第9話:王宮の執務室、隣り合う吐息は仕事の邪魔
王宮という場所は、遠くから眺める分には豪華絢爛な権力の象徴だが、その内側に踏み込んでしまえば、埃の舞う公文書と数多の欲望が渦巻く巨大な事務処理機構に過ぎない。
私は今、その心臓部とも言える「王の執務室」の、すぐ隣の部屋にいた。
「……なにした私。いえ、本当になにしたのよ、私」
案内された自室で、私は思わず天を仰いだ。
「特別顧問」という物々しい官職を与えられ、連行されるようにして王宮へ移り住んだ初日。用意された私の執務室は、ヴィクトール陛下の部屋と内扉一枚で繋がっていた。緊急時の連絡を容易にするため、という名目らしいが、魔法のないこの世界において、これほど物理的な「逃げ場のなさ」を突きつけられるのは、四十歳の心臓には少々刺激が強すぎる。
だが、嘆いていても始まらない。私はのらりくらりと生きてきたが、一度「仕事」と決めたからには、その義務を完璧に果たさなければ気が済まない性分なのだ。
「陛下、失礼いたします。本日分の内政監査資料をまとめました。ご確認をお願いします」
私は内扉を叩き、返事を待たずにヴィクトールの執務室へと足を踏み入れた。
そこには、昨晩の不器用な宣言が嘘だったかのように、王冠を傍らに置いて書類と格闘するヴィクトールの姿があった。彼は私が入室した瞬間、表情を和らげようとしたが、私の手にある書類の山を見て、その顔を引きつらせた。
「……アステール、早いな。まだ朝の茶を飲み終えたばかりだ」
「陛下、新体制の基盤を固めるには、まず腐敗した旧王妃派の使途不明金をすべて洗う必要があります。こちらがその第一次報告書。そしてこちらが、今後の徴税計画の見直し案、それから――」
私は事務的に、かつ容赦なく、彼の机の上に次々と書類を積み上げていった。
私の作戦は単純だ。彼が私に余計な執着を見せる暇もないほど、圧倒的な「仕事」で彼を埋め尽くしてやるのだ。二十歳の若者が抱く恋心など、激務という荒波に揉まれれば、じきに磨り減って「同志としての信頼」へと昇華されるはず。それが、私の考える平和的解決策だった。
「……君は、私を殺す気か?」
ヴィクトールが、恨みがましい青い瞳で私を見上げてくる。
「滅相もございません。陛下がお望みになった『実務』に励んでいるだけにございます。さあ、こちらに目を通していただけなければ、午後の審議が進みませんわ」
私は微笑みを絶やさず、彼の隣に椅子を引き寄せた。
隣り合う距離。魔法のない世界では、お互いの体温が伝わるほど近い。彼がペンを動かすたびに、微かな衣擦れの音と、若々しい石鹸のような香りが鼻をくすぐる。
ヴィクトールは、最初は戸惑っていたようだが、やがて諦めたようにペンを走らせ始めた。私が指摘した数字の矛盾や、改善すべき行政の穴を、彼は驚くほどの速さで吸収し、的確な裁定を下していく。
二十三歳。新王。
確かに不器用で、恋愛に関しては目も当てられない惨状だが、統治者としての彼は、やはり紛れもなく「王」だった。
「……アステール。ここは、こうではないか?」
ヴィクトールが身を乗り出し、私の手元にある帳簿を指差した。
不意に、彼の肩が私の腕に触れた。
私はわずかに息を呑んだが、彼は気づいていないのか、それとも確信犯なのか、至近距離で書類を見つめ続けている。
「……はい、陛下のおっしゃる通りです。修正いたしますわ」
「……そうか。ならば、次は――」
仕事の話をしているはずなのに、なぜか空気の密度が濃くなっていく。
彼が吐き出す熱い吐息が、私のこめかみを掠める。私は四十歳の経験を総動員して、平常心を保とうと必死だった。
(落ち着きなさい、メルセデス。これはただの業務連絡よ。年下の部下……じゃなくて王様を指導しているだけなんだから)
昼食も共に摂り、午後もひたすら書類の山を崩し続ける。
日が傾き、執務室にオイルランプの明かりが灯る頃には、ヴィクトールの側近たちが、扉の隙間から戦々恐々とした様子でこちらを伺っていた。
「……おい、見たか? 陛下が、一度も怒鳴らずに十時間も机に向かっている」
「あのアステール顧問、陛下にどんな魔法を……いや、この国に魔法はないはずだが、あれはもはや別の力だ」
側近たちの囁きが聞こえてくる。彼らには、私たちが「熱烈な逢瀬」を楽しんでいるように見えているのか、それとも「過酷な拷問」が行われているように見えているのか。どちらにせよ、私の「魔女」としての評価は、また一つ上がってしまったらしい。
深夜。ようやく最後の一枚に王の印章が押された時、ヴィクトールは大きく背伸びをして、椅子の背もたれに深く沈み込んだ。
「……終わった。これほど働いたのは、人生で初めてかもしれん」
「お疲れ様でした、陛下。本日の分は、これで以上でございます」
私は立ち上がり、冷めきった茶器を片付けようとした。
だが、その手首を、ヴィクトールの熱い指先が捕らえた。
「……待て。どこへ行く」
「どこへと言われましても、隣の私の部屋へ。もう休養が必要ですわ」
「……まだ、終わっていない」
ヴィクトールは私の手を引いた。
私はよろめき、彼の椅子のすぐ傍まで引き寄せられた。見上げる新王の瞳には、昼間の理知的な光ではなく、抑えきれない情熱と、わずかな甘えが混じり合っていた。
「仕事は終わったが……私の『私的な時間』は、まだ一分も始まっていないぞ」
「陛下、わたくしはもう四十歳。夜更かしはお肌に――」
「知ったことか。君が仕事を理由に私を遠ざけるなら、私はいつまででも仕事に付き合おう。だが、終わった後は……こうして、私の傍にいさせる」
彼は私の手を握ったまま、自分の頬にその甲を寄せた。
二十歳の王子の、あまりにも不器用で、剥き出しの独占欲。
私は「なにした私……」と三度目の独白を飲み込み、力なく微笑むしかなかった。
仕事で返り討ちにするつもりが、逆に「夜の執務室での密会」という、社交界で最もスキャンダラスな状況を自ら作り出してしまったらしい。
「……陛下、明日の朝食も、早いですよ?」
「構わない。君が淹れた茶を飲めるなら、不眠など恐るるに足りん」
魔法のない異世界。
王子の執着という名の呪縛は、どうやら事務作業程度では、到底振り解けるものではないらしい。
私は繋がれた手の熱を感じながら、これから始まるであろう、さらに激動の王宮生活を予感して、密かに天を仰いだ。




