第8話:王の宣戦布告、平穏の出口が塞がれる
朝、目を覚ました瞬間に感じたのは、肌を刺すような微かな鉄の匂いだった。
魔法の光が闇を払うことのないこの世界で、朝の訪れは常に物理的な現象としてやってくる。窓の外から聞こえてくるのは、小鳥のさえずりではなく、整然と並んだ軍靴が石畳を叩く、硬く重い音だった。
私は寝台の中で、深い溜息を吐いた。昨晩、あの若き王ヴィクトールが言い残した不穏な宣言が、現実となって屋敷を包囲していることを悟ったからだ。
「……お嬢様。どうか、どうか落ち着いてお聞きください」
部屋に飛び込んできた執事の顔は、幽霊でも見たかのように真っ白だった。彼の手は激しく震え、持ってきた銀の盆の上で、主への朝食となるはずだったパンとスープが悲鳴を上げている。
「いいわ、言わなくても分かっている。正門の前に、王室の儀仗兵が並んでいるのでしょう?」
「ご、ご存じでしたか! それだけではございません。近衛の隊長が、国王陛下の親書を携え、玄関広間で待機しております。近隣の貴族たちも、何事かと窓からこちらを覗いておりまして……ああ、アステール伯爵家の平穏が、今まさに潰えようとしております!」
執事の嘆きは、この二十年間、私が最も恐れていた事態そのものだった。
のらりくらりと、目立たず、風に吹かれる柳のように権力を受け流す。それが私の処世術だったはずだ。だが、今の状況は柳が根こそぎ引き抜かれ、王宮という名の巨大な温室へ植え替えられようとしているのに等しい。
私は四十歳の女として、最大限の「矜持」を身に纏うことにした。
選んだのは、父が大切にしていた公式行事用の、重厚な黒檀色のドレスだ。華やかさはないが、一族の歴史を背負っているという無言の威圧感がある。鏡の中に映る私は、冷徹な王に対峙するに相応しい、隙のない「女主人の顔」をしていた。
「……行きましょう。なにした私、なんて嘆いている時間はもう終わったわ」
自分自身に言い聞かせ、私は一歩一歩、重い足取りで広間へと向かった。
玄関広間には、抜身の剣のような鋭い空気を纏った近衛兵たちが立ち並んでいた。その中央に、一人の男が背を向けて立っている。
王室の正装に身を包んだヴィクトール。
彼が振り返った瞬間、広間の空気が一気に収縮した。昨日の、居間で感情を爆発させた「一人の青年」の姿はそこにはない。そこにいるのは、数多の政敵を処刑台へ送り込み、血の粛清を完遂した冷徹な支配者――レガリス王国の新王としての顔だった。
「……待たせたな。アステール」
彼の声は低く、そして逃げ場を許さないほどに響いた。
私は優雅に、だが決して服従ではない、対等な貴族としての礼を捧げた。
「陛下。朝の静寂を好む我が家へ、これほど壮麗な『目覚まし』をお連れになるとは。何か重大な国難でも発生いたしましたか?」
私の皮肉混じりの問いに、ヴィクトールの口角がわずかに上がった。それは恋心を抱く男の笑みではなく、獲物を追い詰めた狩人の、残酷なまでの満足感だった。
「国難、か。……ある意味ではその通りだ。私は、我が国が誇るべき最大の『資産』が、地方の屋敷で埋もれている現状を憂慮している」
彼は懐から、真紅の蝋で封印された一通の書状を取り出した。
「アステール伯爵令嬢メルセデス。これは王命である」
広間にいた使用人たちが一斉に跪く。私もまた、床に膝を突かざるを得なかった。
「貴殿を、王宮会計及び内政監査官・特別顧問に任命する。同時に、王室直属の助言者として、王宮内における居住と、あらゆる公文書への閲覧権限を付与する」
私は、伏せた視線の先で床の模様を見つめながら、絶望に近い感情を味わっていた。
