第10話:深夜の回廊、王の孤独と四十路の矜持
王宮の夜は、静寂よりもむしろ重苦しい沈黙に近い。
魔法の灯火が存在しないこの世界では、夜の闇は物理的な断絶を意味する。回廊に等間隔で置かれたオイルランプの微かな揺らめきだけが、辛うじて人の営みを証明していた。
「……ふぅ。ようやく、今日という戦いが終わったわ」
私は自室に戻るための内扉の前で、大きく伸びをした。
特別顧問という職に就いてからというもの、私の生活は「のらりくらり」とは程遠いものに変貌している。朝から晩まで数字と公文書の海に浸かり、不正の匂いがする帳簿を片っ端から突き止める。それは前世の事務職時代を彷彿とさせる激務だったが、今の私には二十年間の領地経営で培った、より強かな「現場の目」がある。
しかし、仕事以上に私を消耗させているのは、王宮内に蔓延する冷ややかな視線だった。
今朝も、財務局へ資料を取りに行った際、すれ違った若き令嬢たちから、聞こえるように溜息をつかれたばかりだ。
「あら、今日も陛下のお部屋にこもりきりですのね。四十を過ぎてなお、あのように若い王を独占なさるとは……よほどの『秘術』をご存知なのでしょう」
「秘術なんて、魔法のないこの国で不吉な。あれはただの厚顔無恥というものですわよ」
彼女たちの陰口は、魔法こそ介在しないが、毒薬のようにじわじわと私の精神を削りにくる。魔法のない世界だからこそ、一度定着した「魔女」という評価は、迷信となって独り歩きし、やがて公的な粛清の理由にすらなり得るのだ。
私はそんな嫌がらせを、のらりくらりと受け流しているふりをしながらも、内心では今後の身の振り方を計算していた。
(魔女扱いね。確かに、陛下に砂糖を多めに入れたお茶を出したけれど、あれは疲労回復のためであって、呪いじゃないわよ。……全く、若い子たちは想像力が豊かすぎて困るわ)
私は溜息を吐き、寝支度を整えようとして、ふと足が止まった。
内扉の向こう、ヴィクトールの執務室から、微かにバルコニーへ続く扉が開く音が聞こえたからだ。
時計の針は既に深夜を回っている。
私は一度、そのまま寝台に潜り込もうとした。王宮会計及び内政監査官としての職務に、王の夜更かしの管理までは含まれていない。ここで扉を開ければ、またあらぬ噂の種を蒔くことになる。
だが、四十年の人生経験というものは、時として「良識」よりも「お節介」を優先させてしまう。
「……陛下、まだ起きていらっしゃるの?」
私は寝間着の上に厚手のショールを羽織り、躊躇いがちに扉を開けた。
バルコニーには、冷たい月明かりを浴びて、ヴィクトールが一人で立っていた。
王冠も、重厚な上着も脱ぎ捨て、白いシャツ一枚で冷たい夜風に吹かれている。その背中は、二十三歳の青年が背負うにはあまりにも広すぎる「国」という重圧で、わずかに震えているように見えた。
彼は私が来たことに気づくと、振り返らずに静かな声を出した。
「……アステールか。寝ていなかったのか」
「陛下の物音で目が覚めてしまいましたわ。このような夜更けに、風邪でも引かれたら明日からの公務が滞ります。……お部屋に戻られては?」
「……戻っても、そこにあるのは血の匂いのする書類と、王という名の孤独だけだ」
ヴィクトールの言葉に、私は言葉を失った。
魔法のないこの世界での王座は、文字通り「命がけ」の席だ。彼は数日前、自らの手で義母を断罪し、多くの血を流してこの座を固めた。その決断の正しさを問う相手も、震える肩を抱いてくれる者も、彼には一人もいないのだ。
「……陛下、少しお待ちくださいませ」
私は自室に戻り、母方の実家から届いた、とっておきの「蜂蜜漬けの果実酒」を小鍋で温めた。お茶ではなく、あえて少しのアルコール。それは、四十歳の私が知っている「大人のための処方箋」だった。
「これを。お茶よりも温まりますわよ」
バルコニーへ戻り、湯気の立つカップを差し出すと、ヴィクトールは驚いたようにそれを受け取った。
「……酒か?」
「ええ。安眠のための薬だと思ってください。わたくしも、領地で帳簿が合わなくて眠れない夜は、これを飲んで無理やり脳を休めておりましたの」
ヴィクトールは一口飲み、その甘みと熱さに驚いたように目を見開いた。そして、憑き物が落ちたように、深く長い息を吐き出した。
「……甘いな。君の出すものは、いつもそうだ。冷徹な私の世界に、君だけが場違いな温かさを持ち込んでくる」
「場違い、でございますか? それは監査官として、少々心外ですわね」
私が冗談めかして隣に並ぶと、ヴィクトールはふいに、私の肩に頭を預けてきた。
「……陛下!?」
「静かにしろ。……少しだけ、このままでいさせてくれ。今だけは、私は王ではない。ただの……ヴィクトールだ」
彼の髪が私の首筋に触れ、若々しい、だがひどく疲弊した熱が伝わってくる。
魔法があれば、その疲れを一瞬で癒やすこともできたのだろう。だが、ここにはそんなものはない。ただ、一人の人間が、もう一人の人間に寄り添うという、原始的で不格好な支え合いがあるだけだ。
私は彼を突き放すべきだと分かっていた。明日の朝には、また「魔女が王を籠絡した」という噂が強まるだろう。だが、四十年の人生を生きてきて、目の前で今にも壊れそうな青年を、立場を理由に見捨てるほど、私は賢くも冷酷にもなれなかった。
「……どこにも行くな、メルセデス。私を、一人にするな」
消え入るような囁き。
私は彼を抱きしめることはしなかったが、預けられた重みを拒むこともしなかった。
「……陛下。明日も、明後日も、机の上には山のような書類が待っておりますわよ。わたくしも、逃げ出したいのは山々ですが……陛下が寝坊されるなら、わたくしがすべて決済して、国を乗っ取ってしまいますからね」
「……ふっ、それも悪くないな。君が女王なら、この国はもっと穏やかだろう」
ヴィクトールは小さく笑い、ようやく顔を上げた。その青い瞳には、わずかだが生気が戻っていた。
「……戻る。君の言う通り、安眠が必要だ」
「ええ、左様でございます。おやすみなさいませ、陛下」
彼は私の手を一度だけ強く握り、執務室へと消えていった。
私は一人、バルコニーに残されたカップを片付けながら、冷たい夜風を吸い込んだ。
胸の奥が、わずかに疼く。それは「仕事上の付き合い」と割り切るには、あまりにも危うい温度だった。
(なにした私……いえ、これは人助けよ。二十歳の若者を支えるのは、四十歳の義務なんだから。……そうよ、そうに決まっているわ)
自分に言い聞かせるように呟き、私は部屋へと戻った。
だが、私は気づいていなかった。
二人が寄り添っていたバルコニーの影から、一人の男がその光景を冷徹な眼差しで見つめていたことに。
それは、王の不調を案じて現れた側近の文官だった。
彼の目には、王の孤独を癒やす慈愛などは映っていない。映っているのは、王の理性を狂わせ、国の中枢に食い込む「四十歳の魔女」という、排除すべき脅威だけだった。




