなんて珍しいね」
「……オルコットさんこそ、どうして教室に?」
「僕は、明日から始まる練習が不安だから、一人で練習しようかと……。寮だと他の生徒もいるし、恥ずかしくてさ」
「あら、じゃあ私と同じね」
私がそう答えると、オルコットさんは驚いたように目を見開いた。
「え、アイレスさんも?」
「……そんなに驚くことかしら? 私だって、ちゃんとこの劇を成功させたいと思っているのよ」
「い、いや、そうじゃなくて……アイレスさんはいつも冷静だし、頭もいいし、なによりあのレグナールさんの婚約者だし……。学園祭の劇くらいじゃ全然動じなさそうって言うか、余裕でこなしちゃうんだろうなって思っていたから……」
「……そんなことないわよ。私は、いつだって必死だもの……」
私は思わず苦笑しながらそう答える。
そう、いつだって必死なのだ。
私はずっと、シルヴァンに相応しい婚約者であるよう必死に勉強をして、シルヴァンに悪意を持った人間がいないかどうか目を光らせて……。
余裕なんて、本当はこれっぽっちもない。
シルヴァンを殺した憎い相手に舐められたくなくて、余裕があるように、見せているだけ……。
教室に重い沈黙が流れる。黙ってしまった私に気を遣ったのか、オルコットさんが明るい声で私に話しかけてきた。
「じゃ、じゃあさ! 僕と一緒に練習しない? ほら、主演同士一緒に練習した方が、掛け合いとかも自然になるかもだし!」
「それは……そうね。じゃあ、一緒に頑張りましょう、オルコットさん」
「エディでいいよ」
「じゃあ、エディで。私のことはベアトリーチェでいいわよ」
「……流石にそれはレグナールさんに申し訳ないから、ベアトリーチェさんで勘弁してほしいな」
エディはそう言って、にっこりと笑う。シルヴァンとは違う方向性ではあるけれど、彼もクラスの人気者だ。
圧倒的な美貌に成績、家柄を持ちつつ誰にでも優しいシルヴァン。
一方でエディは、しっかり者で真面目、でもどこか親しみやすくて爽やかな好青年だ。
マリベルがシルヴァンではなく彼を王子役に選んだ理由も、なんとなくわかる。
「じゃあ、靴屋の前で出会うシーンから練習しようか」
「えぇ」
私のセリフに合わせて、エディが演技をする。彼の王子役は中々様になっていて、私は少し感心してしまった。
……もし、私がシルヴァンと出会っていなかったら。こんな風に、平和で普通の恋をして、今も幸せになれていたのかしら。そんな風に、錯覚してしまうほどに。
そしてすっかりセリフも覚えた頃、エディが「そろそろ休憩しようか」と言って、机の上に座った。
「あら、案外お行儀が良くないのね」
「皆が僕を品行方正だと思いすぎなんだよ。そんなこと言ってるベアトリーチェさんも、結構普通の人なんだなぁって思ったな」
「最初から、私はどこにでもいる侯爵令嬢よ」
「いやいや、すごく大人っぽいって言うか、先輩みたいな雰囲気があって……高嶺の花だよ。レグナールさんがいなかったら、きっと周りの生徒達が放っておかなかっただろうね」
エディが悪戯っぽく笑う。私もそれにつられて、クスクスと小さな笑みをこぼした。
「ベアトリーチェさんは、レグナールさんのどんなところが好きなの?」
「……皆、そんなに私とシルヴァンのことが気になるの? 以前マリベルにも似たようなことを聞かれたわ。……でも、そうね、でも最初は……一目惚れだったかしら」
「へぇ、意外だなぁ。ベアトリーチェさんでも、一目惚れとかするんだ」
「エディといいマリベルといい、私のことをなんだと思っているのよ……」
「あはは、ごめんごめん。皆気になって仕方ないんだよ。実際、レグナールさんのような天才の婚約者って大変じゃないのかなって」
そう問うてきたエディは、少しだけ心配を孕んだ眼差しで私を見ていた。私は少しだけ目を伏せて、静かに問いかけに答える。
「彼は……シルヴァンは確かに、天才なのかもしれないわ。でも、それ以上に努力家なの。だから私も頑張って、彼の隣に並び立っても恥ずかしくない存在になりたいと自然に思えるし……彼を守れるくらいになりたいの」
「……好きなんだね、レグナールさんのこと」
「違うわ」
私が否定をすると、エディが目を丸くする。私は目を瞑って、一周目のシルヴァンを思い出す。あの飴玉みたいな優しい瞳を脳裏に浮かべながら、口を開く。
「……私は、シルヴァン・レグナールという存在を……愛しているの」
風に煽られて、カーテンがひらりと揺れる。同時に廊下からガタッと音がしたような気がしたけれど……私が音の方へ目を向けた時にはもう、誰の姿も見えなかった。
***
廊下を早足で歩きながら、シルヴァン・レグナールは悩んでいた。
またしても、聞いてはいけないことを聞いてしまった……気がする。
どうして俺は、いつもベアトリーチェが俺の話をしているところに遭遇してしまうんだ。
……いや、まぁ、教室に忘れ物を取りに行ったら……ベアトリーチェと委員長が二人で親密そうに話していたものだから、なんとなく入りづらくて隠れていた俺が悪いのだけれども。
「あ、愛している……かぁ」
口にするだけで、首から上の辺りがじわじわと熱くなっていくのを感じる。
ベアトリーチェが俺のことを、守りたいと思っていたのは以前も聞いたことがあった。だが、その理由がまさか、『愛している』からだなんて。
それに、一目惚れだなんて初めて聞いた。それにしては、初対面の時どうにも思いつめたような表情をしていた気がするけれど……。
俺の立場や見た目で寄ってくる人間は多い。そんな人々を薄ら苦手に思いながらも笑顔で接していたけれど、ベアトリーチェも俺の見た目に惹かれたのだろうか。
ズキ、と胸が痛む。なんとなく、ベアトリーチェは俺の内面をよく知っているような……話していると、なんだか見透かされるような気持ちになることがよくあった。
でも、例え入口が一目惚れだったとしても、今のベアトリーチェは、俺を『天才だから』と一言で片付けたりしない。
『努力家なの。だから私も頑張って、彼の隣に並び立っても恥ずかしくない存在になりたい』
……ベアトリーチェは、ちゃんと俺のことをみてくれている。
俺なんかよりもよっぽど努力家なベアトリーチェが、俺を評価してくれたことが、こんなにも嬉しいなんて。もう、心がぐちゃぐちゃだ。
それに……恥ずかしい話だけれど、嫉妬してしまった。
今までベアトリーチェのことを名前で呼ぶ男は俺だけで、ベアトリーチェが名前で呼ぶ男も俺だけだったのに。簡単に、委員長にその権利を明け渡してしまうなんて、と。
ここまで来たら、認めるしかない。
俺は、ベアトリーチェに惹かれている。大人びていて、どこか影があって、掴みどころがない……でも、俺を守りたいといってくれて、たまに優しい笑顔で笑いかけてくれるベアトリーチェのことに。
理想とは真逆のはずの女の子に、人生で初めて、恋をしてしまったのだ。