王妃。あるいは愛妾。そんな世俗的な地位であれば、私は「四十歳の行き遅れが、王家の血を汚すわけには参りません」という、貴族社会の常識を盾に全力で辞退するつもりだった。
だが、彼が突きつけたのは、私の最も得意とし、かつ否定することのできない「実務」の役職だった。
「陛下。……恐れながら、申し上げます。一介の独身令嬢に、そのような重責は到底務まりませぬ。王宮には、研鑽を積んだ優秀な官僚たちが大勢おられるはず。わたくしのような、のらりくらりと過ごしてきた女など……」
「のらりくらり、だと?」
ヴィクトールが私に歩み寄り、その影が私を覆い尽くした。彼は私の顎をそっと指で掬い上げ、無理やり自分を見上げさせた。
「隣国の騎士団長をあしらい、大陸一の商会の支援を当然のように受け取り、二十年間一度の不正も、一度の綻びもなく領地を経営してきた女が、何を言う。君のその『のらりくらり』が、どれほど高度な均衡の上に成り立っているか、私が見抜けないとでも思ったか?」
王子の瞳は、燃えるような熱を帯びていた。それは嫉妬であり、執着であり、そして壊れ物を見つめるような慈しみだった。
「官僚たちの報告書など、君の語る一言の真実味にも及ばない。……私は君を、公に私の傍へ置くための正当な理由を手に入れた。これを拒めば、君の叔父はどう思うかな? 姪が王命に背き、罪人として地下牢へ送られるのを、隣国で黙って見ていてくれるだろうか?」
「……卑怯ですわ。陛下」
「王とは卑怯なものだ。君がそう教えてくれたのではないか。……甘い菓子一つで、王の心を繋ぎ止めることができると思った報いだと思え」
私は唇を噛み締めた。
魔法がないこの世界において、情報の独占と法による拘束は、最強の呪縛だ。
私がここで拒絶すれば、アステール家は王命違背の汚名を着せられ、叔父や実家を巻き込んだ国際紛争に発展しかねない。彼はそれを分かっていて、私の「責任感」と「平穏への執着」を逆に利用したのだ。
「……承知いたしました。王命、謹んでお受けいたします。……ただし、わたくしはただの事務官として、職務を全うするのみでございます。それ以上のことは、期待なさらないでくださいませ」
私の精一杯の抵抗に対し、ヴィクトールは今日初めて、年相応の、それでいて酷く独善的な笑みを浮かべた。
「構わない。職務に励む君を、一番近くで眺めるのは私だ。……まずは、王宮に君専用の執務室を用意させよう。寝室も、私の隣の区画だ」
「……陛下?」
「実務の話をしているのだ。緊急の報告が必要な場合もあるだろう?」
王宮の儀仗兵に守られ、あるいは連行されるようにして、私は馬車に乗り込んだ。
屋敷の門を出る際、近隣の貴族たちが呆然とこちらを見送っているのが見えた。
明日には、社交界中に噂が広まるだろう。「アステール家の行き遅れ令嬢が、新王をたぶらかして王宮を乗っ取ろうとしている」と。あるいは「冷徹な王が、ついに女を囲い込んだ」と。
馬車の揺れに身を任せながら、私は深く息を吐き出した。
四十歳の独身貴族。のらりくらりと生きてきた日々は、今、完全に終わりを告げた。
魔法のない異世界で、私はこれから、王の執着という名の巨大な渦の中で、書類の山と戦わなければならない。
「なにした私……なんて、もう言わないわよ」
私は窓の外に流れる自分の領地を眺め、静かに決意した。
「こうなったら、王宮の帳簿をすべてひっくり返して、陛下が私に構う暇もないほどに仕事を増やして差し上げるわ。……見てなさいよ、若造王子」
私の新しい戦場は、豪華絢爛な王宮の、埃っぽい執務机から始まる。
王子の満足げな横顔を横目に、私は四十歳の意地を見せてやるのだと、胸の内で密かに燃えていた。




