第5話:のらりくらりの休日、王宮からの招待状は「茶会」
嵐が去った後の静寂ほど、心地よいものはない。
隣国の騎士団長という物騒な肩書きを持つ叔父のカシムが、山のような土産物と、王宮を震え上がらせるほどの威圧感を残して帰路についた。数日間、男二人の火花に晒されていた我が家の居間は、ようやく本来の平穏を取り戻したのである。
「お嬢様、本日の予定はどうされますか?」
「予定? そんなもの、お庭で日向ぼっこをしながら、読みかけの本を片付けるに決まっているじゃない」
私は執事の問いに、満面の笑みで答えた。
四十歳、独身。後ろ盾は盤石。貯えは十分。これほどまでに完璧な休日があるだろうか。
私は庭園の東屋に、お気に入りのクッションを持ち込ませた。魔法のないこの世界で、贅沢とは「時間」の使い方に他ならない。誰にも邪魔されず、ただ風の音を聞きながら、ページを捲る。それだけで私の魂は洗濯され、前世の社畜時代の記憶も、今世の苦労も、すべてがどうでもよくなるのだ。
だが、その至福の時間は、銀の盆に乗せられた一通の書状によって、無残にも終わりを告げた。
「お嬢様……また、王宮からでございます」
執事の声が、わずかに震えている。
「……今度は何? 出頭命令? それとも、叔父様の不法入国に対する詰問状かしら?」
私は溜息を吐きながら、封を切った。しかし、そこに記されていたのは、峻烈な王命ではなく、驚くほど丁寧な文面の「招待状」だった。
『先日のお礼を兼ねて、王宮の庭園にて小規模な茶会を催したい。非公式な場ゆえ、気兼ねなく足を運んでほしい』
差出人は、ヴィクトール新王。
「……お礼?」
私は首を傾げた。あの日、我が家の居間で、叔父の武圧に当てられ、母方の財力に圧倒され、真っ白な顔でお菓子を食べていたあの若造……失敬、陛下が、一体何の礼を言うというのか。
「(……ああ、そうか。きっと、断罪劇で張り詰めた心を、私のような『毒にも薬にもならない年長者』と話すことで、少しでも和らげたいのね)」
私は自分に都合の良い解釈を導き出した。二十代の若き王にとって、周囲は敵か、媚びへつらう臣下ばかりだ。四十歳の実務的な独身令嬢。かつ、叔父や実家の関係で無下にもできない。そんな私は、彼にとって「安全な話し相手」に過ぎないのだろう。
数日後。私は指定された王宮のプライベートガーデンへと足を運んだ。
案内された場所は、公式な祝宴が開かれる広大な庭園ではなく、王族の居住区に近い、小ぢんまりとした、だが手入れの行き届いた一角だった。
そこに、ヴィクトールが一人で座っていた。
外套を脱ぎ、簡素なシャツにベストという姿の彼は、王としての威厳よりも、どこか年相応の青年の脆さを感じさせた。
「……来たか。アステール」
彼が立ち上がる。その所作には、前回の敗北(と私が勝手に思っている)を引きずっているような、微かな緊張が見て取れた。
「お招きに預かり、光栄に存じます。陛下」
「堅苦しい挨拶は抜きにしようと言ったはずだ。今日は……ただの茶会だ」
ヴィクトールは私を椅子へと促した。テーブルの上に並んでいるのは、驚くほど控えめな、だがどれも私の好みを調べ上げたかのような、品の良い菓子ばかりだった。
「……これは、わたくしの領地の特産品である羊毛をイメージした焼き菓子でしょうか?」
「……ああ。王宮の菓子職人に作らせた。気に入るか、どうかは分からなかったが」
彼は視線を逸らしながら、不器用にお茶を注いだ。
その様子は、まるで初めての接待に緊張する新入社員のようで、私はつい、前世の「お局」としての母性本能が疼いてしまった。
「陛下、お茶を注ぐ時は、もう少しポットを高く持ち上げると香りが立ちますわよ」
「……あ、ああ。こうか?」
「ええ、左様でございます。……ふふ、陛下は本当にお仕事熱心でいらっしゃる。このような細やかなおもてなしまで、ご自身で学ばれるなんて」
私が微笑むと、ヴィクトールの手がぴたりと止まった。
彼は私をじっと見つめ、何かを言いかけ、そして深く溜息を吐いた。
「……君は、本当に……」
「はい?」
「……いや、何でもない。茶を飲め。冷めるぞ」
その後、一時間ほど交わされたのは、他愛のない世間話だった。
昨今の穀物の価格、冬に向けた備蓄の重要性。私はそれらを、二十年の領地経営で得た「現場の知恵」として淡々と語った。ヴィクトールはそれを、まるで宝物を拾い集めるかのような真剣な眼差しで聞いていた。
魔法のないこの世界で、国を治めるということは、こうした地味な積み重ねの連続だ。私は彼に、少しでもその重荷を分かち合えればという、親戚の叔母さんのような温かな気持ちで接していた。
「……アステール」
帰り際、ヴィクトールが私の手をそっと取った。
その手は熱く、わずかに震えていた。
「……また、呼んでもいいだろうか。公務としてではなく」
「もちろんでございます。陛下のような熱心な若者のお力になれるのでしたら、このメルセデス、いつでもお茶のお相手をさせていただきますわ」
私は快く頷いた。
馬車に乗り込み、王宮を後にする。
窓の外を流れる景色を見ながら、私は満足げに頷いた。
「(うん、いいことをしたわ。若い王様のメンタルケアも、貴族の重要な義務よね)」
だが、邸宅に戻り、自分の部屋で着替えている最中に、ふと違和感が私を襲った。
「……あ。陛下、私の手を離す時、なんだか凄く名残惜しそうにしていたような?」
鏡の中の自分を見つめる。
四十歳の独身令嬢。のらりくらりと生きてきた、ただの女。
「……まさかね。気のせいよ。お疲れなのよ、陛下も」
私はその違和感を、強引に意識の隅へ追い払った。
しかし、私の平穏な日常が、王子の執着という名の底なし沼に足を踏み入れていることに、鈍感な私が気づくのは、まだ少し先のことだった。




